第一章 十六話 迫る危機に対して焦らずにいられるほど、僕は豪胆じゃない
アスファルト舗装に慣れ親しんだ身だからだろう。
石畳、それも轍のあるそれの上を走るというのは、中々に難儀なことであった。
ちょっとしたデコボコに足を取られ、その都度転ばないようにと、脚を緩める羽目となる。
そうすると、例外なくもどかしい思いに駆られる。
自身の不器用さを罵りたくなる。
非常時にも関わらず、僕は真剣になって走れもしないのか! と。
転びそうになっただけで、何を自虐に走る必要があるのか。
僕の心中をのぞき見る人が居るとして、何か感想を抱くとなれば、それになるであろう。
ご指摘はごもっともと言えるだろう。あくまで平時の話、であれば。
今僕がおかれている状況においては、まごつく時間の全てが惜しい。
出来ることなら大金を積んで、ロスした時間を買い戻したいくらいだ。
何故であるならば。
「ええい、しつこい!」
豚の耳障りな嘶き、来たる。
僕らが疾駆する通りと交差する右手の路地から、荒い鼻息と共にぬるりと巨体の影が迫る。
レイチェルがしつこいと吐き捨てたその対象、それは言うまでもなくオーク。
僕らを襲わんとするオーク。
そう、僕が要領悪くのろのろとする度。
僕らは奴らと遭遇してしまうのだ。
これが自己叱責の理由。
「祓魔っ!」
もっとも、遭遇したとてオークは接触に叶わない。
僕の先を走るレイチェルの間合いに入るや否や、奴らはその生命を文字通り両断される。
今のオークもそうだ。
彼女の剣の結界に不用意に足を踏み入れた結果、腹に一閃を受け、臓物をまき散らしながら地に沈む末路を辿った。
「レイチェル、前」
一難去ってまた一難とはまさにこのこと。
オークを一つ沈めたと思いきや、進行方向少し先にある辻にて、真っ正面から新たにオークが寄ってくるのが見えた。
数は三つ。
いくらレイチェルとて、その三体を仕留めるとなれば足を止めて戦う必要があろう。
けれど、先の通り脚を緩めれば、何処かよりオークの襲撃を受けてしまうのが現状。
身の安全を考えれば、出会ったオークは全て始末しておきたい。
にも関わらず、ここで足を止めれば新手がわき出て、処理すべき対象が増えてしまう。
それを倒すために時間を費やせば、また新手――と、大きなジレンマに陥ってしまうだろう。
「ツカサ! 頼んだ!」
言うや否や、レイチェルは先頭に居たオークを一刀で斬り伏せ、交差する左の路地へと身を滑り込ませる。
僕もそれに追随。
そして曲がった先で踵を返し、建物の一つの壁にそっと手を当てた。
ちらとオーク共の様子を見る。
やられた一体の遺骸がごろりと転がっていた。
先行する一体がにわかに倒れたものだから、他の二体はやや対応に手こずっていた。
そろって躓き、僕らを追う脚色が大きく鈍る。
これは隙だ。
多分稼げた時間は僅かなものだと思う。
けれども隙は僅かで十分。
僕に想起する時間さえ与えれば。
奴らの行く先塞ぐ壁を拵えることなど、容易いことだった。
低い物音と共に具現した石壁を背に、僕は先行くレイチェルを追う。
「これで、またしばらくは後ろを気にせず走れるな」
取り敢えず直近の追っ手の行く道を阻めたことに、レイチェルは少し表情を緩めている。
確かに、言う通りと言えば言う通り。
けれど喜んでばかりもいられない。
魔法によって道を塞いだのは、先の襲撃が初めてではなかった。
辻にて真っ正面から襲撃を受け、左右いずれかに曲がり、方向を変え、道を塞いで、しばらく走ってはまた襲撃を受け――という一連のルーチンを既に五回ほど繰り返してきた。
しかもオークが現れる場所というのは、決まって僕らが走っていた道よりも、幅員のない道との交差点であった。
即ち襲撃を受ける度に、僕らが行く道はどんどん狭くなっているのだ。
今のそれだってそうだ。
馬車が通るには狭い道なのだろう、先の道まであった轍が、路面の何処を見ても見つからない。
もはや路地裏と呼んで差し支えない道に、僕らはいる。
逃げる度、逃げる度、どんどん狭くなってゆく道。
一つの懸念が僕の脳裏に走る。
「……もしかして、僕たちは逃げているようで、その実、ただ追い込まれているだけ?」
単純な魚の罠と同じだ。
大きくて入りやすい入り口を潜れば、あとは幅が狭まるだけ。
やがて罠の底に至れば、もう手遅れ。
前にも進めず、引き返すことも能わず、美味しくいただかれるだけの結末があるのみ。
エクレという巨大な罠の底に向かって、僕らはひた走っているのではないか。
抱いた懸念とはそういうこと。
「その可能性はあるやもしれん」
そしてレイチェルも僕と同じ懸念を、抱いてはいたらしい。
だが、深刻な声色で呟いた僕とは違って、彼女のそれには暗い音色は含まれてはいない。
むしろ楽観的なものすら感じられる。
「……心配、してなさそうだね」
だから思わず呆れを乗せた声で、僕は聞く。
どうして楽観的にいられるのかと。
「まあ、確かに、今、私たちは出口も何もない外壁が待つ先へと、追いやられてる感はある」
「それって……かなりマズいことなんじゃ?」
異世界の人間である僕は、当然のことながらこの街の道が何処に繋がっているかなんて、まったくわからない。
一方レイチェルは、そしてエクレに訪れたのが初めてではない上に、教会の人間であることもあり、土地勘がそれなりにある。
そんな人間が、あっけからんと今現在、懸念が現実になりかかっていることを告げたのだ。
恐怖を抱かない理由はなく、現に僕の背筋はぞくりと粟立った。
「マズいさ。普通であるならば、な」
「今回は違う、と?」
「ああ。ツカサ、君が居る」
「僕が?」
僕が居ることが理由で心配する必要がない?
それはどういうことなのだろう。
自分で言うのも悲しくなるが、僕は臆病だし、レイチェルみたいに剣で戦えないことはもちろん、運動神経だって良くはない。
この世界に飛ばされて、どういうわけか使えるようになった魔法の力はあるけど、使える範囲が極端に狭いときた。
どう考えたって、役に立つ人間だとは思えない。
「君は土系統の魔法が得意だろう? なら話は簡単だ。例え外壁に追い込まれようとも、君が壁を操って、出口を作ってしまえばいい」
確かに僕は岩を操作する力(どうやら土系統の魔法と言うらしい)を何故か手に入れた。
レイチェルはその力でもって、壁に穴を拵えて逃げればいいと言う。
でも、僕はそんなにことが上手くいくだろうか、と疑問に思った。
簡単に外壁に穴が空けられるのであれば、最早この街のみならず、この世界の外敵から身を守るための石造りの壁は、まったくもって用をなしていないことになる。
城壁を突破するのに、大掛かりな攻城兵器なんか必要ない。
土系統の魔法が使える者を、適当に貼り付けてしまえば事足りる。
そんな致命的欠陥を持った防衛機構が、今もなお現役で活躍しているとは到底思えない。
しかし、現実には立派な壁をこの街は有している。
と、なれば、魔法に対して何らかの対策を施しているはずであり、魔法で穴を空けることなんで出来ないはずと見るべきだろう。
「魔断石と言ってな。片面からは魔力を通し、片面からは魔力をまったく通さない。そんな素材が使われているんだ」
得心いかず、という心情が顔に表れていたのあろう。
僕の心情に忖度したレイチェルはざっくりとした解説を口にした。
「外からの魔法対策は解るけど……内に対策をしてないのはどうしてかな?」
「有事の際、君のような魔法使いを呼んで、壁そのものを操作して、一種の防衛兵器にするんだそうだ。大体が籠城の終わりの方に見られる光景らしいがな」
まあ、確かに壁そのものを兵器に転用するなんて、出来れば避けたい選択だろう。
石を矢にして飛ばす運用をした場合、飛ばした数の分だけ壁の石は当然の如く薄くなる。
調子に乗ってばんばん飛ばしてたら、気付いたら壁がベニヤみたいになってて、簡単に突破された、なんて本末転倒もいいところだ。
とはいえ、なるほど、それなら確かに僕でも十分に役に立てそうだ。
疑問が氷解したところで、何も口にせず、ただ先を走るレイチェルを追う。
建物と建物の間を縫うように伸びる路地をひた走る。
交わす言葉がなくなり、僕とレイチェルの足音が狭い道に響き渡っていた。
◇◇◇
僕らの左右にそびえ立っていた建物たちが、急に姿を消して、視界が大いに広くなる。
続かなくなった建物より、十数メーター先にそれはあった。
石のブロックが積み重なった、空高く伸びる外壁。
その足下にとうとう僕らはたどり着いた。
壁そのものが日光を遮り、辺りは薄暗く、じめじめと陰気な空気を漂わせていた。
そんな陰気な空気に誘われてか、あるいはだからこそ陰気な印象を受けたのか。
筵とゴミを寄せ集めた塊が、そこかしこにある。
かすかにアンモニア臭すらする。
それらはきっと、ここに多くの薦被りが居た痕跡であろう。
生活臭感じられるゴミの塊は、壁に近付くほど多い。
路地を抜けた先は、薄暗い場所だった。極めつけにそこはホームレスの住処。
普通に生活していたのなら、来たくもない場所だし、誤って来てしまったとしても、すぐさま踵を返すことだろう。
だが、今は平時に非ず。
僕は踵を返さずに、真っ直ぐに陰気な空気を醸造し続ける外壁へと駆け寄った。
そして両手で壁に触れる。
ひんやり、ざらりとした石の感触。
それに対する何かしらの感想を抱くより速く、僕は想起した。
イメージしたのは、植物の種が土をかき分け、根を張る姿。
魔力の源泉たる僕を種に見立て、土は壁、根は魔力。
きちんと魔力を壁の外へと浸透させなければ、出口を作ることは出来ない。
だから必死になって想起し続け、魔力を壁の外へと押し出そうとした。
速くしないとオーク共がここにやってきてしまう。
焦りを覚えながらも僕は、想起して、想起して、想起して、想起して――
「っ」
しかしその想起は途中で途切れる。
僕の予想以上の事態に見舞われて。
急に声にならぬ声を出した僕に対して、レイチェルは心配そうな視線を投げかけていた。
「どうした、ツカサ」
「この壁……すごく厚い」
予想を超えたのは、この壁の分厚さだ。
自分の魔力がどの辺りまで浸透したのか、説明に難しい感覚によって漠然とだけど、それを知ることが出来る。
その感覚が告げたのだ。
自分ではではもう十分浸透させたつもりでも、壁の向こう側へは遠く、まだまだ想起する必要があると。
その事実に驚いて、思わず想起をやめてしまった。
冷静に考えてみれば、壁が想像を絶するほどに厚くて当然だ。
外敵から街を、街人を守るためのものが、そこらの民家と大して変わらないことの方が問題なのだから。
「出口作るの、時間かかりそう」
一刻も争う事態なのに、時間をかけなければ出口すら満足に作れないなんて!
自分のあまりの情けなさに強く下唇を噛む。
「そうか。だが、焦らなくてもいい。確実に作ることをだけを考えてくれ」
多分、今の僕はとても焦っているように見えるのだろう。
返ってきたレイチェルの声は、泣きべそをかく子供をあやすかのような、そんな優しさに満ちていた。
ちらと、背後のレイチェルを見る。
いつのまにやら、彼女も僕に背を向けている。
僕らが来た道からやってくるであろう、オークの襲撃に備え、まだ何も居ない虚空に向け、自身の得物を構えていた。
僕の視線に気付いたのか、レイチェルは僅かに顔を横に向け、目線を僕に寄越す。
先の声色同様、とても優しい目をしていた。
「大丈夫。安心するがいい。私が守る。連中が襲ってこようとも、一体たりとも君の下へは――」
その言葉の先に彼女は何を言おうとしたのだろう。
僕はその言葉を聞き取ることが出来なかった。
外的要因によって。
鐘塔で聞いたものとは、比べものにならないくらいに大きな轟音が、にわかに僕の身体を激しく震わせたのだ。
音の原因は探さなくとも見つかった。
僕らが走り抜けた路地の両脇にそびえ立っていた建築物、その双方の根元にあたる壁が、はじけ飛んだのだ。
そしてはじけ飛んだのは、その建物だけではない。
その隣の、さらにその隣の、もう一つその隣の――と言った具合で僕らに平行する、複数の壁が崩れ飛んでいた。
土煙立ちこめ、視界は著しく悪化。
けれども、壁が吹き飛んだ、その原因を特定することを難しくするには至らなかった。
何故なら、その原因の方が自ら土煙をかき分けて、僕らの視界が効くところまでにじり出てきたのだから。
「……あはっ」
僕の口から乾いた笑いがこぼれ出る。
どうやら人間、恐ろしく強い感情を抱くと、意図せず笑いが漏れ出るらしい。
例え、それが恐怖と絶望という、愉快さとは真逆の感情であっても。
ああ、畜生。
追いつかれた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。




