第一章 二話 情報ないのに彷徨いたいはずなんかない
砂のにおいと、砂粒が多分に混ざった空気が鼻腔をくすぐる。
鼻の中のじゃりついた感覚。それが意識を取り戻した僕が、はじめに知覚したモノであった。
半ば眠った眼でもって眺めているためか。
目に映る鈍色の世界は、どうにも焦点があっておらず、いまいち現実味が欠けていた。
慣れか、それとも意識の覚醒に伴ってか。
徐々に失った現実感を取り戻し、よりリアルに世界の隅々を目で捉えるようになると、僕が見ていた一面の鈍色は、曇り空であることがわかった。
ああ、僕は外で寝転んでいたのか。
納得し、ほうと息を吐いたのはつかの間。
目を覚ますまでの記憶と、今現在との間に存在する猛烈な齟齬に気がつき、バネ仕掛けの人形よろしくに跳ね起きた。
「僕は……たしか」
そう、ホストクラブと表現するしかない気味の悪い空間に居たはず。
悪魔と名乗る男が、ふんぞり返ってソファに座っていた、境界という場所に居たはずだった。
その悪魔と話をして、悪魔が狂笑して、そして壁に追い詰められ――
「……僕は、扉の外へと押し出された?」
悪魔が僕の両肩をどんと押した。それが僕の中の境界での最後の記憶であった。
となれば、僕の頭によぎる疑問は一つ。
ここはどこなのか、というもの。
少なくとも扉の外へと押し出されたのだから、あの下品な境界という場所ではない。
それは確かなこと。
つまりは、この場所は境界以外のどこか、ということになる。
そこで僕はあの悪魔の言葉を思い出す。
現と異界に跨がる空間が境界であると。
僕が異界に行かなければならない運命にあると。
そしてその言葉の後に、僕は扉の外へと追い出されたのであれば、ここは――
「本当に異世界……?」
僕は確かめるように右に左にと首を動かした。
寂寥感甚だしい光景が広がっていた。
僕が寝転んでいたのは、荒野、と呼んでふさわしい場所であった。
鈍色の空と同じくらいに陰気な、赤茶色の大地が広がっていた。
もう何日も雨が降っていないのだろう。
その証拠に赤茶の地面は、乾燥により派手にひび割れ、ささくれ立ち、時折風が吹くと、さらさらとその細かい粒子が舞い上がる。
草の一つも生えていない不毛な大地。
それが見渡す限り視界にごろりと横たわっていた。
「少なくとも、ここは」
僕が訪れたことのある場所ではない。
図書館に置いてある百科事典に第三世界の問題と表した項に見るような、ひどい干ばつに見舞われているアフリカのどこか。
僕を中心に広がる光景は、例えるならそれに似ていた。
死の大地。
終の世界。
終末の風景。
僕に脳裏に浮かんでくる言葉は、いずれもとてもネガティブなものばかりだ。
このままじっと座っていると、なんだか僕自身がこのさみしい風景に溶けてしまいそうな錯覚を覚える。
地に接した太ももやお尻から、大地との一体化が始まり、そしてついには自我までもが世界と一体化していくのではないか。
そんな馬鹿げた恐怖を僕は覚える。
せん妄じみたそれをごまかすために。
僕はやおら立ち上がった。
視点を高く持てば何か別なものが見えるのではないか。
そんな期待を込めて立ち上がったのだった。
幾分か高くなった視点で眺めても広がるは、不毛たる赤銅色の大地。
右に、左に視線を振っても、やはり陰気な風景が広がるだけで――
「うん?」
いや、僕の目は何かを捉えた。
地面ににょっきり生えた、黒か、あるいは暗い灰色の影を、僕は見つけたのだ。
鈍色と赤茶が支配する世界の中、それは明らかに異物であった。
影は遠くにあるように見える。
視点を固定し、目を細め、その異物の細やかな姿を認めようと努めた。
「壁……っぽいものと……塔?」
視力は悪くはないけれど、やはり平均の域を出ないせいか。
目を細めても、それ以上影の子細を知ることは出来なかった。
けれども大雑把ながら、何かを覆い囲うように築かれた壁と、その上端からはみ出た、細く切り立った塔が、その影を構成していることは辛うじてわかった。
荒野にぽつんと存在する、自然由来ではなく人間由来の異物。
それが意味することとは。
あの遠くに見える影は、村か町か、あるいはその他の何かかもしれない。
そのいずれにせよ、共通することは。
少なくとも人の住処としての機能を有しているということと。
そして、あの場所へと向かえば、自分以外の人間に出会えるかも知れないという可能性だ。
「行く……しかないよね」
ぽつり独りごちる。
本当に異世界に来てしまったのか否か。
まずそれを判断するには、兎にも角にも情報が必要だ。
今現在僕が仕入れることの出来る情報といえば、五感による情報だけ。それは言わば主観的な情報である。信憑性は低い。
それらを総動員しても、ここはどこなのか? という問いに、上手く答えられない始末。
この事態を打破するためにも、客観的な情報が早急にも必要となる。
そしてそれの手っ取り早い解決策とは、他人との会話以外に他ならないだろう。
と、なれば。
もはや僕に人の気配のする、あの荒野の異物たる影に向かわない理由は存在しない。
だからは僕は。
ためらいがちに、けれどもしっかりとした動きで足を動かし。
見つけた異物へと歩みを進め始めた。
一歩踏み出すたびに音がする。
黄昏の教室からそのまま引き継いだ僕の上履きが。
乾ききった赤土をさくりさくりと踏み抜く音がする。
その音は陰鬱な鈍色の空に寂しく響き渡った。