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第一章 一話 異世界なんかに行きたくない

初投稿でございます。

至らぬところ、多々あるとは思いますが、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします。

 顎クイって知っているだろうか。

 そう、誰かに顎を手で持ち上げられるアレ。

 誰もが夢見る素敵な展開。


 けれど、だ。

 物事には例外が往々にして存在する。

 今の僕がそう。

 思いもしなかった。

 まさか、恐怖たっぷりの最低最悪の顎クイを僕は味わう羽目になろうとは――


 ◇◇◇


 はじめにそこで覚えたのは不快という感覚であった。


 目に触る不自然な薄紫色の照明。それが僕が不快と感じた原因であった。

 嫌な光の発生源は、と視線を上げれば、そこにぶら下がるは、巨大なシャンデリア。

 暖色の光を用いれば、まだ綺麗と言えたかも知れない。だが、よりにもよってけばけばしい薄紫色の光を使ってしまっているのだ。

 よってその趣は下品の二文字で切って捨てるほかにない。


 長く見るのも目に毒だと、視点を降ろしてみれば。

 ああ、なんたることだろう。


 装飾華美。

 悪趣味。

 はしたない。


 そんな評しか似合わない赤革張りのU字ソファと、同じくらいにゴテゴテで吐き気を催す大きなロココ調のテーブルが、でんと鎮座していた。


 センスがなさ過ぎて頭が痛くなってくる。

 この部屋の主のインテリアセンスは、どうにも僕のそれと真っ向からぶつかり合うものらしい。

 この空間はあまりに自己主張が強すぎる!

 平々凡々を地で行く僕に合わないのは当然だろう。


 この空間に対し、辛辣な評価ばかり下している僕だが、もちろん自ら望んでこんなところにやってきたわけではない。

 むしろどうしてこんな場所にいるのか。

 今、この場に突っ立っている僕自身にも皆目見当がつかなかった。


 夏休みが終わり、残暑も少しずつ収まってきた初秋の夕方。

 僕は残り数日に控えた文化祭に向け、教室にて数人のクラスメイトと友人と一緒に、教室の飾り付けをしていた――はずだった。

 クラスメイトの話し声をBGMに、友人と二人で黙々と作業している最中のことだ。僕は強烈に眠気を覚えたのは。

 睡魔に耐えかね、一度目を閉じるほどの大あくびをしてみれば、眼前の風景がコレになっていたのだ。


 奇々怪々、神妙不可思議、摩訶不思議。


 これらの言葉はまさに今、この境遇を表現するために生まれたのか、と思うほどの奇妙に僕は直面している。

 大あくびのつもりが、そのまま寝落ちしてしまい、今、僕の見ているコレは夢なのではないか。

 そんな都合良い解釈をして、そして、そうであってほしいと願うほどに、コレは平凡とはかけ離れた現象だ。


「ようこそ。この場所はお気に召してくれたかな?」


 誰も居ないと思い込んでいた背中より響く、男の声。

 僕は驚き、勢いよく振り返り、その声の主を確かめようとした。


 そこにはホストがいた。

 そう、あのホスト。

 新宿歌舞伎町が著名な生息地なあのホスト。


 上質な布地の紺スーツに、ぱりっと屹立したシャツの襟。

 金を通り越して黄色に染め上げた毛髪を持つ、腹が立つくらいに軽薄そうな色男をホスト以外になんと呼べばいいのか。

 僕の貧相な語彙では、代わりの言葉は見つからなかった。


「ふむ。その反応からするといまいち、ってところか。まあ、いいや。お酒、飲むかい?」


 空間そのものに対して、僕が拒絶反応を示していることを、どうやら男は表情で察したらしい。

 ソファに腰を下ろす。

 そして男は、気を取り直して一杯やろうよ、とテーブルに置かれたグラスの一つを、屈託のない笑顔と共に僕に差し出した。


「……ここはどこですか」


 悪趣味な光源。机、椅子。そして軽薄な印象の男。

 それら諸要素を結合し、導き出される答えはコレであろう。

 ここはホストクラブだろう、と。

 しかし、僕の記憶によれば、僕は放課後の教室に居たはずだ。

 間違ってもホストクラブなんかに居たはずはない。


「おや、もしかしてマジメちゃん? 中々ないよ? 今のご時世、未成年が堂々とお酒飲めるチャンスは」


「話、答えてくれます? もう一度聞きます。ここは、どこ?」


 僕を真面目と茶化しつつ、真面目に答えない男に苛立ちを覚えながらも、我慢強く問い直す。

 ここはどこなのかと。


「いやはや、冗談の解らない子だなぁ。オーケイ、答えよう」


 なんて堅物、と言わんばかりに失笑の鼻息を漏らし、男は大げさに肩をすくめる。

 そしてゆっくりとした動きで、僕に差し出したグラスを元のテーブルの上に置いて。

 次には男は意地の悪そうな笑顔を僕へと向けた。


「ここはキョウカイさ」


「キョウカイ?」


 先の受け答えよりは、いくらかは誠実である。

 けれど、それでもやはり聞き手からすれば、まったくもって易しくない言葉だ。

 キョウカイ? なんのキョウカイだろう?

 どんな文字を書くキョウカイだろう。音は同じでも、文字が異なれば、キョウカイの意味はまったくもって変わってしまう。


 まさか教会であろうか? チャーチやシナゴーグに代表されるような?

 いや、それはないだろう。

 こんな退廃的で享楽的な教会があってたまるものか。


 では、協会か? 同一の目的もつ人々が、それを達成するために作った協力機関としての?

 教会よりは可能性はあろう。

 しかしそれは、そもそも場所を表す言葉として、果たして適当と言えるだろうか?


 ああだろうか、こうだろうかと頭を悩ます僕。

 そんな様子を見て、男は悦に入る何かを僕に見出したのか。

 ニヤついたしたり顔を浮かべ、唐突に口を開いた。


「君、さ。浦島太郎って知ってるかい?」


「何をいきなり。いい加減真面目に答えてくれますか?」


 ほんの少し真面目になり始めたと思った矢先、男は何も脈絡のない話題を僕に振ってきた。

 間違いない。

 この男は僕を馬鹿にしている。

 思いっきり不機嫌な口調で、真面目に答えてと男に要求する。


「いーや、これは真面目な話だよ。この場所はどこか、っていう問いに関するね」


「とてもそうには思えませんが」


「まあ、聞いてよ。あのお話ってさ、要は異界訪問譚なわけ。現世たる海辺の村から、異界たる竜宮城へ訪れて遊ぶっていうね。では、逆に聞こう。彼は亀に乗って竜宮城に赴く際、どこを通っていったのかな?」


「海の中、ですか?」


「そう。その通り。つまりは海は世界と世界を繋ぐ役割を担っていたわけ。現と異界。その間に在るこの世界、境界と全く同じ役割をね」


 ああ、なるほど。境界か。境界だったのか。

 隣り合った二つの空間の境にある空間。それを指す境界であったのか。

 ああ、それなら確かに教会や教会よりも、しっくり来る。

 疑問が一つ氷解し、気分はいくらかすっきりとしたところで……


 いや、待て。


 今、この男なんと言った?

 この場所が現と異界に挟まれている形で存在している、と言わなかったか?

 この男の言葉を正直に受け取るならば。

 世界は複数存在する、ということにならないか?

 現世、異界、そしてこの境界。

 少なくとも世界というものは、この三つに分けることが出来る。そういうことならないか?


 それに気づいた僕はきっと、驚きにより目を丸くしていたのだろう。

 僕をねっとりとした視線で眺めていた男は、神経を逆なでするような不愉快な笑い声を、とても愉快そうにあげていた。


「そうさ。ここは海の中。現と異界の狭間にある、そのどちらでもあって、そのどちらでもない――つまりは両義の世界に君は居る」


「……気は確かですか? 良ければ僕が精神科まで付き添いますが」


 僕は辛辣な言葉でもって男に答える。

 努めて辛辣に返す。


 もしこの一連の発言を、学校や街中といった日常そのものなシーンで聞いたのならば。

 僕は彼をただの可哀想な人として扱っていただろう。

 何を非現実的なことを言っているのだろう、と。


 けれど、今は違う。

 男がのたまっていることは、確かに非現実的で馬鹿げたものであるのだけど。

 事実として、僕は今、ここにいる。

 夕暮れの教室から、ホストクラブ様のこの空間を。

 あくびというわずかな瞬間でもって移動してしまっている。

 非現実的な体験をしてしまっているがために。

 今の僕には、非現実な現象を否定するための自信を持つことが出来ない。

 完全に否定する根拠に乏しいのだ。


 だからせめて毒舌でもって返すしかない。

 根拠がないから、感情でもって馬鹿げていると否定するしかない。

 世界が複数あり。

 そして僕がその世界間を飛んでしまっているという、そんなイカれた可能性を。

 僕は絶対に肯定してはならないのだ。

 なぜなら。


「おや、信じられないと言うのかい?」


「当たり前です。そんな夢物語みたいなこと、普通信じるとお思いですか? もし、信じてしまったら。肯定してしまったら。その瞬間僕は平凡な存在でなくなってしまう」


 そうだ。僕は平凡であるべきだ。普通であるべきだ。平均的であるべきなのだ。

 悪いわけでもなく、決して飛び抜けて良いわけでもない。

 多くの信頼できる味方は得られなくとも、多くの敵を作ることもない。

 大成功はしないだろうが、失敗もせず、小さな成功は約束されている道。

 長く細く、無味無臭かもしれないけど、極めて安心安定。

 それが平凡に生きるということであり、僕が目指すべき生き方なのだ。


「平凡でなくなってしまう、ね」


 とても興味なさげに、ホストな男は復唱。

 事実、彼にとっては、僕の言ったことはとても下らないことなのだろう。

 手慰みに、テーブルの上のグラスを、形のいい人差し指で撫で回しているのがその証拠だ。


「君、こんな妄想しない? ミステリアスな転校生が来て、それが謎の組織やら、化物やらと戦ってて、そして君ごと巻き込まれて、いい関係になるようなの。そんなエキサイティングな日々、送りたいと思わないのかい?」


「映画や漫画の中なら歓迎しますよ。でも僕に起こるなら、それは必要がありません」


「平凡な日々ってとても退屈だと思うけど?」


「ですが、大きな波乱はありません。平凡であれば穏やかに安全に過ごすことができます。僕はそれが好ましいと思います。だから、努めて平凡にあれ、と日々を生きてきました」


 高校生にしては枯れた考え方かもしれない。

 でも、僕には目立つ生き方は向いていないということは、確かな事実なのだ。

 目立つということは、それだけ敵を作りやすくなるということ。

 敵の居る日々を生きるより、平凡だけど敵が居ない日々の方がずっといい。

 僕は心からそう思う。

 だから認めるわけにはいかない。

 今、目の前にある平凡から逸脱した出来事はすべて、僕には過分なモノでしかないのだから。


「努めて平凡にあれ、か」


 男は顎に指を当てながら、僕が口にした一言を、反芻よろしくに何度も何度も漏らす。


 ――努めて平凡にあれ。


 それは僕の行動理念では最も重要で、言わば大黒柱に相当するものだ。


 目立つな。

 平凡でいろ。

 平凡でなければならぬ。

 突出するな。

 埋没しろ。

 普遍たれ。

 そのための努力は怠るな。


 あの言葉にはそれらの意味が全てが込められている。


 しかしこうしてその祝詞を口で転がすあたり、この男も何か共感できる部分を見出したのだろうか。

 大いに目立つ外見と、人を小馬鹿にした態度が気に食わないから、たとえ平凡の信者が増えたところで何も嬉しくないけど。


 けれどもその推測は誤りであったことが、すぐに明らかになる。


「ひ」


 笑声がわずかに漏れる。

 目の前のホスト様の男の。

 先と同じように失笑のそれ?

 神経に障る人を小馬鹿にしたもの?

 いや、違う。

 そのどちらでもない。

 これは――


「ひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ」


 狂気。いや狂喜か。

 男は狂った。笑い狂った。

 口を大きくつり上げ、ニタリと目尻を下げながら、けれどもその瞳孔は僕から一切動かさず、肩を揺らし続けた。


 僕は男に対して、嫌悪以外の感情を初めて抱く。


 なんだこの男は。

 なぜ唐突に狂った。

 怖い。

 恐怖を抱いた。

 なんだこの男は。

 怖い。

 なんだ?

 なんなのだ!?


 体も恐怖に追随。

 右足が一歩後ずさりする。


「ああ、いいね。君いいよ! 平凡を望むか! 平凡になってしまったのではなく! そうあれと! そう願うか! 努力してまでそうあらんとするか! ああ、ああ、いい!」


 狂笑の息継ぎと言わんばかりに、なぜか僕を絶賛し始める。

 先ほどまで平凡なぞ退屈極まる、非日常はいかが? と僕に勧めてきたくせに。


「そうさ、だからこそ奴らは君を見落とした! だからこそ君ははぐれる羽目となった! 失格品としてラインから弾かれた! それが致命的なミスとも気付かずに! 全く、奴らも無能極まるなあ! こんな逸材、私が見つけたら手を出さない理由がないと言うのに!」


「何を、言っているのです?」


 その問いは無駄だということを、うすうす気がついていた。

 どう聞いたって、男の言葉は僕に向いていない。

 男自身か、あるいは僕の知らない()()とやらに向けた言葉にしか聞こえない。 


 僕は混乱した。

 非現実な体験。

 常識に中指を立てんとする勢いの、イカれた世界の在りようをこの男に語られて。

 かと思えば、その男は目の前で狂って笑っている。


 わけがわからない。

 こんなの。

 本当にわけがわからない!


「さてさて、そろそろ本題に入ろうか。君も知りたいだろ? どうして君が境界に居るのか。そのわけをさ」


 狂気めいたニタニタを張り付かせながら、男は僕へと一歩詰め寄る。

 先ほど僕が後ずさりをした分の距離を埋めるために。


「君はさ、浦島太郎なわけだ。もうすぐ君は異界に訪問することとなる。しなければならないようになる。何故ならもう君は亀の背中に乗って、境界たる海に潜ってしまっているのだからね」


「僕が、異界に?」


「そうさ、異界にだ。いわゆる異世界転移。君はその主人公の一人に選ばれた。そういうことだ。おめでとう」


 これは夢か?

 夢であってほしいと、何度も願う。

 明晰夢から覚めるように、何度も目覚めよ、目覚めよ、と自身の脳に語りかける。

 きつく命令する。

 けれども、望む反応は返ってこない。

 今、見ている世界の輪郭がちっとも歪まない。

 滲まない。

 消え去らない。

 それはつまり。

 この異常な出来事が、現実であるという証拠に他ならなかった。

 平凡が僕から走って遠ざかる。

 その足音を、僕の耳は確かに捉えてしまっていた。


「……どうして僕が。なんだって僕が」


 また一歩後ずさりをしながら、僕はもはや非現実と化した現実に対し呪詛を吐く。

 畜生、どうして僕がこんな目に合わなければならないのか、と。


「さあてね、それは君の運が良かったから、と言う他ないね。非日常な日々、それを一身に楽しめるんだよ? 楽しみだよねえ? そうじゃない?」


 一歩、また男が近づく。

 距離が詰まる。

 対してまた一歩、僕が後ずさる。

 距離が開く。

 対して男がまた一歩。

 距離が詰まり。

 応じて僕がまた一歩。

 距離が開く。

 詰まって、開いて、詰まって、開いて、詰まって、開いて、詰まって。


 そうしている内に僕の背中からどんと衝撃が伝わる。

 横目で後ろを覗けば、打ちっ放しのコンクリート壁が僕の背中に当たっていた。


 追い込まれた。

 袋小路。

 逃げ道がない。

 逃げられない。


 対する男は構わず距離を詰め続け、額と額がぶつからんとするほどまで僕に近づく。

 そして僕の震える顎に。

 男は嫌に綺麗なその指をかけてきた。 


「嫌……」


 口から溢れるのは拒絶の一言。


「嫌なの」


 もう一度拒絶。

 震える声で、すぐそこまで迫る非日常を拒絶する。


「楽しみなんか、これっぽっちも思ってないの。僕は平凡で満足だった」


 退屈でもよかった。

 それが現代社会で安全に長く生きる秘訣であれば、いくらでも退屈なんて我慢できた。


 平凡で良かった。

 主役になれない日々が手ぐすね引いて待っていようと、深い挫折がないのであれば、それを甘受できた。


 けれども退屈が、平凡が、今、僕の目の前から消え去ろうとしている。

 安寧に暮らす術が溶けて消えようとしている。

 それは僕にとっては耐えがたい苦痛だった。


「嫌と言われても、君の異界行きは決定された運命さ。おっと私を恨まないでくれよ。恨まれるのは慣れているけど、君の運命に関しては、私はなにも関与してないのだから」


「あなたは……一体何者?」


 運命? 関与?

 何をこの男は言っているのだろう。

 人は運命に翻弄されることはあれど、運命を予め知ることなど不可能だ。

 翻弄されないために運命を予測することなど不可能だ。

 何故なら人が運命を知覚するためには、その運命に翻弄される以外に術がないのだから。

 まして関与など、言わずもがな。

 もし運命を予め知ることができ、そして関与できる存在が居るとしたら。

 それはまさに。

 そんなのって。


「……意地悪な神様?」


 神以外に思いつくこと、果たして能うるだろうか?


 しかし幸運にもと言うべきか。

 どうにも僕のその推察は的を外していたらしく、狂気じみた眼光はそのままに、至近の男は、にわかに吹き出した。


「神、か。生憎とそんなつまらないものじゃないなあ――もっと君たちに近くて、より親身な存在」


 神ではない。

 その一言だけで、なぜだか心が救われた気がした。

 意識してどこかの神を信仰したことなどないけれど。

 こんな酷薄で意地の悪い存在が、神ではないと知れただけで心底安心したのだ。

 何かどうしようもない事態に直面したとき。

 助けて! と、縋るに値するとても優しい神様が、まだどこかに存在するかもしれない――それに対する安堵であった。


 けれども、その安堵は本当に一瞬だった。

 男が次に口を開いたとき。

 自らの正体を明かしたとき。

 男が神よりも性質の悪い存在であったことを、僕は知ってしまったのだ。


「むしろ神に反逆する存在。君らを惑わす存在。そう――」


 長いまつげが目立つ両の目を、男はゆっくりとした動作で閉じて、そして。

 開眼と共にゆったり、ねっとりとした口調でその正体を明かす。


「私は悪魔、さ」


 僕は息をのむ。さらなる恐怖により息をのむ。

 男の双眸が再び開かれたとき、瞼から覗いたその眼は。

 ぎらぎらと黄金に輝いていた。

 瞳孔は山羊よろしくに倒れた長方形に姿を変えていた。

 さっきまで黒で、なにも変哲もない眼だったのに。


 不気味だった。

 生理的な嫌悪が走った。

 気持ちが悪かった。

 ああ、この男は確かに悪魔だ。

 これらの悪い感情を簡単に僕の心に刻み込んだ、この気味の悪い目を持っているのだ。

 そんな目を持つモノが、悪魔以外に存在してなるものか!


「何も不安に感じることはない。君は向こうの文字、言葉を理解出来るはずだ。奴らがそうしたからね。なに、意思疎通さえ出来れば、人間どこでも生きてゆけるものさ」


 そういう問題ではないだろう!

 そう口に出そうとしたその矢先、それを遮るがのように、悪魔は僕の顎にかけた指とは対の手を高く掲げ。

 そして、ぱちんと指を鳴らした。

 同時にコンクリートの冷たい壁の感覚がにわかに変化した。

 冷たさが随分と和らいだのだ。それどころか、なんだか温かみすら感じた。

 斜眼にて僕の背中にあるはずの壁を見やる。

 そして驚愕する。

 さきほどまで確かに、打ちっ放しのコンクリート壁であったのに。

 今では木で拵えた大きな、とても大きな、両開きの扉に姿を変えてしまっていたのだ。


「では行ってきたまえ。饗庭司(あえば つかさ)よ」


 名乗ってもいないのに、どうして僕の名を?

 その問いはついに僕の口から飛び出すことはなかった。

 悪魔はその両手を僕の両肩に乗せ。

 そして力一杯扉の方へと押し込めた。

 背中から、がたりと扉が開く音と感触が伝わり。

 僕、饗庭司の体と意識は。

 音もなく暗い暗い闇の底へと落ちていった。

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