疑い。
連絡事項を伝え終え、いつものように授業までの空いた時間を読みかけの本で潰そうとしていると担任に呼ばれた。
「あー、明日河、話がある。ついてきなさい」
突然のことに驚きつつも呼ばれるまま席を立ち、先を歩く担任の後に僕は黙って付いて行った。
授業開始のチャイムが鳴って少しばかりが経ち、亀のように遅い歩みに付き合いながら廊下を進んでいくと、職員室の隣にある進路指導室に通された。
初めて入った進路指導室の中央にはガラスのテーブルとソファーがあり、壁ぎわの棚にはトロフィーや写真などが飾られていた。
「適当に座ってくれ」
担任に言われるがまま僕は手前のソファーに腰掛けた。
進路指導室は外に会話が漏れない造りになっているらしく、扉を閉めるとわずかな雑音も聞こえなくなった。
「急に呼び出してしまってすまなかったな」
向かいのソファーに腰を下ろした担任は、少し猫背気味に背を丸めていた。
いえ、と答えつつも、心中穏やかではいられない。
未だに、ここに連れてこられた理由が思い当たらなく、戸惑うばかり。
一年生で進路の話は早すぎるし、まして授業を抜けてまですることではない気がはしている。
「誤解しないで聞いてほしんだ」
そう切り出した担任は、普段ののほほんとした口調ではなく、ゆっくりとだが何かを語り掛けように話し始める。
「先生は疑っているわけじゃない。そこは理解してほしい」
なんというか、嫌な切り出し方で話は始まる。
「一昨日の放課後、女子水泳部の更衣室から制服がなくなったんだ。それが、なくなったのか、盗まらたものなのか、まだはっきりしていない。けど、着ていた服を無くすなんてことはないと先生は思っている。明日河もそう思うだろ?」
「そう、ですね……」
「服に足が生えているわけではないのだから、勝手になくなりはしない。だとしたら、誰かが関わっているんだと私は思う」
「はあ……」
突然振られた話題にどう反応すればいいのか判断できず、曖昧に相槌を返すしかなかった。
「その生徒も私と同じく盗まれたと考えている。それでひどく落ち込んでしまってな。今日も学校を休んでいるんだ」
僕に何を言いたいのか、何を伝えたいのかも依然として不明のまま、担任は口を閉ざしてしまった。
口の前で手を組み、疲れた表情でガラスのテーブルを見つめている。
この世の何処かにいる変態が校内に侵入した挙句、更衣室に忍び込み、我が校の女子生徒の衣服を盗んだ、と。
そんな話をされても、それは気の毒に、としか思えない。
僕に関係のある話はいつになったら始まるのだろうか。
「えーと、その話と僕に何の関係があるんですか?」
黙ったままの担任に痺れを切らし、僕はそう切り出した。
「疑っているわけではないんだ。ただ、一昨日の放課後、更衣室の辺りで明日河を見たという生徒が何人かいてな。明日河なら、何か知っているんじゃないか?」
遠回しな言葉を選んでいるから、話の本質が見えなかった。
何かを覗うような眼差しはずっと僕に向けられていたのに、それが何なのかが伝わってこなかった。
だけどようやく、担任が僕を呼び出した理由を理解した。
「僕は盗んでません!」
反射的にソファーから立ち上がり、担任に詰め寄った。
目の前の人は生徒を、僕を犯人ではないかと疑っている。
「落ち着いてくれないか」
興奮している僕とは対照的に、担任はいたって冷静な対応だった。
それは、こうなると前もってわかっていたがゆえ、身構えていたみたいに思えた。
「先生は話をしたいだけなんだ」
疲れた声色で囁く担任は、言い争いを望んではいない。
疑いを掛けられていることは心外だったし腹がたったけれど、突発的とはいえ大声を上げてしまったのは良くない。
それに、自分の祖父とさして変わらない高齢者にきつくあたっては気の毒だと、気持ちを落ち着かせる。
「更衣室には近づいていません。それに、知らない女子の服なんて、興味ないです」
「すまない。言い方が悪かった」
丸まった背を更に丸め、軽く頭を下げる担任に掛ける言葉が見つからなく、僕は黙って腰を下ろした。
しばらくの間、沈黙が続いた。
時計の針の音が響く部屋で、少しは冷静になった頭で担任の話を反芻してみれば、どうも担任の言うような事件が起こっていたとは僕には思えなかった。
でも、実際に女子の制服が盗まれたからこそ、その付近にいた僕に声が掛けられた。犯人が今も見つかっていないのなら、僅かな可能性ではあっても容疑者のひとりとして僕の名前が上がるのはわからなくもない。
ただ、それは外から見た話であり、実際に当事者となれば冷静ではいられない。
要するに、疑いを持たれながらの話し合いはあまり気分のいいものではなかった。
「中庭で何をしていたか、話してくれるか? そうすれば、その生徒の誤解だったと証明できる」
担任は僕が中庭にいた理由を求めている。
そして、更衣室には近づかなかったという僕の言動の証明をしなければならなかった。証明なんて出来るはずもない。僕を呼びだした相手が来なかったのだから。
幸秋の顔が脳裏を過った。
あいつなら、僕が中庭に呼び出されたことを知っている。
でも、もし、あいつが僕を騙していたのなら?
「先生には話せない内容なのか?」
「いえ、そういうわけでは……」
担任から向けられた瞳が答えを急かしているようで、耐えられなくなった僕は視線を下げた。
どう言えば信じてくれるのだろうか。
このまま黙っていたとしても、状況は良くはならないことだけはわかっていた。
「更衣室には近づいてません。僕は、中庭に……」
「中庭に?」
考えている間にも、僕が犯人ではないかという疑いが濃くなっていくのを肌で感じていた。正直に、中庭に呼び出されたので待っていた、と言ったところで状況は変化しないだろう。相手を知らない僕の話では、余計に疑いの種を増やすことにも繋がりかねない。
ならばいっそのこと、それらしい嘘を付くことでしか疑いを晴らす手段しか浮かばなく、そうするしかない空気であり、それだけが僕の身を守る手段だった。
「友達を待っていたんです」
迷っている時間もなく、半分だけ吐いた嘘が疑われないよう堂々と言い切った。
「下校時間ギリギリまでか?」
「はい」