柚木香織という人物。4
「あのさ」
声をかけると彼女は緊張気味に、はい、と答えた。
威圧的には言っていないつもりだったが、彼女の声は震えていた。
「僕なんかと話してると変な噂、たてられるよ」
忠告としてそう言った。
それでも、彼女は一向に離れそうになく、仕方なくも僕は畳んだ本を広げ視線を落とした。無視していれば何れは離れていくだろうと。そうすれば彼女への無用な噂は生まれないだろうと思っていた。
なのに、視界の端に映る彼女は動かない。
そうしていれば、どこの誰なのかは判断できないけど、僅かに僕たちのことを話している声が聞こえてくる。ため息を吐き、顔を上げた。
「いい加減にしてくれない? そうやって目の前に立ってると気が散るんだけど」
迷惑だと、周囲に聞こえるように含ませる。
「ごめんなさい。邪魔、するつもりは、なかったんです」
彼女は落ち込んでいた。
俯いて顔は見えないけど、もしかしたら泣いているのかもしれない。
突き放された彼女は背を向け、とぼとぼと歩き出す。
言い過ぎたかもしれないが、これで僕と彼女の関係が良好なのもだと思う者はないだろう。
僕に関する噂話は少なくなったような気はするが、油断はできない。
今の自分の立場を鑑みて、無関係の人を巻き込まない方法としてあえて強い言葉を吐いた。本意ではないとしても拒絶を示し突き放した。
それなのに、彼女から目が離せないでいた。
無理やり視線を逸らしてみたが、どうも見なかったことには出来そうになく席を立った。
「ちょっと待って」
教室から出た彼女を呼び止める。
そして、彼女が振り返ってしまう前に素早く張り紙を剥がし、ぐしゃぐしゃに丸め手の中に隠した。
「ゴミ、付いてたよ。それだけ」
それ以上の会話は望んではいなく、早々に自分の席へ戻った。
一瞬だけ見えた彼女の顔に涙の跡はなく、ほっとする。
多分、彼女は気付いていなかった。
気付くことができない、意図的で人為的な悪意が背中にくっついていた。
随分ひどいことをする奴がいる。
自分とは全く関係のない他人のことのはずなのに、どうしてか彼女のことばかりに意識が向いてしまい、読書どころではなくなり僕は本を手放した。
その日から時折、彼女を見かけるようになった。
どうやら隣のクラスだったらしく、合同体育の時間は一緒に授業を受けていた。
今まで接点のなかった彼女を一度認識してからというもの、無意識に目で追いかけている自分がいた。
そして、彼女を見ていたのが僕だけではないことを知った。
男連中は暇さえあれば彼女を盗す見ては、なんやかんやと話していた。
その話を聞かずとも彼らの顔を見ていれば容易に想像がつく。
どうやら彼女――柚木さんは人気があるらしい。
それは生徒だけに留まることはなく、生活態度に加え、成績の良い彼女は見習うべき模範的な生徒として先生方からの評価も厚かった。
担任からの推薦として生徒会に誘われたことがあるけれど、個人的な理由で断ったことがある。
という話を耳にした。
それ以外にも話の続きはあったが、どれも空想から出た現実味のない話が多かったのでそこは割愛する。
顔立ち、成績ともに秀でているからにはさぞ人気者だろうと思っていたが、意外にも彼女は一人で居ることが多かった。
グループの輪から外れ、一人でいることで寂しそうではあったけど、それで彼女の評価が落ちることなく、むしろ魅力を更に引き立てているようにも感じられた。
そんな彼女を後ろから見ていれば、視線が重なることが度々あった。
偶然かもしれないけど、それにしては回数が多いような気がした。
授業も中盤になり、走り幅跳びを終えた僕は走っている人をぼんやりと眺めていた。次にスタート位置に並んだのは幸秋だった。
軽く身体をほぐしながら腰を落とし、スタートラインに手を付けクラウチングスタートの構えで合図の時を待つ。すっと上げたその横顔は真剣だった。
真っ直ぐに正面を見据えたままスタートを待つその姿は大会に望む選手のようで、真剣に取り組むことは悪くはないのだけど、記録も付けない授業としてはふさわしくないように思えた。
合図の笛が鳴ると同時に駆け出す。
隣で走る生徒を突き放し、全力ではないにしろ早い速度を保たまま踏切板を飛び超え、綺麗な線を描き滑るように着地する。
僅かな歓声と驚きの声が聞こえた。
その姿は同性から見ても格好良いもので、僕は改めて幸秋との距離を感じていた。
学校に戻ってからというもの、幾度か話しかけようと試みてはいたが、その度、不自然に席を立ったり、僕を見るなり反対方向に行ってしまうので未だに挨拶すらまともに出来ていない。
避けられているのはわかっていたので、良きタイミングが来るまで待つことにした。そんな幸秋を目で追っていくと、列の最後尾に立ち誰かを見つめていた。
視線の先には柚木さんがいた。
その柚木さんは僕の方を見ていたらしく、目が合うとそっと視線を外される。
視線を戻せば今度は幸秋が僕を見ていて、目が合うと露骨に逸らされる。
少量の寂しさを感じながら、嫌われ者だったあの頃はこんな感じだったなあ、と思い出していた。




