第一章 十二話 素っ裸の邂逅なんて間抜けな絵面としか言いようがない
空は相も変わらず鈍色の分厚い雲に覆われている。
思えばこの世界に飛ばされてからというもの、僕は晴れ空をこの目におさめていない。
終末の世界にお似合いと言えばお似合いではあるが、その下で這い回る僕ら人間の気持ちまでも陰気に染めてしまうようで、どうにもいい気分にはなれない。
先日までの僕がその好例だろう。
ぶっ飛んだ現実に打ちひしがれたこともあるが、この空と同様、僕の感情は重く暗いものにて固定されていた。
だけど、今は違う。
今の僕の気分は、先日のそれよりも幾らか晴れたものである。
その証拠に足取りには重々しさは認められず、むしろ軽快と呼んで相応しいものとなっている。
重苦しい鈍色の空はそのままなのに、僕の気分が晴れやかになっているのは何故か。
その理由は簡単。
確かに上空には変化は生じていなくとも、大地にはしかと変化が認められているからだ。
からからに乾いた赤土でもなければ、水気の一切が失せた川床でもない。
青臭い匂いを世界に放つ、青草に覆われた大地。僕はその上に立っている。
エーファと一夜を明かした後、僕は彼女から教えて貰ったまだ人の居る地へ、エーファはお宝さがしに廃墟へ向かう形で別れることになった。
見知らぬ地を一人で行くのはとても心細かったけど、商人の私物にコンパスと地図があった僥倖もあった。
それを頼りに歩いて幾日、ようやく僕はこうして生気溢れる大地にに遭遇したのだった。
「空気にも味があるなんて。思いもしなかったな」
一つ深呼吸をして、ぽつり感想を独りごちる。
それまで乾燥しきったり、あるいは死臭に溢れた場所ばかりにいたせいだろう。
清廉で瑞々しい空気は僕にとって蜜に等しく、ほのかに甘みすら覚えた。
もっとも、空気の味を知覚した理由はそれだけではない。
数日前とは比較にならないほどに、僕は心に余裕を持っていることが大きいだろう。
自分が何処にいるかのかが解らず、何処に行くべきかも解らない。
その上治安の概念が欠落した場所に、殆ど暴力に対抗する手段を持たずに、ただただ彷徨う。
思い出すだけでも、ぞっとするし、そして心細い状況に僕は置かれていたのだ。
そんなシチュエーションで余裕なんて持ち得るはずがない。現に過去の僕は余裕を持つことができなかった。
それが今ではどうだ?
自分の居る場所がおおよそながら解り、行くべき場所が定まった安心感はしかと僕に余裕を与えてくれている。
そして何よりも――
「お昼は……また肉だけど、あれでいいよね」
ふと上空よりけたたましい鳴き声が聞こえる。
見上げれば、大の大人ほどもある怪鳥が一羽、ぐるぐると僕の頭上高くを旋回していた。
僕はじっとそれを見つめ、そろりと右手を差し出す。
そして想起。
あの盗賊が商人を殺めた時を。
奴が作り出した鋭き岩石を。
想起。
そして脳裏に描く。
一直線にあの怪鳥に強襲する岩石の姿を。
不意に音が鼓膜を震わす。
質量あるものにより、空気が押しやられる音。
一拍遅れて異様な絶叫が空に響く。
怪鳥の悲鳴。
そして墜落。
僕があのごろつきと同じように生み出した岩によって。
そう、僕は暴力に対抗する手段、魔法を使えるようになっていた。
エーファと山分けしたあの商品の内には、アクセサリーの他にこの世界の本がいくつか混ざっていた。
この世界の情報が濃縮されたとも言える、それらを僕が手にしない理由はなく、僕はエーファに頼んで全てを譲ってもらった。
通史、地理、風俗。人文に傾いた書物群の中に、魔法の本も含まれていた。
最も僕が生まれた世界と異なる事象だけであってか、数多の本の中でそれを読み解くのに、一番の熱量を傾けた。
本によらば、魔法とは即ち反応であるそうだ。
この世界のあまねく場所に飽和する、世界由来の魔力と、人体の内より生成される、ヒト由来の魔力。
それらがぶつかり合い、混ざり合い、そして溶け合う課程にて、世界に激烈な反応が生じる。
それこそが魔法と呼ばれる現象である。
そして人体の内から魔力が作り出される以上、人間であれば例外なく魔法を使えるらしい。
もっとも、実用的に使えるか否かは才能に左右はされるそうだが。
才能の有無を調べる手立てもしっかりとその本に載っていて、しかも結構手軽な方法であった。
人間であれば誰でも魔法を使える。
その一文により、すっかり僕も使えるだろうと(異世界生まれの人間なのに)勝手に思い込んでいた僕は、早速本を片手に試してみたのだった。
その方法はとても簡単。ただ単に、手を中空に差し向け、生み出したい現象を想起するのみ。
才能があれば、目に見えた変化が生まれるらしい。
例えば火を想起すれば、マッチほどの火の玉が生まれ、水であればコップをひっくり返した程の水が地面へと落下し、雷であれば前腕ほどの稲妻が走る。
これらは師のない、つまり我流魔法の限界点であるそうだ。
もし、ただ想起しただけで出力されたとなれば、魔法の才能ありと見てもいいそうである。
さて、勇んで試した僕というと、異世界生まれの人間でも、この世界に来れば魔法は使えるという結論を得ることには一応成功した。
もっとも、その規模はというと、言うにも恥ずかしいほどの悲惨なものだったけど。
火を思い起こせば、ライターの火花程度の火の粉が空を舞い、水を想像すれば、小石をようやくしっとりさせる程度の一滴がぽつりと落ちただけ。
一番悲惨だったのは雷で、僅かに指先から冬におなじみの、静電気のぱちぱちとした音が鳴るのみと来た。
無残な玉砕とはまさにこのこと。
猛烈な寂寥感に襲われた僕は、半ば自棄となってあの掻っ払いの真似をして、荒々しい岩を想起したその時、例外を一つ見つけたのだ。
それまで目をこらすか、耳を澄まさなければ変化を見いだせなかったのとは一転、想起した姿そのまま、人の丈ほどの岩石が中空に現れた。
その時僕は驚愕した。
二つの意味で驚愕した。
一つはもちろん、それまで凡庸極まる魔法の才能を示していたのに、急に豊かなそれを見せた現実に対して。
そしてもう一つは、得たばかりの魔法の知識とは反する現象が目の前にて顕在したことに対してだ。
僕が生み出した岩は、明らかに我流魔法の限界点を逸脱した規模であったのだ。
もちろんこの世界に来たばかりの僕には師なんて居るわけないし、そもそも僕の生まれたあの世界には魔法なんてものは存在しない。
よって本来僕はあの規模の魔法なんて使える道理なんてないのだ。
にも関わらず岩の魔法に関しては、極めて豊かな才能を僕は示した。
驚愕と困惑の念を抱いて当然のことと言えるだろう。
「でも、まあ困ることはないから別にいいけどね」
とはいえ、その驚きと戸惑いは既に過去のもの。
何故だろうか、とない頭を必死に絞って答えを得ようとしけれど、幾ら考えても答えが出ることはなかった。
やがて考えることに疲れた僕は、先に呟いた言葉と同じく、困ることはないからいいか、と考えることをやめたのだ。
現にこうして空飛ぶ怪鳥を仕留める手段を手に入れて、飢餓に苛む羽目はなくなったのだから。
それに僕は異世界人なる、とてもイレギュラーな存在なのだ。
この世界の理からやや外れた部分があってもおかしくないだろう。
ちょっと乱暴だがそう考えることで、自己満足な説得力は与えるに到っている。
さて、そんなことよりも、今重要なのは、目の前の怪鳥の解体だ。
うっかり指を切らないようにびくびくしながら、僕はおっかなびっくりな手つきで解体を進めた。
◇◇◇
粗末な昼食を終えた後も、僕は歩いた。
緑覆われる大地には、先日歩き倒した荒野とは違い、襲われ命絶えた人々の姿が見られない。
それは治安の維持がされている証拠と見ていいだろう。
距離感はいまいち掴めないものの、着実に目的地に向かっているはずだ。
常に下向きだった機嫌も少しだけ上に向き始める。
状況も僕自身の心持ちもいい傾向。
そしていいことというものは、どうやら立て続けに起こるものらしい。
僕の耳朶に音が一つ飛び込んできた。
さらさら、さらさらと水の流れる音。
僕はいても立っても居られず、水の音がする方へと駆けだした。
「心に染み入る光景なんて、もしかしたら初めて見たかもしれない」
独り言の通り、駆け抜けたその先には素晴らしい光景が広がっていた。
緑の大地を控えめに割って流れる浅い小川。
客観視すれば、取り立てて美しい光景ではないだろう。
けれどしばらくの間、死と破壊に支配された場を見続けた僕にとって、眼前のそれはまさにオアシスと行って差し支えないもの。
美しさとはまったく別の感動が、僕の心を満ちて溢れている。
まずは水が補給できる感動。
あの商人から水も拝借したのだけれど、それ以降水を補給できそうな場所に出くわすことはなかった。
さて、水はどう補給しようか、と考えなければならなかった頃合いでのこの邂逅は、まさに渡りに船だった。
覚えた感動はそれだけではない。
最も強い感動は、水浴みが出来ることに対してのものだ。
ここまで身体を洗う余裕なんてなかった。
だから身体と髪もはべとべとして気持ち悪いし、自分でもわかるくらいには臭う。
正直言って一刻も早くこれらの不快を取り除きたいところであった。
「いい具合に川岸に藪もあるし」
川岸には僕の肩ほどの高さの藪がある。あれはきっといい目隠しになることだろう。
本当に水浴みをするのにおあつらえ向きな状況と言えた。
と、なればこの機会を逃す理由なんてどこにもない。
僕は藪へと向かい、それをかき分け、川縁までに歩み寄る。
服を脱いで、穏やかに流れる水面へ。
「あは」
踏み出した一歩に水がくっついて渦巻いて流れゆく。
冷たくそして心地よいその感触に思わず僕は笑声を漏らした。
ホコリや脂といった汚れが、流水により浮いて落ちてゆくさっぱりとした感触をも覚えた。
脛まで使った状態でこの気持ちよさなのだ。
きっと深いところに行って、全身の汚れを落とせばもっと気持ちがいいに違いない。
そう思って川の中腹に目指すべく、僕はまた一歩を踏み出した。
そして気がついた。それまで見えていなかったモノに。
小川を見つけたその興奮により、視野が狭くなっていたのだろう。
この小川には先客がいたのだ。
丁度僕と正対する形で、おそらく僕と目的を同じとした。
また格好も僕と同じく裸の女の人が、ぽつりと立っていた。
予想外、といったところだろう。
目をまん丸にして僕を見ていた。
きっと僕も彼女とおんなじ顔をしているに違いない。
互いに川で素っ裸。
客観視すればひどく間抜けな邂逅であった。




