世界は大きくて、とても狭い。12
ならばと、ポケットから取り出した新品のナイフをロープに当てた。
「何してる、早く、行け」
「黙ってろって」
極度の緊張と焦り、窮屈な体勢での作業にナイフへ力が伝わりにくい。
贅沢は言ってられない。僕はただ目の前のことに全神経を注ぎ込めばいい。
余計なことを考えれば手が止まる。躊躇えば腰が引けてしまう。
無心で何度も何度も擦り続ける。切れろ、と心の中で願う。
そしてようやく風間を捕らえていたロープを切断した。
使わないだろうと思っていたナイフが役に立った。
「おい」
談笑とは明らかに違う緊張感を纏った声が響く。
一瞬心臓が止まり、そして僕は安心していた。
わかりやすい合図だった。
何の予告もなく背後に立たれていたら僕は終わりだった。
緊張感はほどほどに、危機感は全くない。
全てやり終えるまで気付かれなかった幸運に、僕は感謝すらしていた。
一人が異変に気付き声を上げれば連鎖的に拡大していく。
「誰だ!」
その場にいた全員が僕に視線を向けていた。
もう身を潜める必要はなく、僕は立ち上がると風間を担ぎ駐車場の出口へと走り始めた。
それから数秒後で背後が騒がしくなる。
彼らが僕を敵と認識するまでの時間は結構あった。ありがたい。
バイクで追ってくるであろう連中に速度で適うはずもなく、撒くには路地に入るしか方法はなかった。
挟まれたら逃げ場はないが、身を隠すにはちょうどいい。
背の高い建物に囲まれた細い道に重い足音が響く。
何度も曲がり角を曲がり、時には来た道を戻ったりして彼ら翻弄する。
捕まれば終わりの鬼ごっこ。必死に逃げた。
ペース配分なんて考えていない。常に全速力で闇を駆ける。
姿を発見されなくなってしばらく経っているのに追ってくる音は離れない。
常に僕の背後に張り付いているようだった。
時間が経つにつれ追い詰めれているように感じてくる。
「いたぞ!」
少し離れたところから聞こえた声。
その人物を確認するまでもなく、僕は声のした方角とは反対に走る。
挟み撃ちにならないよう一度大通りに出てすぐ道路の反対側に渡り、また路地へ飛び込む。
彼らの中にも少しは頭を使える人間がいたらしく、速度よりも小回りを優先してきた。対等の立場になったほうが効率がいいと、足で追いかけてきた。
ここら辺の地理は詳しい分、僕の方が有利だと思っていたけれど、それは傲りだった。彼らはそれを人数でカバーしている。
追われる側は常に不安に引きずっており、時間が経過していく度徐々に精神力が削られていく。
消耗戦となれば、一人分の重り背をっている僕の方が圧倒的に不利だった。
体力の消耗が激しい。普段の速度の半分も出ていない。
何処かで休める場所があればいいのだけど、そんな都合よくあるわけもなく、留まることは許させない。
息も絶え絶えの状況が続く。
このままでは捕まるのも時間の問題だと危機感を覚えた瞬間、誰かが左腕を掴んだ。終わったという絶望と、僅かな違和感が僕を支配した。
油断はなかった。
逃げながらも周囲には常に気を配り、彼らの足音から距離を把握していた。
なのにこいつはどこからわいた?
疑問はまだ残る。
僕を捕まえた男は単独で動いていたらしく、周囲に仲間はと思わしき人影は見当たらない。にもかかわらず、加勢を呼ぶ様子はない。
理由はわからないけど、まだ逃げ延びる可能性はある。
微かな希望を掴むため何度も振りほどこうと抗ってはいるものの、相手の方が力が強く振り切れない。
「くそっ」
引きずられ知らない民家の敷居を跨がされた。
このままでは、と脳裏を霞めるのと同時に、その場に風間を下ろした僕は最後の足掻きと暴れた。技も捻りもない無茶苦茶な力の暴走。
そんなものでも相手は翻弄されていた。
「暴れるな」
どこな懐かしい聞き覚えのある声に僕は動きを止めていた。
そして、その僅かな一瞬で僕は見知らぬ家へと引きずり込まれていた。
「靴は脱いでくれ」
今の今まで争っていたその人物はスタスタと足音をたてながら暗闇を進む。
誰だ? と疑問が浮かんだのと同時に明かりがつくと、目の前に上下ともに黒のジャージ姿の幸秋がいた。
様々な疑問が浮かび上がるが、どれも掴めない。
放心状態のまま辺りを見渡せば、部屋の構図と家具の配置には覚えがあった。
とりあえずわかったのは、ここが幸秋の家だということ。
そして、助けてくれたということだった。
「そこに寝かせろ」
幸秋に言われるまで風間の存在を忘れていた。
慌てて抱き上げ廊下を進む。
「靴は脱げって」
再度注意されてしまった。
「悪い」
自分が思っていたより余裕がなかったらしい。
そんな状態では遅かれ早かれ彼らに捕まっていただろう。
両手は塞がっているので片方ずつ靴を踏んづけて脱ぎ、言われたソファーに風間を下ろす。一度は意識を回復させていたけど、逃げている間はずっと静かだった。
今は安らかに眠っているようにも見える。
けれど、破れた服の隙間から痛々しい擦り傷がいたるところにあった。
血は止まっている。
目を背けたくなる僕の隣で、幸秋は静かに風間の怪我の状態を見始めていた。
頭に手を当て、袖をめくり、お腹や背中、足へと上から順番に見ては、怪我の状態を確認しているようだった。
「見た感じ打撲は酷いが、骨まではたっしていない。内蔵関係は病院にいかないとわからないけど、今すぐに死ぬことはないだろ」
「そうか」
張り詰めていた糸が切れたといえばいいのか、安心した途端に身体の力が抜けその場にへたり込んだ。
「よかった」




