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第一章 十八話 孤軍奮闘

 街の中に山があった。

 外からの脅威から街を守るために築かれた外壁、その際にそれはあった。

 緑色の山だ。

 それも自然で瑞々しい緑ではなく、汚れた、という形容詞が似合う、そんな緑の山。


 街中にある山という時点で十分奇妙であるが、観察すれば観察するほど、奇妙さが増してゆく、不思議な山である。

 よく見れば、その山体は決してくすんだ緑一色ではないことがわかる。

 黒。桃。赤――これらの色がところどころこびり付き、あるいは埋没し、あるいは陥没し、そしてあるいは流れ出ていたりもした。

 そして極めつけは山が放つ臭い。

 近付けば濃厚で粘ついた鉄錆の臭いが鼻腔に突き刺さる。


 もし、何も知らない者が、この場所に行き当たったとしたら、悪臭の根源たるその山を、まじまじと観察するのは間違いないだろう。

 そして山の全てを理解したその時、悲鳴を上げて腰を抜かすことも、また間違いなかろう。


 山の正体は死骸であった。

 不健康な緑色の体色をしたオーク。

 それが息絶え、幾重にも積み重なって山となっているのである。

 山肌に混じっていた黒や桃や赤といった色も、もちろんオーク由来のもの。

 底が見えない眼窩や口腔が生み出す黒。

 飛び出した腸、その色である桃。

 そして死に至らしめた傷口からあふれ出る血の赤――と、色の出所は極めて気味が悪いものである。

 おまけに、辺りにたちこめる臭気の元はオークの血液ときている。

 その場に居れば、否が応でも死を連想せざるを得ない、不気味な場所と言えよう。


 死が充満した空間。

 そう呼んで相違ない場にて、その評価に抗う音があった。

 生きた音がするのだ。

 そう、それは荒い呼吸の音。

 目を瞑って耳を傾ければ、大きく肩で息をする誰かの姿が自然と浮かんでくるような、そんな荒い息がそこにあった。


 その主は一人の女性であった。

 癖のない銀髪に、翡翠を連想させる切れ長の瞳を持つ女騎士、レイチェル・アンダーソンは愛剣片手に、荒れる息をどうにか整えようと試みている最中であった。


「ちっ」


 だが、それは叶わず。

 まだ息絶えていないオーク一体が鉄砕棒片手に、彼女を害するがために猛進。

 レイチェルはその対応に迫られたからである。


「う、あああああああ!」


 肺一杯に空気を取り込みたい、その生理的な欲求を強引にねじ伏せてレイチェルは吠える。

 オークの激烈な一撃を、レイチェルは身体を半身にすることで躱す。 

 直後、お返しとばかりに鋭利な一閃をオークへと振振り抜いた。

 刃が肉にめり込み、斬り開く感触が、柄を通してレイチェルの身体に伝わる。

 さきほどより何度も何度も覚え、いつまで経っても慣れそうにない、ずぶりと嫌な感触。

 その次にやってくる感触は、こつんと刃が骨に当たる手応え――そのはずだった。


「ちっ」


 骨の手応えは伝わってこなかった。

 分厚い肉の前に、刃の勢いは完全に殺され、骨に至るその前に彼女の一閃はぴたりと止まってしまったのだ。

 即死するにはいささか浅い位置で止まってしまった、彼女の愛剣。

 腹を斬られた痛み、鋭利な刃がなおも腹の内に留まる苦痛に、オークは耳を劈く悲鳴を上げ、半狂乱となって暴れ回る。


 これは危ない。

 剣と共に身体がどこかへ持って行かれかねぬ。


 そう判断したレイチェルは、腹に埋まった剣を引き抜いた。

 ずぶりと音を立てて抜け出た騎士の証、それが作り出した傷口からでろりと腸が飛び出た。 でっぷりとした自らの腹から、臓物が飛び出る光景を目にしたオークは、それが自らにとって大事なモノであるという認識はあるらしい。

 必死の形相となって、飛び出た臓物を元ある場所へ戻そうと、跪き、両手でもってそれを傷口に押し当て始めた。


 ぞっとする光景であれど、大きな隙には違いない。

 どうしても抱く生理的嫌悪感を飲み干し、レイチェルは自分を眼中に収める余裕すらなくしたオークの側頭を一突き。

 今度は何も阻まれることなく、一撃でもって命を散らせた。


「ふふ」


 レイチェルに笑みがこぼれた。

 もちろん楽しいからだとか、嬉しいだとか、そういった喜びの感情からの笑いではない。

 自嘲という負の感情が導いた笑いであった。

 その呼び水となったのは、文字通りの屍の山を築いた彼女が手に持つ剣である。

 見ると、オークの脂によって刃の輝きは完全に失われ、白っぽくぼんやりと曇っていた。

 加えて、かたい骨を無理に押し斬り続けた代償であろう、刃こぼれも認められる。

 それもその数は一つ、二つではなく、両指を目一杯使っても数え切れないほど。

 無数の刃こぼれのおかげで、いまや立派な剣も、使い古した粗末なノコギリ、といった風を醸し出していた。


「これなら無理もない」


 一刀でもってオークの息の根を止められなくなってしまった。

 半ばノコギリと化した剣がために。


「まさか私が疲れ切るその前に、こっちがダメになろうとは」


 自分の体力を誇るべきか、あるいは剣をここまで酷使した自身のがさつさを呆れるべきか。

 判断に迷う複雑な感情をレイチェルは抱いた。

 指一本動かすことが出来なくなるまで身体を動かし、その果てに奴らの餌食となる。

 そんな結末を想定していた彼女にとって、この事態は想定外であった。


「……参ったものだ」


 ちらと相対するオークの群れに目をやる。

 先ほどまで奴らはレイチェルに圧倒的な実力と、気迫を前に恐れを抱いていたようであった。

 覚悟を決めた勇敢、あるいは蛮勇極まる一体が前に進み、彼女に襲いかかり、返り討ちにあい、命を散らせていく。

 そんなことを何度も繰り返していた。

 

 だが、先にレイチェルが一撃で仕留め切れなかったこと、それが契機だったのだろう。

 このまま押し切れば、この女を倒せる。

 その確信を得たのだろう、オークらのその表情に、今や一片の恐怖も見て取ることが出来ない。

 むしろ、彼女を退けたその後を想像しているのか、明確に雄の本能を露わにしている個体すらいた。


「能うなら疲労困憊で、意識が薄くなってからの方がありがたいのだが」


 どうにも、その未来は訪れそうにもない。

 先に剣が完全に使い物にならなくなり、攻撃手段を失う方が先だろう。

 となれば、彼女のその肉体に、オークの手が次から次へと殺到するのは間違いあるまい。

 そしてその後に待つものは、筆舌に尽くしがたい凄惨なオークの宴。

 ああ、それは嫌だな、とねじ伏せがたい嫌悪を覚えつつも、レイチェルは後ずさりをすることはなかった。


 元よりレイチェルにこの場を切り抜け、司に追いつこうという考えなど、端から持ち合わせていなかった。

 司一人を逃がすために、逃げ切る時間を稼ぐために、ここで一人戦い足を止め、追いかけるオークを食い止める。

 一人を逃がすために自身を犠牲にしよう、そう決意したのだ。


 戦う力が尽きたところで、死という安息がレイチェルに訪れることはないだろう。

 雄の欲望がその身に襲いかかるのは自明だ。

 そうなるその前にさっさと自害したいところであるが、レイチェルにそれは許されない。

 何故なら、司が逃げ切る時間を一秒でも絞り出すため、暴力的なオークの本能に身を投げ出さないとならないのだから。


「きっとっ、力尽きる前に得物がバカになり始めたのはっ! 神のお怒りだろうかっ!」


 次から次へと襲い来る、勝機を見出したオークをいなし、沈黙させながらもレイチェルは独りごちる。


 汝、貞淑であれ。

 神が民に与えたとされる、経典にあるその一句からすれば、レイチェルの覚悟は確かに破戒に相当するものと言えよう。

 ならば、罰が与えられねばなるまい。

 疲労により前後不覚の体にならず、オークどもの本能に付き合わねばならなくなりそうなのは、きっとそれなのだろう。


「だがっ、悔いはない」


 そんな悲惨な未来が目の前に迫っているにも関わらず、レイチェルの心に後悔の欠片も存在しなかった。


 確かに自分は地獄にたたき落とされることだろう。

 しかし、そのことによって救われる命が一つあるのだ。

 自分は人を救えることが出来る。

 その事実一つがレイチェルに強い達成感を与えていた。


「もう御免なんだ。救えるかもしれない命を見捨てるのはっ!」


 心苛む光景が彼女の中にはあった。

 それが目蓋の裏に焼き付いたのはつい最近のことだ。

 唐突に世界を襲った大災害があったあの日。

 経験したことのない地震がカペルを襲いながらも、なんとか被害を受けなかったあの日。

 避難と誘導の為に、街の外に駆けだしたレイチェルは見た。

 突如として地が割れるその瞬間を。

 そしてその裂け目に逃げ惑う人々が飲まれるところを。

 遠くに見えた、他の街の大きな教会が沈んで消え去ってしまう光景を。


 今でもレイチェルは思う。

 あの瞬間、声を大にしてして注意を促していれば、人々は地割れに飲まれなかったのではないかと。

 地面が揺れた瞬間、早馬を飛ばしてあの街に行っていれば、街と住民全てが消え去るという悲劇は免れたのではないかと。


 だがレイチェルは出来なかった。

 手の届く場所にまた救うべき人々が居たからだ。

 恐慌する人々を落ち着かせ、カペルの教会へと避難を促すその役目。

 先に抱いた『たられば』は、既に受け持っていた使命を放棄しなければ実現できぬもの。

 レイチェルはただ、使命を忠実に果たしただけのことであり、彼女の取った行動には非が当然あるわけではない。

 身近にあって、しかも確実に救える命と、遠くにあって、救えるかどうか解らぬ命。

 その二つを天秤にかければ、どちらに傾くかなど今更論ずる必要もあるまい。

 本来なら仕方がなかった、と割り切る問題なのだ。


 レイチェルが未だ心苛むのは、その割り切りが出来ていないからだ。

 宗教に深く帰依したのも、罪なき人々の盾となる聖堂騎士となったのも、全てはより多くの命を救いたいと願ってのこと。

 仕方がなかったと割り切るのは、レイチェルにとって命を選別しているようで、我慢ならなかった。

 全ての命に意思があり、家族があり、幸福がある。

 仕方がないからこの命は切ってしまおうとするのは、それらもろとも捨て去る悪行ではあるまいか。

 レイチェルはそう考えていた。


 だからレイチェルは人命を見捨てた事実に苦しんできたのだ。

 今の今まで。


 今度は絶対に救ってみせる。

 その強い一念がオークの群れにたった一人で立ち向かう、唯一の理由であった。


「あああああああ!」


 なまくらとなった得物、しかしそれでも一撃でオークを仕留めんが為に、レイチェルは渾身の力を込めた。

 お馴染みとなった刃が肉に食い込む奇妙に柔らかい感触がやってきた。

 そして肉を引き裂き、刃が骨へと向かうその途中であった。

 がつんと硬質的な手応えの後、一切の手応えが消え去り、彼女の愛剣はにわかに空を斬った。


「おわり、か」


 視線を手元に移せば、その原因がわかった。

 剣身の中腹のあたりから、切っ先にかけて、ぽっきりと破断してしまっていた。

 とうとう、得物が壊れた。


 十分に覚悟していたとはいえ、背筋が凍るような恐怖にレイチェルは見舞われた。

 だがしかし、背中を見せて逃げるような真似はしなかった。

 

 オークの好色な視線がレイチェルに突き刺さる。

 どうやら、彼女の武器が壊れ、勝利が彼らの手に落ちたことを悟ったらしい。


「……貴様らの勝ちだよ。好きにせよ。ただ、最後まで抵抗させてもらうがな」


 内心をじわり浸食する恐怖に抗うように、ぎらりと歯を見せる野性的な笑みをレイチェルは浮かべた。

 組み敷かれようと、大人しくされるつもりは毛頭なかった。

 機会あれば、噛みちぎってやろう。

 そう思える程度には、闘争心もあった。


 だが、オークにとってはそれはただの強がりにしか見えなかったらしい。

 抵抗宣言も意に介せず、耳障りな咆哮、きっと勝利に喜ぶそれがあちこちから上がった。

 そして。

 もう辛抱たまらぬ、待ちきれぬと言った風情の一体が、勢いよくレイチェルへと向かい、のしかかろうと――そうしようとした。


「な」


 驚きの声が生まれる。

 それはレイチェルのもの。

 時を同じくして困惑のざわめきがその場に生まれる。

 そっちはオークたちのもの。


 レイチェルもオークも驚くのも無理もない。

 一方は敗北を悟り、そしてもう一方は完全なる勝利を手に入れたはずなのに。

 レイチェルに手をかけようとした、その一体の頭が前触れもなくはじけ飛んでしまったのだから。

 ぐらりとオークの身体が沈む。

 何が原因でそのオークの頭が爆発したのか。

 レイチェルも残ったオークらもさっぱりそれを把握することができなかった。


 ぶん、と空気を押しやる鈍い音がレイチェルの鼓膜を振るわした。

 その一拍後、さらにもう一体のオークの頭が爆ぜる。

 再びざわめくオークたち。

 まだ何が起きたか、それを理解できていないらしい。


 しかし今度のものは、少なくともレイチェルの方は把握できた。


「どうして」


 ぽつりレイチェルは呟く。

 怒っているような、安堵しているような、心配しているような、ひどく複雑な声色だ。


 オークが急に絶命した理由は何か。

 頭が爆ぜるその直前、空気を振るわす鈍い音を作り出したのは何か。

 それらの答えは共通していた。


 鋭利で大きな岩。

 それがどこからともなく宙を走って空気を押しのけ、勢いそのままにオークの頭が衝突したのだ。


 岩が独りでに宙に浮いて、あまつ勢いよく飛んでくる事態なぞ、あり得ぬこと。

 つまりは投げるなり、なんなりの方法をとって、岩を射出した者がいると言うことだ。


 一体誰が?

 レイチェルにはその人物に心当たりがあった。


「どうして戻ってきた……ツカサァ!」


 振り返る。

 先に司が作り、そこから逃げた抜け穴に視線を寄越す。

 その入り口、即ち外側ではなく、街の側にそれは居た。


 顔をゆがめ、足はもちろん全身を振るわせて、恐怖を露わにしている小柄の人影がそこにあった。

 それはレイチェルが決死の覚悟で逃がした人物。

 饗庭司その人に他ならなかった。

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