第五章
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不思議なことに、あの中学の件以後数日、俺は孝樹から離れていた。自分でも不思議と思うくらいで、あんなに派手にたんかを切ったにも関わらず、じゃあ実際に自分がたったひとりで何をすべきなのか、まったくわからなかった。
もちろん、捜そう捜そうという気持ちはある。だが気持ちだけで、身体は海綿のように重く、まったく動かないのだ。なぜこうなったのか本当にわからない。神様に聞きたいくらいだ。ストレスのはけ口のはずだったバスケにも熱が入らない。部活も行かず、冬矢もとりあえず放置して、学校と家をただただ往復する日々を繰り返した。こんなことは初めてだった。
かつての仲間たちはどうするつもりなのだろう。公平は言わずもがなだが、温子は本当にいとこがいなくなったままでいいのか、再度確認しなければならない気がする。のだが、一度廊下でそれらしい人影を見たとき、「もしかしたら別人かも」の考えが頭をよぎり、声をかけられなかった。
俺らしくもない。
そうだ、俺はどこへ行ったのだろう? ある日の夕方、ベッドの上で何をするでもなく寝そべっていた。窓の外は珍しく快晴で、子供の遊ぶ声がまだ聞こえていた。流れる小さな雲を目で追いかけながら、俺は何をしてるんだろう、と自分に何度も問いかけた。答えはなく、むしろ余計に疑問が深まる気がした。孝樹がいなくなってからもうひと月近く経っている。彼は……、生きていないかもしれない。いや、認めたくないが、むしろ生きていれば奇跡だろう。奇跡を願うのは馬鹿げたことかもしれない。まして彼が俺たちの学校へ戻ってくるなんて噴飯ものの希望かもしれない。俺も公平たちと同じように、手を引いたほうがいいかもしれない……?
翌朝も遅刻ぎりぎりに起きた。朝食も程々に出発する。今日も母さんは心配してくれたが、相談する気にはなれない。するにしても、いったい何をどう相談したらいいんだ。自転車で学校へ急ぐ。先月とは別の制限時間に間に合うために。
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教室に着く前、高崎というバスケの後輩と出くわした。
「先輩!」
「あ? ああ高崎」
急いでいるところに後ろから声をかけられ振り向くと、高崎が怪訝な表情をして、「どうしたんすか」と自分の髪の右半分を俺に何か示すように何度もいじる。何だろうと思うがすぐ気付き、横にある先生の車の窓ガラスを見ると、俺の頭は少し寝癖気味になっていた。
寝癖にしろ、先月来ていた朝練に突然来なくなった件にしろ、聞きたいことは山ほどあったろうが、時間もなく、「色々あって」の一言で済ますしかなかった。でも、時間があってもちゃんと説明できたかどうかわからない。
昼
「桜井、最近疲れてんじゃないか」
岩崎弘宗も尋ねてきた。
「たぶん、そうだと思う」
「やっぱり、人捜しは大変なのか」
「ああ。超大変」
といっても最近俺は人捜しをやっていないのだが。
「こんなこと言える立場かどうかわからんが、時々は休まないと保たなくなるぞ」
「その通りだ。サンキュ」
俺は一応そう答えたが、これ以上休みようがない。なぜかまた照れながら去っていく岩崎の背中を見て思った。
部活、孝樹、それに冬矢もか、俺は先月まで仕事まみれだったみたいだ。
今はそれらから完全に解放されている。だが、その割に元気は増えていない
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放課後、重い足を引きずって帰る。駐輪場へ行く途中、見知った顔をもう一度見かけた。おかっぱ頭に長いスカート、黒い手提げ袋。待安温子だ。あれからまた生徒会へ戻ったに違いない。今も生徒会へ向かっているのだろう。声を掛けようか迷った。あれから一度も会っていないし、相変わらず携帯を作っていないから連絡の取りようもない。だが、今日を逃すともう当分会えない気がした。あれは本人に間違いない……意を決して近づく。
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すぐ近くまで来たところで、声の掛け方に困った。本当に俺らしくもない。話をどんな単語で始めようか、そういう考えで頭をいっぱいにしているのだ。
温子の背中は遠くで見る以上に小さかった。小さな背中がゆっくりゆっくり歩いて俺から離れていく。その様が、俺の心のひだを妙にくすぐって、言葉を選ぶのも苦しかった。温子は一歩一歩生徒会舎へ向かい、少しずつ小さくなる。もうすぐお別れか、また次の機会を待たなければならないか――そう思ったとき、温子が俺の気配に気付いてこちらを向いた。
安心したような情けないような、俺は両者混じったよくわからない表情で片手を上げ、会釈した。
するとどうしたことだろう、振り向いた温子もほとんど俺と同じ表情をしていたのだ。
「ごめん」とても申し訳なさそうに温子は小さな声で言った。「何もできなくて」
俺は首を振った。
「いや……。俺だって、結局何もできなかった」
「やっぱり、駄目?」
「ああ。なんつうか……」先の言葉が出なかった。この一週間、実は何もしていなかったんだ、なんて言えるか? だが黙っていると、温子が続けてくれた。
「私のほうこそ、諦めちゃいけないのに。あの日みんなと一緒に帰ってから、桜井君ひとりで頑張ってるのに。私は……自分が情けない」
温子は後ろめたそうに顔を逸らせ続ける。
「でも……、よくないことなんだけど、本当は孝ちゃんをこうして捜し続けるのが本当に意味があることなのか、あんまりわかってなかった」
「わかってなかった、って?」
「ちゃんと考えてなかったの」温子は顔を逸らせたまま目だけをこちらに向けた。そして、驚くべきことを尋ねてきた。「だって、聞いておきたかったんだけど、桜井君こそ、どうするつもりだったの? いつまでも孝ちゃんが見つからなかったら」
口調は柔らかく、決して非難の意思はないようだったが、俺には相当のショックを与えた。孝樹の身内からこういう言葉が出てくることは予期していなかったから。
そして俺は先のことなど考えていない。この質問の答えは頭のどこを探してもなく、何か言おうと開けた口から言葉が出てこなかった。口を閉じてただ首を振る。
すると、温子はまた「ごめん」と謝る。
「意地悪なこと聞いちゃったかな。実は、私も何も考えてなかった」
温子の言葉と同時に六時間目終了のチャイムが鳴り響く。いやに湿っぽい音が校舎に反響していろいろな方向から聞こえる。
こんなとき、いつもの俺なら笑い飛ばせるのに。もどかしくて仕方がない。
「考えてたのは、たぶん斎藤君だけ」
斎藤公平か。そういえばあいつは何をしてるのだろう。成宮ネネも。温子は生徒会じゃないから、孝樹を捜すのでなければ会わないだろうが――。一応、の気分で聞いてみる。
「そういや、公平とかネネは?」
「ん?」誰のこと? という顔をしてから、ピンと来たようで、また困ったような少し深刻な表情をしのばせて、「あの二人?」といった。その顔で大体聞きたいことはわかる気がした。
「そう」と俺が小さく言うと、温子は申し訳なさそうに首を振った。
「ごめん、あれからみんなとは……」
「そうか」溜息を吐いた。「仕方ないよな。直接会うしかないか」
「えっと、まだ携帯は?」
「見つかってないんだ」
それを最後に、お互い沈黙した。結局、温子から聞けることは全部聞いたようだ。じゃあ、部活に遅れるからと言い、俺もうなずいて、温子はまた生徒会舎へ向かおうと後ろを向いて、歩きだした。
だが、俺はよく周りを見ていなかったのだ。そのせいでまずいことが起きてしまった――温子が歩きだしたすぐ先に、こちらへ向かって歩いてくるスキンヘッドの不良がいたのだ。
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温子は前をしっかり見ずに歩く。俺が気付いてあっ、と言い掛けたときにはもうぶつかっていた。
「おい」不良の低い声がして、温子が見上げると頭二つ先にスキンヘッドの顔。まずい。学年はわからないが身体がプロレスラーのようにでかい。同級ではあるまい。
「あっ、すいません」温子はあせって避け、急ぎ足で生徒会舎へ駆け出した。
不良はそっちを見て……見ただけだった。よかった。だが、悪いことに不良は温子が去った後、一部始終を見ていた俺のほうに目を向けてきた。
これはよくない。すぐ俺も向きを変えて歩きだしたが無駄だった、後ろから低く「おい」と声。走れ、と俺の頭が命令した。
無様だ。一応バスケだから追われても捕まるまいが、不良から一目散に逃げるなど生まれて初めてのことで、全身上気している。疲れたのでなくて、怖かったのだ。
本当に、腑抜けたな。
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そのまま帰ろうとしたとき、意外な人物に会った。その人物は駐輪場で声を掛けてきた。
「あら桜井!」
男の声に女のアクセント、思い浮かぶ者はひとりしかいない。だが、まさかあいつが? 疑いながら振り向くと、平賀隆彦が普段と変わらない顔で立っていた。一瞬幻を見たのかと慌て近くの自転車に腕が当たった。自転車は大きく傾き、かなりの音を立てて元に戻った。
「隆彦!? 大丈夫なのか。心配したぞ」
「アタシはね。アンタこそ、聞いたわよ。元気ないらしいじゃない」
隆彦は笑顔だが本当に元気なのだろうか? いや、心配されているのは俺か。顔をしかめて俺は何も答えなかった。隆彦は真面目にして言う。
「あの子、もう戻ってこないかしら」
孝樹のことだ。すると俺は反射的にこう答えたのだ。
「わからない」
隆彦も黙った。俺は気がつくと少しうつむいていて隆彦の顔は見えなかった。
重い沈黙だった。見えなかったなりに隆彦の表情がどんなものか想像がついた。沈黙は温子との沈黙とは全く違う、はるかに苦しいものだった。
なぜこんなに苦しいのだろう? 温子はいとこを失ったかも知れないのに。……いや、隆彦だって友達を。そういえばこんなことを考えているのだ、傷心の友達を前に。いいのだろうか。だが、待て、俺は傷心ではないのか?
そういうことを知らず知らずのうちに考えているのに驚いた。なんでこんなことを考えているんだろう。これでいいのか? 本来なら隆彦を精一杯なぐさめるべきじゃないのか。そう言い聞かせなんとかなぐさめの言葉を頭の中で手繰り寄せようとしたが、何一つ見つからなかった。わかったのは、俺には彼にどんな優しい言葉をかける資格もないということ――この数日間、あのおとなしい孝樹を放置して、彼を捜す選択肢を頭の中からも追い出して、一切悪びれもしなかったのは誰だ?
そう、この沈黙がすべてを物語っている。結局俺は何もできなかった、何も残せなかった、そればかりか残った友達を元気づける資格すら捨ててしまった。自分を責める思いで一杯だったが、そんな俺に隆彦は予想外の言葉をかけた。
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俺は耳を疑った、というのも隆彦は部活に出ないか、と言ったからだ。
「バスケに?」
「そうよ。ユニホームあるんでしょ」
「いや、今日は……」
すると隆彦は俺をさえぎり、それ、と言って俺の手荷物を指差した。
「体操服か……?」
「そう。じゃ、行きましょ」
「ちょっと待ってくれ、俺は……」
無断で何回も休んじまったし、部の連中にどんな顔をしたらいい。だが隆彦は俺の腕を引っ張った。
「余計なこと考えないで。前言ってたでしょ、バスケでモヤモヤしたのをチャラにできるって」
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部活に行こうなんて言われるとは思っていなかった。
「いいのか、身体は」
「何の話?」
「休んでたろ。それを急に部活行こうなんて、びっくりだ」
「いつまでもうだうだしてられないじゃない。ちょっと休みすぎてなまっちゃったけど、あの子の分も頑張らないと」
隆彦、休んでる間に何かあったらしい。俺まで元気づけられる。そうだ、孝樹の分も、いや孝樹が戻ってくるまで頑張るんだ。
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部室の扉は重かった。隆彦もいるし逡巡するわけにはいかないが、ノブに掛けた手を回すのに時間を要した。
だが意外なことに、部の連中は温かく迎えてくれた。
「大丈夫か、桜井」
五木先輩がそういう声をかけてくれた。
「すいません」
「色々大変だったろうが、心配しなくていいからな。まずさ、汗流して。考えるのはそれからでいいだろ」
そうだったんだ、俺はただコートで球を転がせばいい。つまらないことは後回しにしたらいい。隆彦だけじゃない、公平も、それから孝樹のことも、全部これからなんだ。まずは全部忘れてしまおう。俺はこの数週間のことなどなかったように、自在のプレーを楽しんだ。
みんな、ありがとう。
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十数日後。俺は孝樹のいない学校に慣れた最後の生徒になったかもしれない。放課後、部活に向かう俺を男の声が呼び止めた。
「久しぶり」
くしゃくしゃの毛をバックに撫で付けた独特の髪型。斎藤公平だ。
「公平?」
「その、あのときは……悪かった。お前の話、もうちっと聞いてれば」
「いや、俺だって感情的になっちまって、悪いと思ってる。それに、今はこれからのことが大事だ」
「ああ、だな。生徒会も他に案件山ほど抱えてるし、俺たちも次々こなしていかないと」
「うん」
本当は公平も、そんなことじゃなく色々と話したいことがあるはずだ。孝樹のことも。でも話そうとはしないで代わりにこう言ってきた。
「お、そうだ。なあ、桜井、よかったらお前もさ、生徒会入らない?」
「え?」
突然のオファー。公平は微妙にはにかみつつ、ちょっとした知り合いに対するように遠慮がちに打診した。
「お前、結構向いてると思うぜ? リーダーシップあるし、真面目だし」
「んー……いいわ」俺は答えた。「俺はバスケだけやってる。それしかできないんだ」
「そんなことねえだろう」
「じゃ、どうしても人出が足りなくなったら、呼んでくれ。助っ人部と一緒に」
2008年4月6日から5月25日までに書かれた作品です。特に何も考えず、細かいクオリティは意識せず作られたので読みづらい点もあるでしょうが、執筆当時のフィロソフィー維持や、そもそも時間経過によってそれが失われている可能性から、投稿にあたって大きな修正はしませんでした。