第二章 五話 きっとそれは罪の刻印に違いない
あの一件の後も、少しずつではあるけれど、カペルに身を寄せる避難民は増えていった。
急激に増えているわけではないからか、食糧事情が逼迫していく兆候は、まだ見られない。
そのため、元の住民と保護された人々との対立も現状観測されず、街全体の治安も悪化している様子もない。
全体的な経過としては、レイチェルとアイザックさんが願った通り、何事も問題なく進んでいるように思えた。
が、気がかりなこともないことはない。
それは最近保護される人々の柄の悪さだ。
態度というか、彼らの纏う雰囲気というか。
ごろつき……とまでは言わないけど、態度の悪い不良というか、ヤンキーというか、そんな感じ。
共に農作業をする女性達からは、彼ら、何かするんじゃないかしら、と時折噂しているのを耳にする。
そういう話題になる程度には、悪い意味で気にはされているようだ。
対立には至っていないけど、今後何かあれば、あっという間にそうなってしまいそうな、そんな危うさはあった。
もっとも、人は見かけによらないという言葉もある。
特にこの街には、デイビットさんなるヤクザに擬態した聖堂騎士が居るだけに、その言葉の説得力はかなり強い。
僕と彼女らの不安は杞憂に終わることだって、十分にあり得る。
それに、まだ盗みやその他の厄介ごとを起こしていないし、繰り返すようだが治安は悪化していないのだ。
気にするだけ損であろう。
だからこうして、夜の街の外に出歩ける。
誰も僕を襲う人が居ない、そんな確信を持てるから、夜歩きが出来る。
無量の星と、故郷と同じくたった一つの月。
それらの淡い光に照らされる広場に、僕は今居る。
何のために?
その目的とは、鍛錬。
魔法の練習。
月の光が十分な夜、この場所で魔法を使う練習をすることにしているのだ。
現象を思い起こしてから、具現するまでのタイムラグを短くするために、新たな属性の魔法を使えるようにになるために。
魔法を使い続け、身体を徐々に徐々に慣らし、あるいは魔法を使うための動きを効率化させていく。
そう、それが目的なのだけど……
「だめだ」
闇夜に吐いたつぶやきは、諦めの音色に満ちていた。
上手くいかない、てんで上手くいかないのだ。
「上達、してないことはないんだと思うけど……」
例えば、土系統の魔法の習熟度は上がっているように思える。
想起から発動までの時間は、ぐっと短くなったし、生き物を殺傷するに能うる大きさの土塊、及び岩石も、一瞬で作れるようになった。
でも言上できるのは、たったそれだけ。
それ以外ではまったくもって進歩が見られないのだ。
例えば、ほら。
僕の足下にある指先ほどの小石。
見ればぬらぬらと表面が濡れている。
濡れている理由は簡単、僕が水の魔法を使って濡らしたからだ。
が、一度に濡らせるのはこの規模が限界。
魔法の適性を試した時から、まったく上達が見られなかった。
それは何も、水の魔法に限ったことではない。
あらゆる系統の魔法、一番得意であるはずの土でさえ、魔法の規模の拡大が見られないのだ。
「異世界の人間とこの世界の人間。魔法を使うにあたって、何か……例えば体質とかなんか。そんな大きな違いがあるのかな?」
そう思わずにはいられない。
心当たりだってある。
商人から拝借した魔法の解説本に記されていた魔力、及び魔法の基本的特性。
解説されていたものと僕のものと比した場合、いくつか異なる点があるのだ。
例えば魔力の回復。
通常、消費した魔力は時間経過で自然に回復する。
気を失うまで魔法を行使して、魔力をすっからかんにしたとしよう。
その場合、二、三日魔法を使わず大人しく過ごせば、訳なく消費した魔力を回復することができる。
ところが僕の場合は違った。
オークの群れを退けるため、多大な魔力を消費したのであるが、二、三日はおろか、四、五日経とうとも回復の兆候が見られなかったのである。
あと二、三発魔法を使えば完全に魔力が底をつく、そんな状態が続いたのだ。
使えるようになって間もないのに、いきなり無理をしたための反動か。
折角自衛の手段を手に入れたのに、もう使えなくなってしまうかもしれない。
当時はそんな恐怖に苛まれていたものだ。
けれど、今ではこうして魔法の練習して、ガンガン魔力を消費することが出来るまでに回復している。
結局僕の魔力は回復したのだ。
いや、回復した、と表現すれば自然に元に戻ったように思えてしまうか。
正確には回復させた、と表現するべきであろう。
残り僅かな魔力を振り絞って、街に襲いかかったルフを返り討ちにした、その夜のことだ。
かの魔物の肉を食らった直後、僕の魔力は何も前触れもなく、にわかに回復したのだ。
その後もルフの肉を食す度に、魔力が回復し、いや、自分の魔力の上限が上がっていくような、そんな感覚すら覚えた。
ここで僕は自覚したのだ。
自分の魔法にはどうにも特異な点があると。
魔力を自然治癒的に回復させることができず、外から補う必要があると。
いや、外から補う必要があるのは果たして魔力だけだろうか。
一向に上達しない魔法の原因も、結局はここに求めることが出来るのではないか。
考えてもみれば、僕が急に魔法を使えるようになったのは、あの出来事のあとのことだ。
そもそも今得意とする土系統の魔法にしたって、元はと言えば、かの野盗が使っていたものだ。
その切っ掛けから考えると、これ以上魔法を得意にするためには――
「それは……絶対に、絶対に駄目」
ぞくりとするような自分の想像を打ち消す一言。
もう駄目だ。それはもうしちゃいけないんだ。
例えこれから、自分を守るため、あるいは街を守るために、新たに命を奪おうとも。
その死を冒涜すること。それだけはもう駄目だと自分に言い聞かせる。
仮に僕の魔法が上達しようとも、だ。
ひゅうと夜風が僕の身体を撫でる。
闇夜により冷え切った風は、身体を震わせるのに十分だった。
「ちょっと寒いな」
このままこの場所に居たのならば、風邪をひいてしまうかもしれない。
風はそれくらいにキンキンだったけれど、でも、お陰で思考を暗い想像から離脱することができた。
今日はもう帰ろう。
気分もなんだか落ち込んでしまったし、あまり遅くに帰ると、同じ部屋の人たちが、心配するかも知れない。
風が胸元へ抜けないように、襟をきゅっと締める。
そして教会へ戻るために、踵を返す。
「うん?」
帰途の一歩を踏み出そうとしたその頃合い、僕は背中から物音を聞いた。
いや、物音というか、足音か。
僕以外の誰かが、一歩を踏みしめた、そんな体の音だった。
はて、誰だろうか。
少なくとも練習をしているときには、他人の気配は感じなかった。
門はきっちり閉ざされているから、音の主は、この街の人間であることは間違いない。
これまで何度か、こうして夜に魔法の練習をしているけど、誰かに会うことはなかっただけに、少し気になる。
僕は好奇心に負けた。
音の源と対面するために、くるりと振り向いて。
そして暴風に襲われた。
比喩的な暴風に。
「え……? がっ」
それは僕の首を掴んで持ち上げて、そのまま広場にあった東屋の壁に乱暴に打ち付けた。
どんと強い衝撃が背中から全身へと広がる。
呼吸がし辛い。
まだ首を掴まれている。
一体何が。
衝撃のせいで、チカチカする目で暴風の正体を確かめる。
二つの眼光があった。
ぼんやりと、けれども血走り、悪意に満ちた人の目。
それが真っ直ぐ僕を射貫いている。
きっと音の主は目の前の人のものだろう。
薄暗くて、まだチカチカが治まらなくて、それが誰なのか、その判別は着かなかった。
「う、ぐ。かはっ」
つまり僕は今、暴力を受けている。
この街に身を寄せている、誰かから。
どうしてこんなことを?
そう聞きたくて口を開くも、首を掴まれてるせいで気道が狭まり、上手く声が出せない。
辛うじて呼吸が出来ている、という感じ。
当然のことながら苦しい。
僕が苦しむ様が、琴線に触れたのだろうか。
ぼんやりとした二つの目の、その少し下にあった闇がぱっくり割れて、にやりと笑みが浮かび上がった。
「お前も、俺と同じで外の人間なのに」
闇に浮かぶ口は言葉を紡ぐ。
男の声で。
恨みがたっぷり籠もった口調で。
「教会にすり寄って、随分いい思いしてるじゃねえか」
ぐっと、僕の首を掴んでいる腕に力がこもる。
気道がさらに狭まって、とうとう呼吸すらままならなくなる。
呼吸が、出来ない。
「それの対価だ。しっかり払わねえと、なぁ」
俺は不遇なのに、何故お前は優遇されているのか。
許せない。
報いを受けよ。
それが目の前のこいつが言いたいことだろう。
対価? 対価だって?
そんなの八つ当たりじゃないか!
僕も他の避難してきた人にも。
教会は、隔てなくこの困難を生き抜くための、その環境を提供している。
住居も、仕事も、食料も!
惜しみなく放出してるじゃないか! 僕たちのために!
その行いに程度の差はないはずだ!
僕だけが優遇されてなんて、そんなの……!
「ち、が」
「はっ。何が違うってんだ。よく司祭に呼ばれて、騎士の長にも呼ばれて。知ってるんだぜ、その都度もてなしを受けているって。ただ魔法が使えるからってよう」
辛うじて絞り出した否定の言葉は、そいつを逆上させるだけだった。
デマもいいところの台詞が僕の顔に飛んでくる。
更に力がこもり、気道ばかりか、血管まで狭まり始める。
脳に血が、回らない。
殺される。
頭の中が恐怖に染まる。
きっと顔も恐怖に彩られたのだろう。
そんな様子を眺めて、そいつは満足げな鼻息を一つ漏らした。
「なあに、ただ罰を与えるだけ。殺しはしないさ。暴れなければ、抵抗しなければ、な。ひひひ」
下卑そのものの笑いが、嫌らしく耳朶を打つ。
下品に濡れそぼった舌が、唇を一周舐めるのを見た。
ぞっと鳥肌が立つ。
こいつ、僕を……
それは嫌だ。
これ以上の暴力を受けるのは嫌だ。
こいつに殺されるのも嫌だ!
なら、ならば。
殺さなきゃ。
こいつを。
殺される前に!
酸欠と貧血、何より恐怖により思考が上手くまとまらない。
それでも、自衛のためにと殺害を決意すると、ほとんど同時に僕はイメージを始めた。
さっき、練習でもやったように。
魔力を岩の塊に変えて。
そしてそれをこいつの顔面に――
「そこで何をやっている!」
しかし、その未来はやって来ることはなかった。
僕の魔力が岩に変わるその寸前、何処から飛んできた凜とした声にによって、状況は大きく変わったのだ。
見つかった、まずい。
そう言わんばかりの大きな舌打ちの後、そいつは僕を放り捨てて逃走。
急であったことと、首を絞められてぼうとしていたことと相まって、受け身を取ることが出来なかった。
僕はそのままの勢いで地面に倒れ込む。
「う、あ。げほげほ」
久しぶりにまともに吸えた空気は、とても冷たくてひどく濃密だった。
気管と肺が驚いたのだろう。
僕は地面に蹲りながらむせかえった。
呼吸が滅茶苦茶に荒れる。
遠ざかる奴の足音とは別に、軽やかに駆け寄る音が鼓膜を振るわした。
「ツカサ! 大丈夫?」
頭の上から気遣う声。
何とか視線を上げれば、暗闇でも目立つ紅い髪。
僕の窮地を救ってくれたのは、ケイトだった。
「げほ、けほ。う、ん。なんとか」
なんとか上体を起こして、彼女の問いかけに答える。
「怪我、してない? 首見せて」
対するケイトの行動は僕とは逆。
しゃがみ込んで僕の目線と同じ位置にまでやってきて、首をのぞき込む。
でも、暗闇の中では良く観察出来ないのだろう。
大きな碧玉の瞳を目一杯細めるも、一言。
「見えない」
と呟く。
「ツカサ、教会に戻りましょう。明るいところで見ないと、ね?」
「うん……ありがと……」
すくりとケイトは立ち上がり、目の前に左手を差し出す。
呼吸の落ち着きを取り戻した僕は、よろよろとした動きでその手を取り、なんとか起立。
そのまま彼女に手を取られながら、ふらふらと教会への帰路についた。
(……それにしても)
広場から教会の短い間、僕は思った。
誰かに首を絞められていた、その時のことだ。
僕は、それの解決策として選んでしまった。
躊躇うことはない、と既に知っていたとは言え。
いくら命の危機だったとはいえ、すんなりと選べてしまった。
人を殺して解決するという方法を。
あまりにもスムースに。鮮やかに。
いや、そもそも。
(人を殺すっていう選択肢。それが目の前に現れること自体)
本来おかしなことなのだろう、と。
そして多分それがきっと。
手段としての殺人が解決策の候補にあがる、そのことが。
人を殺したことがあるか否かの、最大の差異なのだろう。
僕はそう思った。




