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第一章 十話 せっかく出会った人を逆上させたくない

 吐き気はあった。


 口にしてはいけないものを口にし、飲み込んでいけないものを飲み込んだ罪悪感は、確かに激烈な吐き気を僕に刻み込んだ。


 けれども、僕の身体はその吐き気に負けることはなかった。

 嘔吐することはなかった。


 ソレがどういったモノであれ、数日ぶりに取り込んだ滋養を、僕の身体は放出することを拒絶したのである。


「現金な奴……」


 心中では散々食人を葛藤を続けていたくせに、僕の身体では一転、すんなりと栄養を受け入れた事実。

 吐き気という抵抗が、あまりにも微弱であった事実。

 それらに対して僕は自嘲の言葉と共に、すっかりと闇色に染まった空を見上げた。


「……よくもまあ、これで一瞬とはいえ義憤に駆られたものだね」


 続いて口にしたのは皮肉。

 もちろんその対象は、他の何者でもない、僕自身に対してだ。


 視線を商人が遺した焚き火へと、いや、正確にはその手前へと落とす。

 ゆらゆらと揺れる橙色の光を湛えた、とても綺麗な装飾品や宝石たちが転がっていた。


 これらを焚き火の前に集めたのは僕だ。

 なんのために?

 答えは簡単。


 持ち主不在となった、この輝く品々を僕の懐に入れるため――それが目的であった。


 金品は多く持っておいて損はない。

 むしろ得をするはずであり、また、今後の生存率と所持する資産額はきっと相関関係を描くはず。


 ならば、今や所有権が宙ぶらりとなったこれらを回収しない理由はないだろう。

 食事を済ました直後の僕はそう判断を下したのだ。


 まだ背負子の内に残ったもの、ごろつきが懐にいれたもの、僕の襲撃により辺りに四散したもの。

 されらをせっせと一カ所に集めている最中は、僕は食人という非日常の極致を体験し、極度の興奮状態にあった。


 だから、気がつかなかったのだろう。

 いや、あるいは気がつかないように努力していたのか?


 僕が追い剥ぎにやられた商人の商品を着服すること。


 それは僕が直接には商人に手を下してはいないけれども。

 結果的には、僕は追い剥ぎをしたことになっていることに。

 いくらか冷静となった、僕はそのことに気がついた。


 殺害を正当化するために追い剥ぎ許すまじ、と義憤を抱いたのにも関わらず、その怒りの対象と同じことをしているのだ。

 この矛盾。なんと滑稽なことか。

 皮肉を抱かずいろ、とするほうが難しいだろう。


 左肘から下を失った、ごろつきの亡骸が、僕を非難しているような気がした。


 曰く、俺の獲物だぞと。

 俺を許さぬなどと抜かして、殺して、俺と同じことをするなど言語道断だと。


 そして彼のその奥で横たわる頭部が潰れた骸も僕に懇願する。


 曰く、それは私の商品で遺品だと。

 頼むから私と一緒に弔ってくれ、盗らないでくれと。


 何度も、何度も、何度も、僕に言葉を投げかけてくる。


 当然それは幻聴だ。

 死人が話すことなぞありえない。

 きっと僕の、ここに来て僅かにその機能を回復した良心が、生み出した声なのだろう。


 人を殺し、人を食い、その上強盗の咎を負う必要はない。

 考え直せと説得しているのだろう。


「……仕方がないじゃないか。僕は死にたくない。死にたくないんだから」


 だから僕は独りごちた。

 否定の音を存分に乗せて。


 僕の良心を無視するための一言を。

 仕方がないから許してくれ、と僕の良心に頼み込んだ。


 その説得は功を奏したのか。

 囂々と続いていた非難と、めそめそした懇願はぱたりと聞こえなくなった。


 なんとか仕方ない、と自分の中で折り合いをつくことに成功した僕は、さて、次なる問題と対面する。

 それは即ち、この種々の貴重品を如何にして運ぶか、という問題。


「背負子ごと持って行こうか。それとも選別した方がいいのかな?」


 商人が背負っていたそれごと拝借するのは、確かに手っ取り早いし、より多くの商品を運べることが出来る。


 が、問題はその背負子の大きさにあった。

 あの恰幅の良い商人の男と比較しても、その幅は変わらないほどにそれは大きい。


 自分で言うのも恥ずかしい話だけど、小柄で細っこい僕よりもずっと大きくて、とてもではないが、背負って長い距離を移動できそうもない。

 体力も無駄に消耗するだろうし、何よりもあの商人のように、追い剥ぎを誘引する一つの要素にもなりかねない。


 正直、リスクのある選択に思える。


 と、なれば、価値の高いものを選び抜き、最低限の荷物でこの場を去った方が、都合が良さそうに思えてくる。

 でも、その場合まったく別の問題が浮上する。


「目利きなんて出来っこないよね。僕、ただの高校生だったんだし」


 そう、価値の高低を判別する鑑識眼を僕は持っていないこと。

 それがもう一つの問題であった。


 一見すると、眼前の装飾品らはどれもうっとりするくらい綺麗で、どれもこれも一級の価値があるように見える。


 ただし、それはあくまで僕というずぶの素人の眼で見た場合での話。


 もしかしたら、この中にいくつか質の悪い粗悪品が混ざっているのかもしれないし、そもそもあの商人が真っ当な商売人であった、という保証もないのだ。


 贋作を高く売りつける、そんな悪徳商人であったかもしれない。

 全部偽物だった、なんてことも決して否定できない。


 となると、この問題は選別する場合に限らなくなってくる。

 背負子を持ち去ったところで、中身が全部偽物ならただの労力の浪費でしかない。

 勇んで売ろうとしたら、全部偽物で価値なし――なんてのは、とても滑稽な結末と言えよう。

 

 背負子を持ち去る方を選ぼうが、選別を選ぼうが、どちらにせよ鑑定は必要になってくる。


 が、先の通り、僕は凡庸な高校生だった。

 都合良く僕に鑑定の技術を持っているわけでもないし、その素質の片鱗も見せたこともないから鑑定のしようもない。


「こんなに綺麗でも、もし偽物なら、がらくた当然の値段で買い叩かれるんだろうね……いや、買ってくれるだけ御の字、かな?」


 無造作に地面に置いた内の一つ、赤石のブローチを適当に取り上げ呟く。


 そもそも今のところ、終末の体しか見せていないこの世界で、こんな貴重品の需要があるのか甚だ疑問でもある。

 商人が商品として扱おうとしていたところを見れば、一応需要はあると言えそうだが、それでも確信するにはやや弱い根拠だ。


 装飾品が本物であっても、そんな疑念が沸いて出るのだ。

 まして贋作の需要なぞ……

 

「困ったな、あるわけないじゃないか」


 弱気な感想と共に、僕は夜空に一つ弱いため息を吐いた。


「ひゅう。やるじゃん羽根なし」


 弱気のため息の直後、僕の背中より声が飛んできた。


 女の人の声。


 いたずらっぽい音を含んだ、ねっとりとした声。


 それが、誰も居ないはずであった僕の後ろから聞こえてきたのだ。

 緊張と驚愕で心臓が大きく跳ね上がり、いわくつきの一品となり果てたナイフを握り、僕は振り返る。


 そこには天使がいた。


 そう呼ぶしかない女の人がそこにいた。

 

 よく巷で形容されるような、天使のように可憐で清廉で綺麗な人、という意味ではない。

 いや、その意味でもしっかりその人は天使であった。


 長い濡羽色の髪、穏やかそのものな柔らかい光を放つ碧眼、白磁そのものの白い肌。

 彼女の容姿は、まさに完成された美だ。

 唯一の失点は、意地の悪そうなニヤニヤ笑いを口元に浮かべていることだが、それを加味したところとて、彼女は息をのむ程に綺麗な人であった。

 彼女を天使のような美貌と称さずして、誰をそう称すればいいのか。


 けれども、そんな美貌ですら些細なこと。

 それ以上に天使としか思えない特徴を彼女はその背中に持っていたのである。


 大きな大きな、子供の背丈ほどの白い翼。

 白鳥のような白い翼。


 それを彼女は背中から生やしていたのである。

 触らずにしても解る柔らかな羽毛は、それが作り物ではなく、しっかりと生きたものであると主張していた。


 白い翼を持った人間。

 これを天使といわずにして何という?


 冷や汗を僕はかいた。

 その美しさにあてられて?


 いや、違う。


 多分この綺麗な人は僕のような、荒事の初心者ではないだろう。

 むしろのその逆、玄人と呼べるだろう。


 その気になれば、僕を瞬きの内に殺すことが出来る。

 その事実に恐れおののいたが故の汗であった。


 穏やかな雰囲気を持つのとは対照的に、彼女の腰にはひどく物騒なものがさがっていた。


 短剣。


 それも大分使い込んでいる様子で、その柄は彼女の手の形にすり減っていた。


 即ち、護身用なのではなく、彼女はそれを、文字通り相棒として頼りにしてきたことの証。

 剣道弓道などの武道に触れたことがない僕でも、それくらいのことはわかった。


 それだけでも、十分実力を窺えさせるのに、彼女は翼を持っているのだ。

 武の達人でも三次元の動きには対応しづらいと言われているのだから、素人の僕がそれに対応できる可能性なんて、この世界の何処にもない。


 彼女の気を損ねれば、僕の首は身体と別れを告げることとなろう。


 だから、僕は焦りを覚えつつも、必死に考えた。

 彼女を怒らせないようにするにはどうすべきかを。


 まずは敵意がないことを示す必要があろう。


 ナイフを握る力を緩めて、そのまま石ころだらけの地面に落とす。

 例えナイフを持っていたとしても、どうせ実力差から抵抗できずに殺されてしまうのだから、持っていても意味はないだろうし。


「……流石に一〇対ゼロは応じられれないけど」


「うん?」


「貴女の好きな取り分を言ってくれれば、それに応える。分けましょう、これを」


 焚き火の前にて広がる、商品を指さしながら僕は言う。


 彼女は突然襲いかかってこないで、僕に話しかけてきた。


 少なくとも、ごろつきのように、害意があったわけではなさそうだ。

 ならば、こうして彼女にとっておいしい話を持ちかければ、襲われる可能性は低く出来るのではないか。


 ほとんど貴女にこれをあげるんで、襲わないでください。


 僕の態度はそれこそ交渉するようなものであるけど、言いたいことを要約すればこれになる。

 やや卑屈にすぎる考えかも知れないが、この状況下で四の五は言ってられない。


 生き残るために、直視に耐えぬ大罪まで犯したのだ。

 ここであっさりミスを犯して死んでしまうのはまっぴらご免だ。


 綱渡りをしているような気分。

 冷や汗と脂汗が混じった気持ち悪い何かが、うなじを伝い、背中にべとりとこびり付く。


 さて、相手の反応は。


 きょとんとしたものであった。


 その青い瞳を少し大きく開いて、二、三瞼をしばたたかせて。

 そして一拍遅れて彼女はけらけらと笑い出した。


「あっはは。まあ、こんな場所で出会えば警戒するのは無理もないか。大丈夫。安心して、私はあなたに敵意はないからさ」


 両手をひらひらと振って、彼女は空手であることを主張した。

 その様子を見て、僕も少しだけ緊張がほぐれる。

 激高させて、殺される。そんな醜態は避けられそうだった。


「あなたに話しかけたのは単純に興味からよ。ハナっから襲う気なんて内から安心して。ま、貰えるものは貰えるけどね。半々でいきましょう」


 一歩、二歩と僕へと歩み寄る。

 その表情はとても柔らかいもので、確かに彼女の言うとおり敵意の欠片も感じ取れない。


 信じるべきか、と一瞬迷った。


 だけど、本当に襲う気なら、とっくに襲っているはずだ。

 それに信じなかったところで、僕に出来ることなんてない。


 結局のところ信じるしかないのだ。目の前の彼女を。


「私はエーファ。ちょっとの間、話し相手になってくれないかな?」


 エーファと名乗った彼女は、右手を差し出し握手を求めた。

 互いに敵意がないことを証明するために、これ以上にない方法と言えよう。


 僕も右手を差し出しそれに応える。

 交わされる握手。

 そしてエーファは笑顔を僕に投げかけた。


 天使のような彼女のその笑顔は、にたりとしていて、あの境界で出会った性悪な悪魔のそれと重なって見えた。

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