世界は大きくて、とても狭い。8
僕は逃げるようにその場から離れた。
呼吸が荒くなっている。
僕が受けた暴力なんて子供の悪戯程度のものだった。
衝撃的な光景を目の当たりにして気持ちが昂ぶっているらしく、心臓の鼓動が早い。
落ち着かせるために近くにあったベンチへ腰を下ろす。
映画やテレビのような映像を通して見たものでは伝わらない生々しさ。
真っ赤な血の色。
断続的に響く短い悲鳴が鼓膜にこびり付いて離れない。
無差別に危害を与える人がいるのは知っていた。
自身の苛立ち解消のためだけに無関係の人を殴る。
それが異常なことだということをようやくわかった。
まだ、金銭目的のために暴力を振るっている人のほうが理解できる。
見てしまったらもう引き返せない。
「田辺さん、時々ああなるんだ」
ベンチで休んでいるといつの間にか風間がいた。
「みんなはそのこと――」
「もちろん知ってる」
知ってて見過ごしているんだ。
僕が知らないだけで他にも……。
「抜けよう」
風間に言う。
「それで、二人で遊べばいい。一緒にゲームはできなくなっちゃうけど、余計なお金は使わなくなるんだ。そうしたほうがいい」
勢いのまま、思いついたまま言葉にする。
「あの人たちとは関わちゃいけない。目が違いすぎる」
このままここに居続ければきっと正常ではいられなくなる。
少しでも彼らの色に染まってしまう前に、手遅れになる前に友人を連れ出したかった。
「遊ぶのは僕の家だっていい、隣町だっていい。探せばここよりいい場所が見つかるよ」
急ごしらえだったが、意外にも名案だと思った。
風間だって田辺さんの行動が良くないと思っているからこそ、暗い顔をしている。だから、いい返事がくるとばかりに思っていた。
「ごめん、それはできないんだ」
風間は賛成してくれなかった。
「家苦しんだろ?」
風間は俯いたまま何も言わなかった。
固く結んでいる口元が、それ以上は喋るつもりはない、と言っていた。
間違ってはいないはずだと思う。
基本はいい人たちなのかもしれない。
でも、それはその人の一部分に過ぎなく、自分の欲求のためだけに無関係な人に拳を振るう行為を僕は見なかったことにはできなし、受け入れられない。
それを見逃しているみんなにも嫌悪感を覚えるし、余裕のない風間にお金を使わせている考え方だって僕とは大きくズレている。
間違っていると思うのはこの場の僕だけが感じていることではなく、風間もきっと、心の何処かでは納得していない。
だとすれば、風間を縛っているものは僕の知らないことだと思った。
「アルバイト」
思いつく限り、風間が留まる理由がそれくらいだった。
それだけが引っかかることだった。
顔を上げた風間は僕を見つめ、哀しげに笑った。
「覚せい剤ってわかるか? それの受け渡しをしているんだ」
考えていたどれよりも最悪の答えだった。
「日高さんに進められて始めたんだ。俺の年齢だと選べる仕事は限られているから、短期間に大人並みのお金をてにいれないといけなくて」
「でも、それは――」
「もう、無理なんだよ」
諦めたようなその呟きは、風間の心情を表しているようだった。
犯罪に詳しくない僕でも、薬物に関する刑罰は厳しいと聞いたことがある。
そして、話に出てこないけど多分、全員なにかしらの形で関わっているのだろう。
驚きはしたが、あの惨状を見せられた後では遠い話ではなく、受け入れている自分がいた。
その時に、こうも思った僕はきっと薄情で酷い人間かもしれないけれど、今となっては風間以外どうだってよかった。
「どうしてそこまで金にこだわる。家が苦しいって言ってもそこまでしないといけないのか? 僕らまだ十六だぞ? 無理しなくてもいいんじゃないか」
未成年者の僕らが、まだ大人ではない僕らがしなければならない理由はないんじゃないかと。単純で浅はかな考えだった。
「母さん足が不自由でほとんど寝たきりなんだ。だから俺が入れるお金に頼るしかないんだ。借金だってあるし」
風間は言う。
「たとえ汚いお金であってもそれが俺たち家族を支えているんだ」
僕は何も知らなかった。
「それしか、選べないんだ」
そう締めくくり風間は口を閉じた。
警察に捕まる危険がありながら稼がなければならない理由があった。
僕はそっと顔を正面に向けていた。
隣にいる僕と同い年の男の子は、心底疲れ果てた顔をしていた。
逃げ場のない袋小路。
家族という大切な人をそのか細い肩に背負って、風間は未来を犠牲にしていた。
どうしてなんだ。
何で風間ばかり負担を背負わなければならないんだ。
こんなに良い奴滅多にいないんだぞ。
大体の奴が自分のことに精一杯で、自分勝手に生きているのに、どうして風間だけが自由を奪われなくちゃいけない。
他のどうでもいい奴だってよかったじゃないか。
普通に学校に通って、普通に友達作って、遊んでたっていいじゃないか。
そんな当たり前のこともできないなんて残酷過ぎやしないか。
「何か、他になかったのか?」
訊く相手を間違えているのはわかっていても、訊かずにはいられなかった。
「あったらとっくにやってる」
そうだろうな。
だとしたらどうすればいい。
待っていたって救いがやってくることはない。
なら、僕に何ができる。
自分で稼いでいるわけではない僕では金銭面の援助は難しい。
それどころか自分のことすら満足に出来ていない僕に、果たしてできることはあるのだろうか。
大切な友達が危険な橋を渡っているのに、僕は見ていることしか出来ないのか。
「明日河はまだ引き返せる」




