第一章 二十一話 悲劇の主人公になったつもりはない
夢を見ている。
懐かしい気持ちでいっぱいになるような、そんな優しい夢。
覚醒していない、とてもふわふわした自我の中、それでも今見ている光景が夢だと気付いたのは、まず夢のシチュエーションが、ちょっと現実離れしているという点にあった。
僕は背負われている。
他でもない、僕のお母さんに。
高校生にもなったのに、母に背負われている、という状況はまさに現実離れしている、といっても差し支えなかろう。
お母さんは僕を背負ってどこかに向かって歩いている。
家の近くである、と言うことは夕焼け色に染まった、見慣れた街並みからなんとか読み取れた。
けど、何分今の僕は、夢を見るようなそんな半端な覚醒具合にある。
だから、いくら周りを見渡せど、お母さんがどこに向かっているのか、それを読み取ることはついに出来なかった。
推測することを諦めて、夢の中のお母さんに何処に行くのか、聞いてみようとした時だ。
ふと気付いたことがある。
どうにもその背中が、いや身体そのものが一回りも大きいように見えたのだ。
はて、華奢な僕の体つきは母譲りであったはず。
お母さんの身体はこんなに頼もしさをも覚えるほどに大きかったか?
その疑問はすぐに晴れた。
自らの手足を見て解決した。
見慣れた枯れ木のような細いそれではなく、ぷっくり、という言葉が小さく丸っこい手足をしていたのだ。
子供の、それも幼児の手足だ。
背中が大きく感じたのは、単に夢の中の僕が小さな子供に戻っただけのことだったのだ。
次いで気がついたことは、僕の服装。
小さい頃着たくても、着られなかった、当時憧れた服を僕は袖を通していた。
可愛らしい、という言葉が似合うあの服を。
そこで僕は合点がいった。
ああ、これは僕の願望なのだと。
こうして憧れの服を憚れることなく袖を通し、母に負ぶされる、この優しい光景。
これが僕が心の底から求めていたことなのだ。
そうと気付いてしまえば、僕が願うことなど一つだった。
どうかこの夢が覚めませんように――
目が覚めてしまえば、僕は辛い現実に放り出されるのだ。
一秒でも長く、この世界に留まっていたい。
とにかくそう思った。
身体につられて心まで幼くなってしまったのかもしれない。
お母さんにもっと甘えたいという欲求が、心の奥底からどっとあふれ出たきた。
その欲求を我慢する理由なんて、一つも今の僕には見つけることが出来なかった。
僕は思いっきり彼女の背中に顔を埋めて、その匂いを鼻腔いっぱいに吸い込む。
洗濯洗剤と食器洗剤が混ざった主張の弱い、けれども懐かしくて優しい匂いがした。
そうだ、この匂いだ。
僕の中のお母さんの匂いは間違いなくこれだった。
心がほっと暖かくなる。
匂いをもう一度嗅ぎたくて、さっきよりもより深く息を吸い込んで――
そして僕は困惑した。
匂いがにわかに変わったのだ。
主張の弱い洗剤の匂いはどういうわけか姿を消した。
代わりに顔を出したのはとても気の強そうな百合の香。
はて、この十六年の記憶の中、果たしてこんな香りのする香水をつけているお母さんの姿はあっただろうか。
いくら深く考えても、思い当たる姿は出てこなかった。
が、僕にはこの香りに覚えがあった。
誰の物だったか。
ああ、あの人の香りだ。
この香りは、そう確か――
◇◇◇
「……ぅ、ん」
そこで目が覚めた。
目の当たりにした現実が、夢なのか否かの区別がつかなかった。
何故なら僕は、夢から覚めても引き続き、誰かに負ぶされていたのだ。
白くて凜としていて、それでいて頼もしい背中を持つ人に。
身体に伝わる律動と、ほのかに感じる傾斜から、どうやらその人は、僕を負ぶったまま丘を登っているようであった。
「気がついたか?」
百合に似た香りを振りまきながら、僕を背負う背中、レイチェルは優しい声色で問いかけた。
「……上手くいった、みたいだね」
彼女のたたずまい、そしてゆっくりしっかりとした、焦りのない歩調。
そこから僕は、僕が気を失った直後の顛末を大体ながら察することが出来た。
簡潔に言うならば、僕の目論見はまんまと成功したのだ。
オークの追跡を撒き、なおかつ僕とレイチェル、二人が無傷で生還するための切り札。
それがしっかりと機能したこそ、僕らはこうして呑気に言葉交わすことが出来ているのだ。
「ああ、おかげさまで。見るか? 奴らの末路を」
一度歩みを止めた後、彼女はくるりと振り返り、オークたちの末路を僕に見せてくれた。
緑萌ゆる丘の下には、まず沼がそこにあった。底なしの、大きな沼が。
気を失う直前には、僕が拵えた広大な平たい岩盤は姿をすっかりと消し去り、代わりに陰気な灰色の沼が大きく大きく広がっていた。
僕らを害せんとしつこく、しつこく追いすがってきたオークたちも、その沼にあった。
飲まれ、溺れ、その多くの息は既にない。
息あるそれももちろんいた。
が、逃れようと必死になって暴れれば暴れるほど、見る見る沼の奥底へと引きずり込まれ、ついには晴れて死体の仲間入りする末路を辿る。
死屍累々と呼ぶに相応しい光景、と言えよう。
僕が企図したことは大雑把に言ってしまえば、落とし穴であった。
広い沼の上に、蓋となる岩盤を作って被せ、すわオークたちがその上を通過する時に、岩盤を消し去ることで、奴らを沼へとたたき落とす。
そうすることで奴らをまとめて溺死させてしまおう、という魂胆であった。
我ながら、なんともお粗末な策である。
穴だらけだ。
けれども結果はこうして大成功。
広大な沼を覆う岩を魔法で作るのは、足下がふらつくほどに疲れた。
急いでその全てを壊すのは、鼻血を流して、気を失うほど難儀した。
それらの苦労が全てに無駄にならずに済んだこと、そして今もこうして生き延びていることに対して、大きな安心を僕は抱き、ほうと一息吐いた。
「私は礼を言わねばならんな。ありがとう。命を拾って貰って」
「僕の方こそ。ありがとう。僕を救ってくれて」
僕はレイチェルに逃げてもらうために、一つ卑怯な言葉を使った。
レイチェルを逃がさなければ、僕が救われなくなる、という反則技がそれである。
けれども、まったくの口から出任せで、心のこもっていない言葉、という訳でもない。
あの時、僕は確かにレイチェルを救いたいと思っていたのと同時に、僕自身が少しでも救われたいと思っていた。
彼女を救うことで、僕がこの世界でしでかした罪が、罪悪感が少しでも軽くなるのでは、と期待していたからだ。
それはなんと厚かましいことなのだろう。
なんて自分勝手な奴なのだろう。
そう口うるさく責める優等生ぶった僕の内なる声がする。
でも、その優等生は厚かましい僕によって敢えなく撃退。
思惑がどうであれ、二人そろって生還できたのだから良いではないか、という極めて無責任な境地に、僕の心は至った。
あるいは達成感に満ち溢れた心模様、と言うべきだろう。
「あれ?」
その心情の変化が、張り詰めていた何かを弛緩させたのだろう。
にわかに僕の視界がぼんやりと歪みはじめた。
疲れからくる眠気によって、焦点を合わせることが困難になったのか?
いや、違う。
これは。
「どうした? ツカサ」
僕のその変化を、雰囲気だけで察知したのだろう。
レイチェルが優しく問うてくる。
「うん……えと……あはは。あの。あのね、涙がね……出てきて……」
その問いに僕は正直に答える。
涙が流れ出したのだと。
そう、僕は急に泣き出してしまったのだ。
「止まらないんだ……止まらないの」
「そうか」
そしてどうにも、その返答自体が僕の中の何かの堰を切る、きっかけであったらしい。
僕の中でどうにか折り合いをつけてきた激情が、僕の制御から外れた。
そいつは心の中でひっちゃかめっちゃかに暴れ回り、出口を求め、僕の涙腺という最適な門を見つけたようだった。
だから僕自身の意思では涙を止めることが出来ない。
そいつの気が済むその時までは。
「レイチェル」
僕が救いたいと思った、僕が本当に頼りになると思った彼女の名前を呼ぶ。
「ああ」
彼女は相も変わらず優しく答えた。
その優しさに僕は甘えてたくなった。
正直そのままに、胸の内にて暴れ回る激情の正体を、彼女に教えたくなった。
だから僕はその欲求に素直に従った。
「怖かった」
「うん」
激情の名は恐怖。
僕がこの世界に来てからしょっちゅう抱いてきた感情でもあった。
思い返せば、さっきまでの事態は本当に怖かった。
今までで一番怖かった。
それも当然だろう。
今までなんとかやり過ごしてきた、逃げ切ってきた死という結末が、目と鼻の先に迫ってきたのだ。
なけなしの勇気を振り絞ったことと、一切のミスが許されないという緊張感。
それらによって、いくらか恐怖心を麻痺させたからこそ、足と声が震える程度に済んでいたのだ。
では、すっかり気が抜け、真っ正面からその恐怖心と向き合ってしまえばどうなるか。
答えは簡単だ。
何かに抱きついて、めそめそと泣くだけ。
「すごく、すごく怖かった……怖かったよぅ……レイチェルぅ」
レイチェルにしがみつく力を強くして、彼女にしっかりと抱きつく。
夢の中でお母さんに甘えたように、彼女の背中に顔を埋める。
怖い夢を見た小さな子供のように怖い怖いと言って、ぶるぶる震えながら涙を流した。
「そうか。よく、頑張ったな」
そんな幼児帰りした僕を、本当のお母さんみたいに、あやす柔らかい声。
彼女の背中にぴったりとつけた額から、僕の脳髄に直接甘く響いた。
それが、トドメだった。
大声で泣きわめくまい、という小さな意地はあっさりと陥落してしまい。
僕はわんわんとただただ泣きわめいた。
――気の弱い、悲劇の主人公気取りかい? まったく、僕は本当に度しがたいなぁ。
そんな中でもお構いなしに、僕の頭の内側で、皮肉げなあの声が響き渡った。
でも、泣くの必死な今の僕に、その皮肉に対するお返しをする余裕なんて、これっぽっちもなかった。
幸い、あの声はそれ以上僕に語りかけることはなかった。




