第一章 十三話 どんなにクズでも、自己嫌悪に陥る程度の良心は捨ててはならない
目の前に野獣が居る。
それも肉食の野獣が。
もの凄い勢いで肉にかぶりつき、一心不乱に飲み込んでいる人型の野獣を、僕はいささか面くらいながら眺めた。
「む」
野獣――もとい、彼女が僕の眼差しに気付いたのか、咀嚼を取りやめ肉へと向けていた視線を僕に寄越した。
切れ目の翡翠の瞳に、癖のない真っ直ぐな白銀の毛髪。
間違いなく美人の範疇に入る彼女は、僕が水浴みのために入った川にて、互いに裸で出くわした女性だ。
レイチェルと名乗った彼女は、僕が何に面を食らっているか、それを理解したらしい。
シミ一つなく、肌理の細かく色素の薄い頬を僅かに赤らめた。
「や、済まない。その……肉は久しぶり故。川といい、今といい。先刻より見苦しい姿のみを見せてしまっている」
軽く頭を下げて彼女は謝意を示す。
今の姿はともかく、川での一件を見苦しいと評するのはいかがなものだろうか。
彼女のそれが見苦しい姿なのであれば、僕のは直視に耐えなくて、名伏しがたい、極めておぞましきものになってしまうだろう。
もっとも、その今の姿にしたって僕も人のことを言える立場ににない。
「面を食らったのは事実だけど……でも、僕だってこれだし。人のこと言えないよ」
手頃な石に腰掛けている僕の膝の上に広がるのは、数多の干した果実たち。
何しろ、植物質はここしばらく摂取してなかったのだ。
モノを語る時を除いて、僕が一心不乱にそれらを口の中に頬張る理由はそれである。
多分黙々と口を動かすその様は、齧歯類を彷彿とさせるものとなっていることだろう。
「ん。そう言ってくれると助かる。しかし都合が良かった。まさか互いに口にしたいと願うものを持っているとはな。これも神の導きによるものか」
感謝、と大きく印を切ったレイチェル。
互いに裸で、という端から見れば極めて間抜けな初接触を果たした彼女と、こうして食事を共にしようと提案したのは僕からであった。
エーファと接触できて、そして本を手に入れてこの世界の情報をいくらか手に入れることが出来たけれど、まだ十分な量とは言えない。
だから、是が非でも彼女と友好的な関係を築いておきたい、と願っての提案であった。
素っ裸の邂逅であったから、警戒されて当然と思った。
けれど意外にも、彼女もこの提案には乗り気だった。
とんとん拍子に話が決まり、日が暮れる一歩手前にくる時分には、こうして焚き火を囲み、僕は昼前に仕留めた怪鳥の肉を、彼女は保存食の干しイチジクを筆頭とした、果物を出し合うことになった。
その後については多くを語ることはあるまい。
ご覧の通り、河原に一匹の肉食獣と一匹の齧歯類が爆誕することとなった。
「ふう。馳走になったな。礼を言う」
「いいえ。僕もいい物食べさせて貰って嬉しかったな。ありがとう」
気付けば肉もなく、果物もない。
膝の上に僅かに散った残滓を叩いて払いのけた。
「さて、食事も終えたことだ。改めて名乗るとしよう。私はレイチェル。一応、聖堂騎士として名を連ねる者だ」
これが騎士の証、と言わんばかりに傍らに置かれている、大ぶりな剣を指しながら彼女は言った。
聖堂騎士。
この世界でひろく布かれている宗教、再生教に所属している騎士である。
教えが全人類に浸透しきり、その時こそ、人類は真の意味で平等となり、永遠の安寧を手にすることができる。
故に祈れよ、教衆。善き行いをせよ、教衆。すべては平等のために――乱暴に言えば、再生教の思想はこんな風だ。
そして、そんな素晴らしい教えを作った神を、唯一無二の存在として崇めるのが特徴だ。一神教、ってやつだろう。
「じゃあ、僕も。僕は司。名前はちょっと変わってると思うけど、肩書きも何もない普通の人間だよ。改めてよろしく」
「こちらこそ改めて、だ。さて、二回目の挨拶はそこそこにしたい。少しばかり、聞きたいことがあってな」
生真面目そうな面立ちを、なお引き締めて、レイチェルは問いかける。
その様子に僕もつられて、思わず姿勢を正してしまうと、彼女は再び相を崩してにわかに苦笑いを浮かべた。
僕がつられて姿勢を正したのを、彼女はどうやら、僕が生まれた世界風で言えば、職質を受けるが故の緊張と捉えたのだろう。
姿勢を正す必要はないと言わんばかりに、慌てた様子で二、三回右の手のひらをひらひらと振った。
「ああ、なにもあなたを取り締まる訳ではないのだ。そう緊張しなくても良い。ただ、この界隈の現状は如何なるものか。私は使命としてそれを知らねばなくてな。私は余所者故この辺りに疎い」
聖堂騎士とは教会の保有する武力である。
敵対する勢力との武力衝突はもちろん、教会領にて治安維持の役も背負っている。
彼女の言う使命とは、まさに治安維持の役を指しているのだろう。
役目を遂行するためには、まずは情報が必要なのは想像に難くない。
それに、この終末的な壊滅を見せている世界であれば、なお、情報の価値は重くなろう。
僕からそれを得ようとする姿を見るに、彼女はとても真面目な女性なのだろな、と思った。
実は僕が目指している街も教会所有のものであった。
そのため、僕は彼女が聖堂騎士であると表した時には、きっとその街に身を置く騎士なのだろうと推測した。
が、彼女がわざわざ余所者と称したからには、彼女の所属は別のところにあるのだろう。
だから、僕の返答は彼女の期待には全面的に応えられないものとなる。
僕だって余所者なのだから。
「うーん、僕もこの辺りにははじめて来たからよく解らないんだ。ただ」
「ただ?」
「僕はここより南の方から来たのだけど……そっちは本当に酷かったよ。岩山が吹っ飛んでね、その砕けた山体が……街に、人に……もう……」
けれど、せめて自分の知っていることは彼女に伝えるべきだろう。
真面目な彼女に報いるためにも、なによりも、僕だって彼女に聞きたいことがあるのだ。
誠実にレイチェルに向き合わなければ、失礼だ。
そんな思いで、僕は見たこと、知ったことを語った
。
潰れた家、腐った食べ物、ぐちゃぐちゃの人体、触ってしまった骸、蠅の羽音、腐敗臭。
言葉として表しているとその途中、僕が街で見てきた悲惨を極めたそれらが鮮明によみがえった。
あまりに鮮明に思い出してしまい、顔より血の気が引いていくのを知覚した。
多分、今の僕の顔色はとても悪いことだろう。
「……そうか。申し訳ない。嫌なことを思い出させてしまって」
そんな僕を見て、レイチェルはバツが悪そうな顔を作って頭を下げた。
「ううん。気にしないで。僕からも聞きたいことがあるのだけど、いいかな?」
「私に答えられることなら如何なるものでも」
「さっき余所者って言ってたけど、貴女は何処から来たの?」
「ここより東に三日、四日ほど歩いたところにある、カペル、という小さな街があってな。そこより来た」
「そこは……その、被害は?」
「幸いにも、無事ではあった。ただ近隣の街々は……地が割れて、文字通り。そう文字通り消滅してしまった。住民ごと……」
「……そう」
レイチェルに言葉には、悔しさが見て取れた。
まだ出会って僅かな時間しか経ってはいないが、この生真面目なそうな騎士のことだ。
きっと何も出来ず、この世から消え去ってしまった街に対して、何も出来なかったことを悔やんでいるのだろう。
何か出来たのではないか、完全に救うことは出来ずとも、それでも悲劇の度合いを浅くすることが出来たのではないか。
そんな悔恨が、レイチェルの全身からにおい立っていた。
「私は……何も」
そして、その推測を補完するような言葉を、彼女は呟く。
ぽつりと小さいそれは、僕に向けてはいないのだろう。
ただレイチェルはじっと地面を見つめ、下唇を噛んでいた。
「もう、一つ聞きたいことがあるんだけど」
「む。ああ、何か」
「さっき貴女は、使命、って言ってたね。ここに、何のために来たのかな?」
治安を維持するというのは確かに騎士の使命だ。
だが、本来彼女は別の地の者。
最優先すべきは、彼女が身を置くカペルという街の平穏を保つことであるはず。
が、レイチェルはその地より離れたところで使命を果たさんと言っている。
いくら直接的に被害を受けてはいないとはいえ、大きな災害の前に人心は大きく乱れているはずだ。
あまりその地を離れるのは良くないように思える。
そうなのに、わざわざ街を出る必要があるほどに重要な使命とは何か。
僕は単純にそれが気になった。
「確認のためだ。この近くにエクレ、という大きな街がある。そこは教会が治める街なのだが、今、健在か否か。それを確認すべくきたのだ」
エクレの街というのはエーファから聞いた、被害を免れ秩序を保っている街の名前であった。
そして僕が目的地として設定している街である。
話しぶりからするに、まだレイチェルはエクレが無事であることを知らないようであった。
「エクレは無事だったそうだよ。数日前に人と出会って、僕はそう聞いた」
「ああ、それはいい知らせだ。これで、カペルの救援を要請出来ようというもの。安心したよ」
「救援? カペルは無事だったのじゃないの?」
「無事ではあったんだがな。小さな街故にそこを警護する聖堂騎士が少ないのだ。今まではそれで事足りていたのだが……」
目をそらし、ひどく言いづらそうな表情をレイチェルは浮かべた。
なんとなく、彼女の言いたいことは理解した。
「ああ、こんな状況だものね。人間、いい人ばかりじゃないだろうし」
即ち外部からの略奪に対する備え。
そのためにも、一人でも多くカペルに応援を寄越してもらわねばならない。
救援の要請とはつまりはそういうことだろう。
「その通り。本当は彼らも救わねばならぬ隣人なのだが……限りある平穏を乱さんとするのであれば、やるしかない。嘆かわしいことだが」
今、相対的に平穏に近い生活を送ることが出来る者たちを守らねばならない。
そのためには、襲い来る脅威を払いのけるのが絶対条件だ。
脅威とは即ち、明日の命すら知らぬ、そんな危機的状況に陥った人々。
追い込まれた人間というのは、時に理性や良心を簡単に捨て去り生存を最優先させるものだ――そう先日の僕のように。
故に彼らから何かを守るとなれば、武力でもって追い払うしか他あるまい。
「本当に……本当に悔しいが、な」
苦虫を噛み潰した表情でレイチェルが呟く。
声色からも顔色からも、彼女の無念が手に取るようにわかる。
その無念の根本にあるのは、彼女が極めて敬虔な信徒であることにあろう。
宗教が最優先で守護すべき対象とは何か。
それは戒律でも、教理でもない。
理不尽に会する人々、迷う人々、迫害を受ける人々……即ちそれは弱者だ。
宗教は弱者にそっと手をさしのべ、希望を示す。今受けている困難の理由を提示し、やがてそれも終わりの時が訪れると説く。
そして弱者は手を取り、与えられた希望をすがる。いずれ来る困難の終わりを信じて、深く宗教に帰依する――
そうすることで宗教は膨張し、発展していくものなのだ。
だから多くの宗教には、弱者の救済を善行とし、これを是としている。
救済はそれを受ける人々のみならず、救済を与えた人々への救済でもある、そう説きながら。
そうやって宗教は救いと幸福を人々に与えながら、力を蓄え、さらに多くの人々を救わんとする。
この世界の宗教もそれはきっと同じことだろう。
だからこうして、目の前のレイチェルは苦しんでいるのだ。
艱難辛苦の人々を救わず、それどころか更なる苦を与えかねない所業に身を染めようとしている。
それも、誰かの平穏を守るため、誰かを救うためにそれをしなければならないのだ。
誰かを救済するために、誰かを見捨てるという矛盾。
その矛盾の痛みは、敬虔であれば敬虔であるほどに激しいものに違いない。
「実は、さ」
これ以上エクレに救援を求める件の話をするのは、レイチェルにとって苦痛になるだろう。 話を変えるべく、ぽつりと彼女に語りかけた。
「僕もエクレに向かおう、そう考えていたんだ」
「それは奇遇。あなたはどのような目的で?」
「これからどうやって生きていこうか、って考えたとき、人が多いところに行った方がいいんじゃないか。そう思っただけだよ」
「どうやって生きていく……失礼だが、住んでいた街は……?」
「まあ、戻ることが出来なくなった、って感じかな。今、この世界にその場所はないよ」
どうしたことか、ちくりと良心が痛んだ。
住んでいたところに戻れなくなった。何故ならそこはこの世界に存在しないから。
その言葉は全くもって事実で、一片の嘘もない。
けれど、レイチェルに本当のこと、僕の故郷は異世界にある、ということを伝えているわけでもない。
そのことに対して罪悪感を抱いているのだろうか?
「……度々申し訳ない、思い出したくもないことを、また言わせてしまって」
「ううん、気にしないで。今は命だけ拾ったのだけでも良しとしなきゃ」
「ツカサは強いのだな」
「行き当たりばったりで生きているだけだよ。こんな状況なんだ。街に入れて貰えないかもしれないのに、それについてはあんまし深く考えてないしね」
いや、違う。
本当のことを言っていないから、罪悪感を抱いているのではない。
「ならば、共にエクレに行こう。聖堂騎士の私と一緒ならば、断られることもあるまい。口利きも私がしよう」
「それは悪いよ。貴女の立場だってあるだろうに」
「いや、構わん。むしろさせてくれ。あなたとて、この悲劇の災害の被害者。それを救わんとすること、これを神が望まぬ理由なぞ、どこにあろうか」
身を乗り出し、むしろ是非役に立たせてくれとレイチェルが僕に迫った。
本当にこの人は信仰に対して生真面目で、きっとこの宗教の経典でそうあれかし、と説かれていることを、忠実に実践しているのだろう。
ああ、そうか。
僕が罪悪感を抱いている理由はそこにあったのだ。
彼女は信仰に忠実で、教衆全てを救うことを善としていることは、出会って短い間柄ながらも、会話からうかがい知れた。
さて、そんな人の前で、もしかしたら街に入れぬかも知れないと、呟けばどうなるだろうか。
それもその街は宗教都市、おまけに彼女はある程度教会に口が聞ける聖堂騎士。
そこにあの清い信仰心が加わるとなれば――
僕にとって都合良い事態になるのは当然ではあるまいか。
ああ、そうだ。
僕は利用した。
彼女の純な信仰心を。
僕自身を救わせるために、誘導させた。
童話に出てくる正直者を食い物にする意地悪者のように。
僕は彼女を利用した。
(酷い奴)
それは心中の声。心よりの一言。
ああ、本当に。
僕はなんて自分勝手なのだろう。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。




