雨に打たれて。4
顔を上げれば柚木さんと視線が合った。
まだ恥ずかしそうにしていたけれど、僕を許していると告げるように微笑んでくれた。また、噛み合わない。
「帰る前に、ちょっと話してもいいかな?」
僕はベットから一歩離れた床に腰を下ろす。
柚木さんは小さく頷いてくれた。
整理する時間は沢山あった。
だから聞きたいことも頭の中で纏まっている。
それから僕は目を閉じて、ひと呼吸置いて、柚木さんの方へと顔を向けた。
「僕には、柚木さんがわからない」
聞き方を変えれば失礼なことを言っているのかもしれない。
けれど柚木さんはそうとはとらなくて、僕の言葉を真っ直ぐに受け止めて静かに頷いていた。
「どうして約束の時間を過ぎてまで待っていたんだ?」
何時間も約束したほうが来なければ流石に呆れて帰っても当然なのに、怒ってしかるべきはずのことをしたのに、今の今まで文句の一つも出てきていない。
「雨だって降ってたのに傘も差さずに」
雨水に打たれてもその場所を動こうとしなかった。
そこまでする理由が僕たちの間にはない。
「それだけじゃない。僕の代わりに上級生にパンを届けていたことも」
聞きたかったことは一つだけだったはずなのに、関われば関わるほど、柚木さんという人物が見えなくなっていく。
「僕は柚木さんのことを知らない。だから教えて欲しい」
聞きたいことを言い終え僕は口を閉ざした。
普通の言えたと思う。でも、柚木さんはまるで責められているかのように目を伏せていた。
その表情は読みにくく、それでも何かを当てはめるなら落ち込んでいるというのが一番近かった。
僕と向き合うと、いつもそんな顔をしていた。
「全て、私が約束を破ったから……です」
ふと、柚木さんが呟いた。
その言葉は更に難解で、僕が求めた問のどれにも当てはならない。
ただ、それが神社での待ち合わせのことを言っているのではないのはわかっていた。
「約束って、僕たちは会話もまともにしたことなかったじゃないか」
柚木さんと交わした約束事を僕は記憶していない。
忘れているのではなく、僕たちが約束を交わす間柄ではなかった。
「違うんです」
柚木さんはそうじゃないと否定する。
その言葉にある種の含みを感じてはいるけれど、それがどんなものなのかまではわからない。
「よくわからないんだけど、何が違うの?」
柚木さんは首を横に振るだけだった。
話は一向に進む気配はなく、唯一の進行役であった僕も口を閉ざした。
質問を投げかけることも、踏み込むことも出来なくなってしまった。
僕が喋ると柚木さんは辛そうな表情を浮かべる。
その原因も知れないまま、そんな顔をされては、これ以上僕からは話せそうにない。だから、柚木が話してくれるまで僕は黙って待っていた。
数分が経った。
柚木さんはベットに座ったまま、静かに目を閉じてはゆっくりと深呼吸を繰り返していた。
気持ちを落ち着かせているのだろうけど、表情は依然として硬いままだった。
親しくない男の家にいるのだから緊張しているのかもしれないが、僕はそれだけではないように思えた。
寝ている時は安らいだ表情をしていた。
年下のように幼く無防備な表情が、本来の柚木さんなのだと思った。
僕の前では一度も見せたことのない表情をしていた。
起きてからは微かに顔を強ばらせ、身を小さくして縮こまっている。
それが解けないまま目を開けた柚木さんは、あの日、と声を震わせながら無理やり言葉を吐き出した。
「私に……勇気が、なかったんです」
柚木さんは声が聞こえる。
消えそうなか細い声を必死に絞り出しては、僕に何かを伝えようとしていた。
「失敗したら、すべてが終わってしまう……会話もまともに、したことなくて……それでも、そのことが切っ掛けで、避けられるかも、と思ったら、足が、動かなくなってしまって」
柚木さんはゆっくりと、時折言葉を詰まらせながらも言葉を紡ぐ。
僕はただ耳を傾けていた。
「嫌われたくなかったんです」
柚木さんは少しだけ顔を上げて、控えめに僕を見つめた。
怯えたように瞳が揺れている。
見つめ合うと俯いてしまうのに、今はそうならなくて。決して逸らそうとはしない瞳が真っすぐ僕に向けられていた。
俯いていたから気付けなかった。
揺れている瞳の奥に、熱が宿っていることを。
「間違いでした。覚悟もないのに告白なんて身に過ぎたことを……思ってしまたことが、全ての間違いだったんです」
柚木さんの顔を見て、言葉を聞いて、不明瞭だった物が全てが繋がった感覚があった。
始まりの出来事。告白に始まった捻じれた出来事の数々。
それが誰なのか。誰の所為でこうなってしまったのか。
知っていたのは二人だけ。
「私の所為で明日河くんの環境が変わってしまいました。私が頼んだことで友達と喧嘩してしまいました」
お世辞にも、聞き取れるとは言えない声がまた小さくなっていく。
悲しみと後悔が濃くなった瞳からは熱を失って、再び柚木さんは俯いてしまった。それでも、話すことはやめようとしなかった。
「それに、上級生の男の子たちに使われていること、暴力を受けていることを知りました」
柚木さんはあの日からの僕を語る。
何もかも変わってしまったあの日からの僕の苦悩を柚木さんは知っていた。




