謝罪、二つ。
翌日。
普段通りの時間に幸秋はやってきた。
何人かのクラスメイトとすれ違い、挨拶や体調を気遣う声を掛けられていた。
僕は席を立ち、幸秋の元へ向かった。
「ちょっといいか?」
背後から声を掛けると、僕が来るのを予感していたのか、幸秋は面倒臭そうに溜息を零していた。
「なに? 忙しいんだけど」
そう言うものの忙しそうには見えない。
僕は構わず話を続ける。
「話があるんだ。ちょっと付き合ってくれ」
「僕にはない」
話し掛けてから一度も、幸秋は僕を見ようとはしなかった。
それは安易に、僕と話をするつもりがない、と言っているようだった。
「幸秋にはなくても僕にはあるんだよ」
冷静であろうとした。
まだ何も決まっていないのだから、と自制しようとしていた。
しかし、感情というものは簡単にはいかなくて、衝動のまま、幸秋の肩を乱暴に掴んでこちらを向かせていた。
それでも幸秋は何も言わず、ただただ冷ややかな眼差しを僕に向けるだけだった。
騒がしかった教室が静かになり、いくつもの視線が集まっているのがわかる。
そんな何とも気まずい空気になっても幸秋は態度を変えることはなく、いつものように平然としていた。
「なにを今更」
ふと、微かに聞こえた呟き。
その言葉の意味を確認する隙を残さず、幸秋は立ち上がりそのまま廊下に出た。
追いかける形で僕も廊下に出た。
そろそろ予鈴が鳴る時刻ともなれば生徒の姿はたまに擦れ違うくらいだったが、人目を気にしているのか、幸秋は更に人気の少ない場所まで歩みを進めた。
「で、なに?」
振り返り、要件はなんだと幸秋が言う。
「話したいことがあるんだろ。だったら手短に済ませてくれ」
いつもより素っ気ない口調に苛立ち、体内に溜まった毒素が己の存在を主張する。見ないようにしてきたそれを遠慮せず、両手いっぱいに汲み上げ見てみれば、疑いという黒い液体が浮かび上がった。
幸秋が僕を騙したという仮説。
それが、僕をどうしようもなく掻き立て冷静でいられなくする。
けど、まだ幸秋が騙したと決まったわけではないし、そうであって欲しくないと思う自分がいる。
これから、その全てがわかるのだから焦る必要はない、そう言い聞かせ落ち着くよう努めた。
「三日前、幸秋言ったよな? 僕に告白したい女の子がいるから放課後、中庭って」
「言ったが、それがどうした」
一番の可能性であった日時と場所は間違えていない。
「下校時刻まで中庭にいたんだ。けど、相手は現われなかった」
どんな反応が返ってくるのかと僕は幸秋を注意深く観察していた。
けれど幸秋はあくまで無表情のままで、感情が表に出ることはなかった。
幸秋は短く、そうか、とだけ呟いた。
「そうかって……他に言うことがあるんじゃないのか?」
「他にって、なんだよ」
幸秋が問う。
何を言ってほしいのか、僕は何を言ってもらいたいのか。
幸秋は間違っていない。
この話は約束した相手が来なかっただけであり、僕が待たされただけのことで、伝言役の幸秋は悪くない。そう、思ってたじゃないか。
不幸な偶然で出来上がった噂話と疑い。
それだけのこと。
それで終わり。
でも……何だかすっきりしない。
「残念だったな、もういいだろ」
くだらない、とでも言いたそうに勝手に話を終わらせ、僕の許可もなく教室へと足を向けた。何も知らない幸秋はそれだけのことだと思っている。
自分には関係ない事のように済まそうとしている。
それが、どうしても許せなかった。
「待てよ」
ぼそっと呟いただけだったが幸秋の耳に届いていたらしく、足を止めこちらを向いた。
「お前にも関係あるだろ」
一度引き金を引いてしまえば後戻りは出来ない。
「お前があの時、告白の話さえ持ち出さなければ、こんなことにはならなかったんだ」
それが責任転嫁だったとしても、幸秋が言い出さなければ始まらなかった。
僕の所為でこうなったんじゃない、そうするように差し向けられた事実は変わらない。罪を擦り付けたところで何も変わらないのはわかっている。
馬鹿なことを言っている自覚はあっても、止められない。
「幸秋は休んでいたから知らないのも無理はないか。なあ、今僕がなんて呼ばれてるか知ってるか? 変態、だってさ」
内緒話であっても声にすれば何処からともなく誰かの耳に入ってしまう。
その話が面白ければ面白いほど、学校という狭い建物の中であればあっという間に拡散していく。興味もなく、聞いてもいない僕の耳まで入ってくるほどだった。
それが担任の不注意によるものか、井口さんが誰かに話したのかはわからない。
突き止めたところで何も変わらないのだから調べても意味はない。
既に周知の事実として僕が犯人候補として名が上げられ、女子の衣服を愉しむ趣味のある人間だと思われていた。そして変態だと場所を問わず陰口を叩かれる。
どこまで広がっているのかは知らないし知りたくもないが、学年の違う見知らぬ生徒までもが僕を指差しては冷たい視線を送ってきていた。
決して少なくはない人数に知れ渡っている。
「それで?」
何が言いたいんだと目で語り先を急かす。
自分には関係の無いことだと、そう言っているように聞こえた。
どんな経緯があったのかを知らなくとも、ことの重大性が掴めないほど幸秋は鈍感ではない。僕が置かれた状況を理解できないはずもない。
にもかかわらず、友人が悪口を言われていても気にも掛けない。
冷たいところはあるとは思っていたが、これほどまでに酷い人だったのだろうか。
話せば話すほど苛立ちが募る。
正面から幸秋の顔を見ているのも苦痛に感じ、僕は視線を逸らした。
「一つだけ、頼みがある。幸秋が僕を呼び出したって、みんなの前で言ってほしい。そうすれば僕の疑いはなくなるんだ。だから――」
次に発した幸秋の言葉が信じられなくて、言い掛けた言葉を忘れてしまった。
呼び出した二つ目の要件にして最後の問いだった。
幸秋が僕の証人になってくれること。
なのに――。
「僕には、関係ない」
そう、言ったんだ。
「関係ないはずが、ないだろ……。お前が、言ったんじゃないか。そのせいで、僕は」
幸秋は何も言わない。
何も言ってくれない。
「呼び出した女子って、誰だよ……」
原因を作った人に文句を言う為にも、知っておく必要があった。
そして、無実の疑いを、嘲笑う人を、不審者だと写すその瞳を、打ち消す切っ掛けをその人も持っている。
もう手遅れかもしれないが、その子が僕を呼び出したのだと話してくれれば、僕が中庭にいなくてはらない理由と証明ができると考えていた。
二つ目の逃げ道であり、僕が普通の生活に戻れる僅かな可能性だった。
「知らない」
それを、あっさりと、切り捨てた。