ひがつかないよ
「もうっ、マッチなんていまどき売れるわけないじゃん……」
何をどう間違えたのか、あたしはマッチ売りの少女になっていた。気がついたらマッチのたくさん入ったかごを提げて、街角に立ってたんだ。
訳がわからない。
最初にいきなり、父親と思しき男性からゲンコツで殴られた。
「何だてめぇ、言う事聞けねぇってんなら、自分の食い扶持稼いで来やがれ、ウチにはオメェみたいなやつを食わすほど余裕ねぇんだよ、全部売り切るまで帰ってくるんじゃねぇ!」って、マッチを大量に持たされて、家から締め出された。
オンボロの町工場みたいな家。これ、家か? あたしの?
要するに、あたしは生まれ変わって、場末のマッチ工場の娘になったみたいだった。しかも途中から。神様適当すぎないかしら?
それにしても。
なんで? なんでよ? なんでうら若きあたしがこんな冬の夜の街で、マッチなんて売りさばかなきゃならないのよ? どーみたって制服着てるし、地味なセーラー服だなぁ、なにこれ、背格好からしても中学生くらいでしょ?
変態なおじさんとか、危ないお兄さんとかが街には溢れてるのよ? それを、マッチを売りさばくまで帰ってくるな、だなんて――は! まさか、それとも違うもの売れっていう隠語とか? あの家ぜったいネグレクトだ。このまま児童相談所に駆け込もうかしら。それとも警察かしら?
でも、ほんと寒いよなぁ。お腹も減ってるし。こんなんしてボーッと立ってたって売れるわきゃないし、そう、それに、今時は火をつけるならライターでしょうに。いや、そもそもさ、タバコ吸う奴ってほぼいなくね?
一昔前ならタバコふかしてフラフラ歩いてたかもしれないけど、今の御時世そういうことしたらジョウレイとかなんとかで、罰金になるってさ、なんかニュースでやってたの見たし。
あたしはビルの隙間の路地で、スクワットをしながら考えていた。こうしていれば少なくとも寒くないから。冷えないし体力づくりにもなって一石二鳥だね、あたし頭いー! って、そうでも考えないとこの状況やってられんだろ。
でも、そんなあたしのことを、通り過ぎる人が好奇の目で見るので、裏路地に移動した。
くそ、生まれ変わったあたし。毛糸のパンツは遠慮するけど、せめてタイツくらい履いとけよ、寒いだろうが。あ、もしかして貧乏すぎて買えないとか?
上下運動をしながらポッと考えが浮かんだ。やっぱり血の巡りを良くすると頭も働くものよね。マッチ売りの少女はさ、思考停止して妄想に逃げたのが運の尽きだね。こういう裏路地でさ、売り物のマッチで暖を取ろうとして、火をつけるんだ。今そんなことやってたら放火と間違われて即補導だろうけどね。それにしても汚ぇ路地。
あたしは喫煙所を探して歩いた。タバコを吸うやつってのは、決まった場所でしか吸えないんだよ。灰皿を囲んでさ、無言でさ、みんなが馬鹿みたいに上の空で煙をふかしてる、あそこ。あそこにいけば需要もあるってもんよ。
街の中をくまなく歩いてみたけどそれらしい場所はなかった。その代わり、ゆく先々でマッチはチョロチョロ売れた。意外なことに、みんな普通に街中でタバコを咥えながら歩いてて、通りすがりに「おっ、嬢ちゃんかわいいね」とか言いながら、機嫌良くあたしのマッチを買ってゆく。ここ、日本だよね? 読めるし言葉通じるし。
かごからマッチを取ると、あたしが首から下げているガマ口に硬貨を投げ入れてゆくような人もいて、なんかおざなりな感じだけど、まあ売れるならそれでもいい。
マッチなんて古典的なものでも意外と需要あるんだなと思った。それともタバコを吸う奴って、こっちのほうが風情があるとか味があるとかいうんだろうか? いや、あたしが可愛いから買ってくれるとか、そういうことかしら?
マッチは人通りの多いところに行くと、どんどん売れた。慣れてくるとこっちから売り込んだりもできるようになって楽しくなってきた。ガマ口にどんどん小銭が貯まる。
そうこうしているうちに、かごに残ったマッチもあと一つだけとなった。
あたしは一息ついて通行の邪魔にならない陰の路端に座り込んだ。ベンチみたいなのもなかったから、仕方なくだよ。そこで改めて冷静になってみる。
街が、いつもの自分の知っている街とは違うことに気づく。なんだか全体的にレトロな印象で、看板の文字も古臭くて、アキバとかシブヤとかあんなにも華やかでもないし、明るくもない。なんかテーマパークみたいだなと思いつつ、でも人の行き交う様子は活況で、着物を着てる人も多くて、もしかしてお正月か何かなのかな、と思った。
ここは何処で、今日は何年の何月何日、なんて訊いたら変な子だと思われるだろうか。でも、転生したんなら訊いても意味ないし、変に思うのは当然か。
それにしても、あたしはなんでいきなり殴られて、マッチなんか売る羽目になってるんだろう。どういう設定なんだか。
ぼおっと街を眺めていたら、体が冷えてきた。
傍らのかごに一つだけ残ったマッチを手に取り、小箱をスライドさせ、中の一本を手に取る。擦るとボウと煙が目に染み、刺激臭が鼻をつき、やがてほのかな明かりが目の前に灯る。火が温かい。
炎が照らし出す明かりの中に何かが見える――――訳ない。ははは、マッチ売りの少女じゃあるまいし。
ふっと息を吹きかけて火を消し、立ち上がろうとすると不意に身体の自由を奪われ後ろに倒れそうになった。
喉が苦しい。
誰かに後ろから羽交い締めにされている。
あたしの身体よりも遥かに大きいであろう、多分男性。
力で強引に引きずられて、路地の奥へと連れてゆかれそうになる。
大きな堅い掌で口をふさがれて声が出せない。
なんで、あたしが――だから、こんな女の子が夜中に街にでてマッチなんて売り歩くもんじゃないのよ、こういう危ないことがあるんだから! それに折角がんばってマッチを売ったお金を奪われるなんて絶対イヤ! 嫌だ!
あたしは必死でもがいて、口を開き男の指に思い切り噛み付いた。本気で思い切り。歯が相手の肉に食い込んで、血のような味がして気持ち悪いと思った途端、あたしは乱暴に振りほどかれて、ドスンと地面に背中から落ちた。
「このガキ!」という怒声を振り切り、表通りを目指して駆けた。脇目も振らずただ逃げた。
「誰か助けて! たすけて!」
あたしが言えなかった言葉だ。
あたしがずっと諦めていた言葉だ。
SNSで知り合った誰かと会うために家を飛び出した。あたしを殺してくれるなら誰でもよかったんだ。最初に出会ったのは変な男で、気持ちの悪い奴だったけど、死ぬ前に好きにさせるくらいどうってことない。
そのまま首を絞めてくれたらよかった。
だけどあいつはあたしのことを部屋に閉じ込めて、あたしを飼育するだけだった。殺す気なんてない。ずっとここで暮せばいい。そう言った。いや――僕と暮らしてくれ、と。挙句は死ぬなんて言うな、だってさ。
あたしはあいつの目を盗んで、家の中の現金やカードを盗んで部屋から逃げた。それからネカフェの住人になった。何日もそこで寝泊まりを繰り返し、お金がなくなったらSNSで知り合った相手と会った。
いつ何処で死んでもかまわないと思っていたからお金なんていらなかったんだけど、そう簡単に殺してくれる人も見つからなかった。
そんな生活を続けて、あれは何ヶ月目だったかな。何人目だったかな。呼ばれたオンボロの工場跡地に行ったら、そこに待ち受けていた男に監禁され、なんだかわからない薬を打たれた。それで、代わる代わる何人もの男の相手をさせられた。
どうせ死ぬんだから何されたっていいよな、って。殴られ、いたぶられて、体液か血液か何かわからない液体で全身が汚れながら、あたしの意識は遠のいていった。痛みなのか快感なのかよくわからない身体感覚のまま、あたしは意識を失い、裸のまま人気のないその廃墟に捨てられた。
どこか骨が折れているのかもしれなかった。身動き一つできずに、このまま死を思った。
出血多量で死ぬのか、それとも何らかのショック死か、それとも凍死か。最低な死に方だけど、死ねるならそれでいいと思った。
「タスケテ」
絶望の淵で言葉は無意味だった。誰が助けてくれるというのだろう。
あたしは世界から外された。学校に行かなくてもいい、家事も手伝わなくていい、何もしなくてもいい。みんなあたしのことを腫れ物に触れるかのような目で見て、上辺だけの優しさで接していた。
そうか、アナタたちがみていたのは、あたしじゃなかったんだ。
じゃあ、もう、あたしなんて居ても居なくてもいいじゃん。
表通りに飛び出した途端、人にぶつかって盛大にころんだ。ほっぺたが地面に擦れてじんじんと痛みが広がる。
あたしは立ち上がり、振り向くことなく「だーいじょうぶかぁ? 嬢ちゃん、きぃつけなよ」という男性の声を振り切り、駆けた。ぶんぶんと首から下げたガマ口が右へ左へ触れるのも構わず、もつれそうな足で必死に駆けた。
家が見えると、こわばっていた頬の筋肉が緩んだ。それと同時に体から力が抜けて、空のバケツを引っ掛けて、また転んだ。地面にしたたかに打ちつけた膝を庇っていると、戸口から割烹着を着た女性が現れた。
「町子!」
あたしの母親だろう。彼女はあたしの顔を見て慌てて駆け寄ってきた。マッチ工場の娘だから町子、ってなんか安直だな。顎を引き上げられながらくすっと笑った。
「なに笑ってるの! 心配したのよ。お父さんがあんたを探しに行ったんだけど……会わなかった?」
さっきあたしをゲンコツで殴った親父が? 心配して?
「町子! なぁにやってんだおめぇは――」その親父が白い息を吐きながら、背後に立っていた。
もう殴らせないぞ。あたしは咄嗟に身構えつつ、胸の前の小銭で一杯になったガマ口を差し出した。
「なんだ、そりゃ……へぇ、全部売ってきたってのかよ――――やるじゃねぇか」親父はわずかに眉を上げた。
あたしは柄にもなく「えへへ」なんて照れ笑いを口にしていた。
「もう、あんたもお父さんの言うことを真に受けたりして! ――――あら、顔も怪我してるじゃない、大変」
「チッ、そんなもん唾塗っときゃ直るってんだ、大げさなんだよ――ほら母さん、町子の飯の支度してやらんか。傷はわしがみてやるわぃ」
その言葉に母親はきっと親父を睨んだ。
「あなたもですよ! 血相変えて探しに行くくらいならあんなこと言うものじゃありませんよ! 町子がお嫁にいけなくなったらあなたの責任ですからね!」と親父をきつく制する母親があたしの手を取り立ち上がらせてくれた。
「さ、傷の手当をしたらご飯食べましょう」
「――ごはん? あたしの分あるの?」
「ったりめぇだろうが。さっさと家ん中入りやがれ、うるせぇったらありゃしない――ところでおい町子、持っていった提げかごは何処やった?」
――あ、さっき襲われた時に振り回して、投げつけて……
やっぱり頭を叩かれた。でもさっきよりは全然いたくなくてコツンと。
あたしは錆びて朽ちたトタン屋根から差し込む、陽光の暖かさに起こされた。
死ななかった。
体中が痛くて、全身がベタベタで汚れていて、とてもじゃないけど生きている気がしないけど、あたしは床に横になったまま、眼球を巡らせるだけの意識を取り戻した。
今にも崩れそうな廃墟の中で、全裸で横たわっている。着ていたであろう服を探すのも面倒で、しばらくそうしていた。どうやってここまで来たのかはっきり覚えていない。車に乗せられたのか。あるいは夢遊病者のようにフラフラ歩いてきたのか。
閉じ込められた部屋の窓には目張りがしてあり、外側から板が打ち付けられているようだったが、天上から漏れる光でかろうじて部屋の中が見渡せた。部屋内はボロボロで、壁は崩れていて、畳も腐っていて、でも、かろうじて人の生活していた痕跡が残っている。
家屋も、人が気にかけずに放置されればこんなふうに荒れてしまうのだな、とぼんやり考えながら、横になったまま目の前の小さな物体を見つめていた。
焦点が合わなくてなんだかわからなかった。
手に取ろうとしても、距離感が掴めずに何度も失敗した。
古いマッチ箱だ。とても古い。紙が日焼けしていて、表面に何が書いてあるのか読み取ることはできなかった。中のマッチ棒を取り出し擦ってみるも、火がつくことはなかった。
あたしは起き上がり、二本、三本……四本、五本……何本も試した。でも点かなかった。
手元の箱にぼたぼたと水の雫が落ちてくる。
泣いているのはあたし?
なんで?
わからない。死のうとしているのに。死にたくないの?
その間にもあたしの手はマッチを擦り続けていた。この廃墟ごと燃えてしまえばいい。あたしなんて、人から忘れられた廃墟だ。何の役にも立たない壊れた人間だ。
そして、最後の一本は、バチという音とともに、僅かに煙が上がってはみたものの、軸棒が折れてしまった。
「ひがつかないよ……」そうつぶやいてみたものの、あたしの声はかすれきっていて音として出ていなかった。
火が灯らなきゃ、暖かな暖炉も、香しいシチューも、優しいお母さんも、立派なお父さんも、でてこない。幸せな夢を見ることはできない。そして、死ねないんだよ。
いやだよ。
こんなの、いやだよ。
こんなところで一人で死ぬのなんて嫌だよ。死にたくない……。
しにたくない、しにたくない、しにたくない、しにたくない、しにたくない!
あたしはいつしか、閉じ込められた部屋の戸を半狂乱になって叩いていた。部屋の中にあった椅子を力任せに打ち付けると、腐ってぼろぼろになった扉はいとも簡単に壊れた。
部屋の外は作業場のようなスペースで、あたしは壁を伝いながら光のある方へとふらふらと歩きだす。
チカチカと赤色の光が点滅しているのが見えて、何人かの人が、あわただしく駆け寄ってくるのが見えた。
あたしの名前を呼ぶ声も聞こえる。今までに何度も聞いた懐かしい声だ。
ただその声のする方へと、あたしは歩みを進めた。
「おとうさん、おかあさん」