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境界の守  作者: 黒田皐月
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逢魔が時

 ――逢魔が時、妖が人界に出ずるを阻むは、境界の守たる、半人半妖の守護者。


 夕陽差す小道、学校帰りの少女たちは今日も噂話に花を咲かせていた。

「知ってる? あの連続殺人事件の変な噂」

 その事件は少女たちの住むこの町からそれほど離れていないところで起きており、大人たちは不安と恐怖を浮かべていたが、少女たちはまるで遠い世界の出来事のように噂に高じていた。

「聞いた聞いた。全身の血がなくなってるんだってね」

 そんなおよそあり得ない噂が、事件を非現実のものに見せているのかもしれないと、小紅は苦々しく聞いていた。

「みんな細いもので刺したような傷があったんでしょ? まるで吸血鬼の仕業じゃない?」

 血がなくなっていたとか、刺し傷があったとか、そんな話は新聞でもニュースでも報じられていなかった。

「本当にいるのかな、吸血鬼なんて」

 これまでの事件は自分の行動範囲の外のことであり、小紅もどこか他人事のように思っていたのには違いなかった。

「でも吸血鬼でもなければ、あんな死に方はないでしょう」

 小紅も人並みに噂話などは好きなのだが、人の死にまであれこれ言うことに嫌悪感を抑えきれなかった。

「ちょっとやめなさいよ、そんな根も葉もない話。あり得ないでしょ」

 友達にくどくどと説教したくない小紅は、こんな噂など一言でバッサリと切って捨てたかった。しかし噂というものは風にたゆたうようで、その実、草の根のようなしぶとさを持っている。

「でも私、クラブの先輩から、それを見ちゃった人がいるって聞いたし」

「私も、お母さんと親戚のおばさんが電話で刺し傷の話をしてたのを聞いたのよ」

 山向こうに沈もうとしている夕陽が少女たちの顔に陰影を描いて、不気味な内容の噂話に一種の迫力を添えている。

「それ本当に確かなことなのかな。聞いた話聞いた話って伝わるうちにだんだんおかしくなることってあるじゃない、伝言ゲームみたいに。もしそれが本当なら、そんな変わったこと、ニュースでも何でも報道されているはずだよ」

 そんなものは真実を伴わない雰囲気に過ぎないと、小紅はそれを振り払うかのように一息にまくしたてた。

「報道規制がかかってるかもよ。模倣犯とか出たら怖いじゃん?」

 夢見がちな少女は、ときに自分に酔う。彼女は小紅に答えながら、しかしその目は小紅に向いておらず、焦点が外れてしまっているようだった。

「もしもそうならば、吸血鬼が出てこれない、日が沈まないうちに帰らないとね」

 これまでの事件はすべて、いま彼女たちが歩いているような人通りの少ない小道で、決まって夜に起こっていた。それでも大人たちは楽観視はせず、小さな子供たちには集団での登下校をさせ始めていた。

「そうだね。ニンニク……は臭いからなしとして、十字架とか持っておいた方がいいかな」

 非現実に陶然としながら、それでも現実を忘れないのが少女らしかった。小紅はそこにクスリと笑い、その現実的な面への刺激に努めた。

「そんな物より防犯ブザーでも持っておけばいいんじゃないの?」

 少女たちは一瞬何を言われたかわからなかったようで口が半開きのまま止まったが、一呼吸おいてお腹を抱えて大笑いした。

「吸血鬼がブザーで逃げだすって。確かに、耳のいいコウモリに大きい音はきついのかもね」

「なるほど、小紅頭いいじゃん」

 何を言ってもまともに受け取ってもらえない。小紅もこれ以上の反論は諦めた。憮然として歩きながら、せめて彼女たちには防犯ブザーに興味を持つくらいには現実を見てもらいたいと願っていた。そんな小紅に少女たちは、頭がいいとほめているのだからと、見当違いな慰めをくれたのだった。


 翌日、殺人犯が捕まるどころか、新たな犠牲者が出てしまった。その場所も、少女たちが住むこの町の隣と、非常に近いところだった。不安がいよいよ町を覆い、どこも何となく閑散としていてうすら寒くさえあった。

「やっぱり今度も全身の血がなくなっていたんだって。しかも、それなのに血が流れた跡が全然なかったとか」

 お巡りさんのバイクとすれ違いながら、今日も少女たちは噂に高じていた。

「私も聞いたよ。首筋に刺し傷があったんだってね」

 距離と時間が近い分だけ伝聞による不確実性は小さくなるのが普通のはずだが、非現実的なその噂はむしろ描写がおぼろげになる前に伝わってきたかのように生々しさを増していた。

「それどこからの情報なの? ニュースで大きく騒いでるのは見たけど、そんなこと一言も言ってなかったよ」

 騒いでいる割には、捜査は進んでいないらしかった。それは目撃情報が少ないからだということで、警察は情報を受け付ける電話窓口を用意したのだった。

「友達のいとこがね、警察にお兄さんがいる友達から聞いたんだって。現場に行ったお巡りさんがそれを見たって」

 確認するようにもう一度繰り返してもらい、経由した人数を小紅は指を折って数えた。五人。たった一夜でそれだけの人数を経由して隣町にまで伝わるだろうかと小紅は疑問に思ったが、あり得ないとも言い切れなかった。

「私はクラスで誰かが言ってたのを耳にしただけだから、どこからかはわからないけど、みんな同じようなことを言ってるし、嘘じゃないと思うよ」

 そういう不特定のみんなというのが最も怪しく、同時に抗いがたい。だからと言って小紅も同じように信じる気になれはしないが、あり得ないと暴くだけの材料も情熱も、必要性も持っていなかった。

「何にしろ、早く捕まえてもらわないと怖いね」

 現実的な危険性、その共通認識があれば、おかしなことにはならないだろうと思う。しかし非現実性が醸し出す魅惑は、そんなものを飛び越える妄想を少女たちに呼び起こしたのだった。

「でもさ、もし本当に吸血鬼だとしたら、ちょっと見てみたくない?」

 実際に何人も死んでいるのだ。そんなことに好奇心を示すなど、小紅には到底共感できることではなかった。

「いやダメでしょ、殺されちゃうんでしょ?」

 信じてもいないのに一瞬吸血鬼に襲われる自分を想像してしまい、小紅は全身を震わせた。それとは対照的に、少女たちは声を潜めながらも熱っぽく語り続けた。

「物陰からちょっと見るとか、できるならしてみたいよね」

「首筋に噛みつくんだよね。夜のことだし、私背が低いから、よく見えないかも」

 少女たちは、まるで舞台を見ているかのように喜々としていた。自分も同じ場所に巻き込まれることなど決してあり得ない、舞台の上と観客席の境が存在しているかのような語り口だった。

「それで向こうに気づかれたらどうするのよ? 関わらないのが身のためだよ」

 もう噂話には付き合わないと言わんばかりに少女たちが顔を寄せ合ってできた陰から離れるようにして、小紅はきっぱりと言い捨てた。少女たちは顔を見合わせて、それから揃って大笑いした。

「やだな、本当に見に行くわけないじゃない。小紅ったら、そういう生真面目なところが可愛いんだから」

「そうだよ、吸血鬼なんて実際怖いじゃん」

 夢見がちで、しかしどこか現実的なのが少女というものなのだろう。憮然とした小紅は噂話の他の話にも付き合うのを拒んだが、それは拗ねたとか何とかからかわれる逆効果を生んだだけだった。


 家に着いたらすぐに宿題、それが小紅の日課である。今日も同じように教科書と筆記用具を取り出して宿題に取り掛かったのだが、すぐに頓挫した。

 消しゴムがなかった。筆入れを空け、通学カバンの中を探り、部屋中を探し回ったが、それでも消しゴムは見つからなかった。この間違いを消さなければ、誤答として突き返されてしまう。どうしても消しゴムが必要だった。

 台所で夕食の支度をしている母から借りようと思ったのだったが、普段からボールペンしか使わない母は消しゴムを持っていなかったのだった。既に日が落ちかけている。文房具店が閉まる前に、急いで買いに行くしかなかった。

 もうすぐ夜になるという時間帯に一人で歩くのは危ないと、母には反対された。しかし父はまだ帰っておらず、火を使っている母も台所を離れられず、待っていれば文房具店が閉まる時間になってしまい、他に選択肢はなかった。

 せめてもと防災用品の中から取り出した懐中電灯を渡されたが、電池が切れていて使えなかった。そのため、ついでに電池を買ってくるようにと頼まれる始末だった。

 完全に暗くなってしまう前に帰りたくて、小紅は文房具店に駆け込んだ。店を閉めようとしていた店主が飛び込んできた私と鉢合わせてしまい、尻もちをついた。小紅の方は無事に転びもしなかったのだが、謝ったのは店主だった。

「今物騒だから早めに店を閉めようとしてたんだけど、君が来たのに気づかなかったんだ。ごめんね」

 不幸中の幸いと言うべきか、通路に倒れ込んだために商品が散乱することはなかった。小紅は店主への返事も忘れて、そんなことに安堵感を持った。

「急いで来たみたいだし、買うものは決まってるよね。買うだけ買って早く帰った方がいいよ」

 店主にうながされてようやく思考が戻った小紅は、目的通り消しゴムと電池を購入して文房具店を出た。まだ暗くなっていないかと空を見上げると、高いところは紺色へと色あせていたが、低いところにはまだ茜色が残っていた。その小紅の背後から、文房具店のシャッターが下りる音が届いた。

 逢魔が時。

 家路につく小紅の前に、人影が現れた。残光が逆光になって顔などはうかがい知れなかったが、それでもはっきりと不審感を覚えた。

 スーツ姿の男のようだが、なぜか上下で色合いがやや異なっている。疲れているのか、わずかに前傾した姿勢で両腕をだらりと垂らしていて、荒い呼吸音がかすかに聞こえてくる。小紅はそんな男を無視して脇を通り過ぎることができず、むしろ一歩、二歩と後ずさった。

 緩慢に歩いていた男が、ぬっと首を上げた。表情など逆光でわからないはずなのに、その目が刺すような光を放ったように見えた。男は左足を前に出して歩みを止め、わずかに前掲していた姿勢からさらに前かがみになった。男の呼吸音が静まり、小紅の足もすくんでしまい、あたりから物音が一切消えた。

「人に紛れるつもりならば、身だしなみくらい整えておくものだわ」

 その静寂を破ったのは、背後から少女のものと思われる、凛とした声だった。男が私の向こうに顔を向け、私もぎこちなく首だけを回して後ろに目を向けた。学校の制服を着た少女が一人こちらに歩いてきて、つかつかと私の前へ進み出た。

 少女を追って首を戻しながら、小紅は少女に制服姿にそぐわないものを見つけた。左の腰に、日本刀と思しきものを差している。小紅の目は、それにくぎ付けにされたように動かなくなった。

「行きなさい」

 少女が声を発した。小紅に背を向けたまま言った言葉だったので、小紅はそれが自分に向けられたものだとは思わなかった。

「早く」

 少々苛立ったような声音とちらりと斜めに向けられた視線でようやく自分に言われたことだと気づいた小紅は、ものも言わずに回れ右をして一目散にその場を駆け去った。


 不審な男と日本刀の少女、あれはいったい何だったのだろうか。まったく理解できなかったあのできごとを、小紅は誰にも言わずにいた。本当にあったことなのかという疑問が浮かぶほどに現実味がなくて、話しようがない、話していいのかわからないというのが、小紅の心情だった。

 毎日のように新たな犠牲者が出ていた連続殺人事件は、あの日を境にぱったりとやんでいた。犯人が捕まったという報道はいまだになく、町は今も不安に覆われていたが、それに疲れた気配もそこここに漂いだしていた。

 そういうところから事件は徐々に忘れ去られていき、日常が戻るのだろう。少女たちの噂話もまた、そんな方角に流れていた。

「吸血鬼、出なくなったみたいだけど退治されたのかな」

「退治されたとしたら、どんな人がやったんだろうね?」

 真相がわからないままに遠ざかりそうな事件は、噂話の中ではすっかり吸血鬼の仕業と断定されていた。あれほど不謹慎な噂話を嫌っていた小紅だったが、今はそれをたしなめる気にもならなかった。

「それはやっぱり警察なんじゃない?」

 そんな適当な相槌を打って流していた。小紅には殺人鬼だか吸血鬼だかそんなものはどうでもよくて、あの時出会った、今小紅たちが着ているものと同じ制服を着ていた少女のことが気になって仕方がなかった。

 何者も恐れない凛とした声、首のあたりで切り揃えられた艶のいい髪、中性的で涼やかな顔立ち、そして月の光のように白金に輝いて見えた、瞳。この学校の生徒なのだろうが、小紅はそんな生徒に見覚えはなかった。

 いや、それよりもあんな瞳がありうるのだろうか。見間違いなのか、あるいは幻だったのか、それはもう一度本人を目の当たりにしなければわからないことだろう。小紅の目は無意識のうちに、しかし常に、その少女を探していた。

 少女の姿を求めてあてもなく校舎をうろつくようになって数日、それでも一向に見つけることができない小紅は、あの時のことが本当に現実だったのかわからなくなってきていた。

 そんなある日、小紅の席の隣、すなわちいちばん廊下寄りの列の最後尾の空いていた場所に、机と椅子が持ち込まれた。

「転校生がこのクラスに来るんだって」

 わざわざ席を増やすのだから、他の理由はないだろう。そんなことには今ひとつ興味が湧かない小紅は、気のない返事を返した。

「それがね、女の子だって。転勤族って言うんだっけ? 親の都合でちょくちょく転校している子らしいよ」

 女の子という言葉に少年たちが反応して、物見高い数人が話の輪に加わってきた。もう会ったのかとか、可愛い子なのかとか、矢継ぎ早に質問を浴びせる。目の前にいる女の子を差し置いて他の子に興味を示すなど失礼だと少女たちにやり返されて、教室の一角は騒然とした雰囲気になった。

 小紅にはそれが面倒だったが、輪の中心に据えられてしまったために逃げることもできず、何となく隣の空席に目をやっていた。誰もが非難の応酬に熱くなっていて、そんな小紅に気づく者など誰ひとりいなかった。予鈴にさえ気づかずに続いていた騒ぎを止めたのは、教室に入ってきた担任の一喝だった。

 小紅の目が見開かれた。

 担任について教室に入ってきた少女の名を、担任が呼んだ。

「宇田川夕菜です。よろしくお願いします」

 凛とした声、首のあたりで切り揃えられた髪、涼やかな顔立ち。それは、小紅が探していた少女だった。堂々と自己紹介を終えた彼女は、小紅の隣の席に向かってきた。その姿を、小紅はずっと目で追っていた。

 小紅の視線に気づいた彼女が、ほんの少し微笑みを返した。すっと細められた目には、黒い瞳。そこだけがあの時と違っていた。

「今日からよろしくね」

 席に着く直前に、小紅にだけ聞こえるくらいの声で、彼女はそう挨拶した。そのまま授業が始まりそうだったので、小紅は早口で彼女に自分の名前だけを伝えた。

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