蜘蛛の糸
――人の世はまるで蜘蛛の巣。網目に沿って歩かなければ、いつか粘性の糸に絡め捕られる。
久しぶりに学校と呼ばれる場所に出てきた。いつだってその場所には人がたくさんいて、たくさんの噂話が飛び交っていた。憶測、畏怖、憧憬。そんな中に、真実はほんの少しずつ紛れている。
「来たばかりで嫌なことを聞いたって思うでしょうけど、ちょっと前までこのあたりでは連続殺人事件があったの。決まって夜に」
そういった感情を努めて排して私に教えてくれたのは、隣の席に座る山野小紅だった。ちょっとの顔の動きでも必ずそれに従って流れる、絹糸のようなその髪に、私の目は奪われていた。
「ここ何日かは聞かなくなったけど、犯人はまだ捕まってないの。だから、夜一人で出歩くのはやめた方がいいって、もう誰かから聞いたかもしれないけど」
あの時は、ぎこちなくしか動かなかったからか、そんな繊細な髪だとはわからなかった。もしそれを見て取っていたら、彼女のことを呼び止めていたかもしれない。あるいは――。
「周りでは吸血鬼とか変な噂になってるけど、とにかく物騒だから、宇田川さんも気をつけてね」
目の前の彼女は、私のことを初対面のように扱っていた。彼女に覚えられていなかったことが、こんな見事な髪を持つ子の目に自分が留まっていなかったことが、私には少し悔しかった。
それにしても、吸血鬼か。
人の伝承というものは、まれに自分たちが真理と信じているもの以上に真実そのものだったりする。自分たちが理解できないことは非現実の話と切り捨てようとするが、同時にまた捨てきれずにどこかに残しておくのが人というものの常だった。
「詳しく教えてくれてありがとう。夜に出歩かないように気をつけるわ」
うなずいた彼女の背で、髪がまたさらりと揺れた。その麗しさに、私の口からため息が漏れた。
「長々としゃべってごめんなさい。慣れない場所で、疲れちゃったかな?」
それを彼女は違う意味に取ったようだった。そう言って彼女が小首をかしげると、やはり寸分たがわずに同じだけ髪が流れた。
「いいえ。心配をかけて、こちらこそごめんなさい、山野さん」
こういう時は少し目を細めて口の端を上げて、そう、笑って見せると相手も似たような顔をして、大抵はどうにかなるもののはずだった。しかし彼女はやや目を伏せてしまった。耳の後ろに掛かっていた髪が数本、はらりと目の縁にこぼれた。
「私、友達からは名前で呼ばれてるの、小紅って。一人だけ呼び名が違うのもよそよそしくなっちゃうし、お互いに名前で呼んだら、ダメかな? なれなれしくて嫌とかじゃなければ、私も宇田川さんのこと、夕菜って呼びたいんだけど」
ややあって顔を上げた彼女が、名前で呼び合うことを提案した。初めは勢い込んでいたが、だんだん遠慮がちになって、終いにはおずおずと上目遣いになって私の様子をうかがうようだった。
呼び方を決めるのは、親密さの証。彼女が私のことをそういう間柄として認めようとしてくれていることにに、否やはなかった。密なればこそ、そこに捕らえられるものもある。
「いいわよ。では改めてよろしくね、小紅」
「ええ、夕菜。仲良くしましょう」
私の久しぶりの学校生活は、ここから順調に始まった。ここから網目を作っていけばいい。
月と電灯が足元を照らす小道、私は一人、悠然と散策をしていた。当てなどはない。ただ気の赴くままに歩を進める、そうしたくてしているだけだった。
夜とはこれほど明るかっただろうか。空を見上げた私は、どこか沈み切っていない群青色とぼやけてよく見えない星に嘆息した。人は闇を恐れ、常に闇を払おうと努め続けてきた。その結果が、今ここにある夜らしからぬ夜なのだろう。
光は影を浮き立たせる。闇に住む者はその影にたやすく隠れることができる。しかしそこから現れなければ動くことはできない。彼らにとって一面の闇夜とこの夜と、どちらが働きやすいだろうか。
機械的な音を上げながら、何かが私に近づいてきた。私は半ば無意識に、左手で腰に差したものにそっと触れた。
前方の交差点に、右から光が差し込んだ。音と光を発するものが私の目の前に現れ、私がそれを警察のバイクと見て取ると同時に、その光が私を向いた。まぶしくて目をそらした隙に、バイクは私の右脇まで間合いを詰めていた。
こんな簡単に間合いを取られるなんて、思わず私は自嘲の言葉を漏らしたが、バイクの音に紛れてその乗り手には聞こえていなかったようだった。
「君、それ中学の制服だね。見覚えのない子だけど。こんな時間にこんなところで何やってるの?」
初老の警官の問いへの答えを、私は持っていなかった。
「夜に出歩くのは危ないから早く家に帰りなさい。……ん? それは?」
私を物色するようにじろじろ見ていた警官が、左腰に目を止めた。いぶかしむように眉根を寄せた警官に、私はスカートのベルトに差してあるものを取り出して手渡した。
「小刀ですよ」
刃物と聞いて身じろぎした警官は、確かめるように一度だけ私の顔を見てから小刀を抜いた。バイクのライトが反射して、刃紋が鈍色に光った。布で磨き上げて手入れをしている刃紋の輝きは、私を満足させた。その美しさに見とれたのか、警官はしばらく唖然として小刀に見入っていた。
「工作用にしては大きいとは思ったけど、これは子供が使うようなものじゃないな」
警官は小刀を収めたが、まだそれを手にしたまま私に返してはくれなかった。そして表情を引き締めて小刀を握りしめ、私に問いかけた。
「こんなものを、こんな危ないものを、どうして君のような女の子が持ち歩いているのかな?」
「たったひとつの母の形見なんです。だから肌身離さず持ち歩いています」
警官は私の説明に納得せず、私の目に合わせていた視線を小刀に落として、なお言葉を続けた。
「だが、こんな凶器になるものを身に着けて歩いているのを、見過ごすわけにはいかない。たとえ使わなかったとしても、持っているだけで誤解を招く」
このまま没収する気ならばやむを得ないと私が思ったのと同時に、警官が小刀を差し出した。
「君には大事な形見かもしれないけど、他人から見れば危険なものだ。家に置いておきなさい」
差し出された小刀を捧げ持つようにして受け取り、私はあいまいにうなずいた。小刀から手を離した警官は、危険物が手を離れた安堵からか、肩を上下させて大きく一息ついた。
「それから、知ってると思うけど最近この近くで殺人事件が起こっている。ここ何日かは静かだけど、まだ犯人は捕まっていない。今は特に夜に出歩くのは危ないから、今すぐに家に帰りなさい。いいね?」
警官はもう一度顔を引き締めて早口にまくしたて、私の返事を待つように目をのぞきこんできた。
「ご忠告、ありがとうございます」
警官はその返事に満足したようにうなずいて、バイクにまたがって私が歩いてきた方向へと走り去っていった。こんなことにも目くじらを立てるようになったのかと面倒に思った私は、凝りをほぐすように首を左右に振ってため息をついた。
小刀をスカートの内に差しなおして、私は月と電灯の下、散策を続けた。彼の親切に礼は言ったが、帰るなどとは一言も言っていない。
人はまるでいつ何時どんなところで起きたどんなことでも見、聞き、伝える網を作っているかのようだ。個々ができることは限られていても、これが侮れない力を発揮することがある。
「丸印が夜中に争っているような騒ぎがあった場所。で、バツ印がこの間までの吸血鬼事件」
小紅の机の上に地図を広げて熱心にしゃべっているのは、友達のいとこの友達の兄に警官がいるのだと胸を張っている原田董子だった。そんな遠い伝聞情報を基にした憶測など当てにならないと小紅は呆れてそっぽを向いていたが、私は話としては面白いと思いながら黙って耳を傾けていた。
「知らなかったな。そういうのってもう何回も起きてるんだ」
董子に相槌を打つのは、やはり蜜蜂のように人から人へと噂話を交換して歩くのが好きらしい竹園雪美の役目だった。いつもならば互いの噂話を持ち寄って話を膨らませるのだそうだが、今回は董子の独壇場となっている。
「それでね、これを何となくたどっていくと……」
董子は広げた地図の一点に人差し指をつき、それからそれをゆっくりとひとつの方向へと走らせていった。
「ひとつの方向性があるってことね。つまりは」
ひらめいたことを口走った雪美を薫子が制して、もったいつけるかのように一度私たちをぐるりを見渡した。
「ちょっと小紅、聞いてる? ここからが大事なところなんだから」
それを横目でしか見ていなかった小紅に、薫子は注目を集めるようにわざと音を立てるようにして机を叩いた。
「はいはい。吸血鬼はまだいて、だんだん離れていってるって言いたいんでしょ? そう言って油断して、怖い目に遭っても知らないんだからね」
「じゃあ小紅はどう思ってるのよ」
軽くあしらわれた董子は、むきになって小紅に食って掛かった。そこでようやく小紅はようやく話の輪に中心を向いたのだったが、董子の顔が間近にあったことが意外だったらしく、音を立てて息をのんだ。素直な髪がそんなわずかな所作さえも見逃さずに合わせて揺れたのを、私は横目で見ていた。
「騒ぎのことはニュースになってないから私はよく知らないけど、もし本当だとしたら別の事件が始まったのかもしれないじゃない。危険性が遠ざかるどころか、二倍になったかもしれないと考えるべきだと思う」
一呼吸おいて、小紅はこの場の三人に諭すかのように静かに言った。理屈が通っているだけに反論はできず、董子は脇の椅子にへたり込んだ。
「なんでそう味も素っ気もないようなことを言うかな。もしかして小紅って、私のこと嫌い?」
不満に頬を膨らませ、小紅からやや顔を背けて薫子が文句を言った。
「そんなことないけど、でも誰かが傷ついたりしてることを面白おかしく言うのは好きじゃないの。それに今度のことは、間違った認識で危険にさらされるかもしれないのよ。しっかり注意しなくちゃいけないじゃない」
対する小紅は、あくまで感情を抑えて語っていた。そんな二人を交互に眺めながら、雪美は肩をすくめて傍観する態度を取っていた。
「小紅が冷たい。夕菜からも何とか言ってやって」
誰にも取り合ってもらえない董子の対象が、その場にいる残りの一人の私に向いた。小紅は冷たいと言われるような子ではない。しかし、ことこの噂に関しては、まだ付き合いの浅い私でもわかるくらいに冷めた態度をとっていた。
だが董子もそれを責めたいのではなく、ただ構ってほしいだけだろう。ちらちらと時々小紅に向けられる横目がそれを物語っていた。
「大丈夫よ。小紅は怖がりだから、騒ぎのことなんか聞いて身構えただけだと思うわ。私もその話は知らなかったし、小紅の分までありがとうって言っておくわね」
心からの感謝を込めて、私は董子に笑って見せた。目の端に髪が振れるのを見たと思ったら、小紅がまたそっぽを向いていたのだった。自分の言ったことが当たっていたことに、私は満足した。
「まあ、そう言ってくれるなら、私も頑張って聞きこんできたかいが、あったってもんだからね、うん」
少し戸惑ったように二、三度ほど言葉をつっかえさせながら、董子は地図を畳んだ。機嫌は直ったようだった。
「夕菜って何て言うか、大人だね」
その横から感心したように雪美がため息交じりに声を漏らした。
「そんなことないわよ」
私が笑って否定すると、雪美はもう一つため息を漏らしたのだった。
獲物が網に掛かった振動を感じた。あとは網を伝って獲物を捕らえに行けばいい。その場所とは、董子が地図で指さした終着点である。小刀をスカートの内に隠して、私は歩いていて偶然見かけた公園の一角で夜中を待っていた。
小紅の指摘も、半分は当たっていた。彼女たちが吸血鬼と呼んでいたものと、新たに董子が聞きこんだ噂の主とは、別個の存在である。なぜなら前者は、私と小紅が初めて出会ったあの時に終わっていたからだった。
私は街灯の届かない木立の中で息をひそめていた。隠れるような真似など不愉快なのだが、先日のように誰かに詮索されるようなことは面倒だった。小紅ではないが、避けられるものならば避けるべきだろう。
時折、仕事帰りの大人たちが公園の前の道を声もなく通り過ぎていった。それも下弦の月が夜空高くに上るにつれて、その間隔を開けるようになっていった。
ふと、木立が風もないのに不吉な音でざわめいた。来た。私は気を集中して感覚を研ぎ澄ました。
男性の悲鳴、この木立の奥の方向からだった。少し遠い。落ち葉を踏みしだく音を立てて相手に気づかれるのは好ましくなかったが、仕方なく私は木立の中を駆けだした。走りながら腰に隠した小刀を手に取る。
「顕現!」
私の声に応じて、小刀がその姿を脇差状に変じる。これが私の愛刀・吸魂刀の本当の姿。本当の姿に変じた吸魂刀を、今度は左腰のベルトの下に差す。低い柵と木立を横切る裏道が見えてきたところで、私の白金の瞳が二人の重なり合った人影を捉えた。
柵に手をかけて飛び越え、その人影の前に躍り出た。向こうもそれに気づき、ふたつの人影のうちのひとつがこちらを向いた。もうひとつの人影がその場に崩れ落ちる。それはすでに人ではなかった。そして私に身構えるもうひとつも、人ではない。
「吸血の一族、三人だけ境界からこっちに逃げたはずけど、他はどこに行ったのかしら?」
私の問いかけに答えず、それは前かがみの姿勢をとって、私に飛びかかる隙をうかがっていた。さすがは一族、あの時の者と同じ構えだった。
「一人はこの間私の糧になってくれたんだけどね」
嘲笑を込めたその言葉を合図に、それはまっすぐ私に向かって跳躍した。右に飛んで、私はそれをかわした。
「こっちに夜逃げして楽に暮らそうって魂胆でしょうけど、それはすごく甘い考えだわ」
もう一度跳躍したそれを、今度は左に体を旋回させただけでかわした。風だけが私の顎をかすめて過ぎた。
「向こうから逃げ出した時点で、どう殺されても文句は言えないのよ?」
さらに地を蹴って連続して飛び込んでくる。私は左腰に差した刀を左手で上下逆さまに反転させた。お誂え向き。右手を柄にかける。目が細められ、口角が上がるのが、自分でもはっきりと感じられた。
シュッ!
すれ違いざま、抜き打ちの一撃。完全に捉えた。しかし瞬間、私は脇を締めた。
「こちらに抜けた我らがどうしようと、我らの勝手であろう。それをなぜ追ってくる。あまつさえ我が兄弟を手にかけるとは」
それまで無言だったそれが、左の脇腹に浅い傷をつけられて声を発した。唸るような荒い息遣いを混ぜながら、もう一度構えを取り直す。
「そうね、何をしようとお前たちの勝手だわ。でもお馬鹿さん、それは私の勝手でもあるのよ?」
あくまで静かに、私は今度は正眼に構えた。そのまま両者とも固着する。下弦の月が薄い雲に覆われて、ゆっくりと明滅していた。
雲はだんだん厚さを増して、ついに月の光を遮った。深くなった闇の中、それの目が私を刺すように光を放つ。だが、急にその光が揺らいだ。
足音。私の耳がそれを捉えると同時に、それは木立の中へと飛び込もうと膝を曲げた。
「逃がさない」
踏み込みは浅いが、私もそれを追って跳躍した。捨て身の突きがそれを貫き、痙攣するさまが刀を伝わって私の手に届き、同時に甘美を感じさせる流れのようなものが私に注ぎ込む。その流れはすぐに尽きて、私は反転したままの鞘を戻して刀を収めた。
それは体に空いた穴から血を垂らしながら、なお立ち尽くしていた。吸魂刀は斬った者の魂を喰らう。魂を失った者は、すなわち自らの意思を持たない。私はそれが羽織っていた上着を剥ぎ取り、穴をふさぐように胴をきつく縛った。
「そこの死体を担いで、境界に帰りなさい」
自らの意思を持たない者は、その命が尽きるまで私の命令を自分の意思として行動する。この傷では、境界の向こうに行きつくまで耐えられないかもしれないし、途中で人に発見されて騒ぎになるかもしれない。しかしそれは私には関係のないことだ。
「縮退」
私の声に応じて、吸魂刀は小刀状にその姿を変じた。スカートの内に小刀を隠しなおした私は、流れた雲の向こうから再び現れた下弦の月を黒い瞳でしばらく眺め、それから悠然と公園を立ち去った。