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ボロボロのアパートの前に立ち涼也は溜息を零す。
「確か、一階の端の部屋だったよな?」
部屋番号のプレートと名前を探すように歩くと確かに奥の方の一番端に目当ての名前を見つけた。
涼也は深呼吸をしてインターホンを鳴らした。
『はい。』
「お約束していました、栄丸出版の者です。」
『少々お待ちください。』
インターホン越しの声音には一切の覇気がなく、涼也はどんな人物が出てくるのか不安で顔を強張らせる。
「お待たせしましたーー」
「こんにちは。」
涼也は出て来た人物を真っ直ぐに見ると、相手は一瞬表情を強張らせ、まるで幽霊を見るかのように目を丸くさせる。
「えっ?」
突然表情を変えられ、涼也が面を食らう。
相手は顔を真っ青に、否、紙のように真っ白に変えた。
戦慄く唇から洩れた言葉(苗字)に今度は涼也が驚く。
「こ…香澄っ!」
「えっ?」
「お前はやっぱり俺たちをいや、俺を恨んでーーっ!」
涼也はこの瞬間頭が真っ白になり、そして、悟った。
この男が書いた話は本当にこの男の「懺悔」で、死んだ人物は本当の人物「香澄 京也」涼也の弟で、男はその経緯を知っているのだ。
「俺は香澄ではないです。」
「……。」
男は目を見開き、そして、玄関に座り込む。
「あんたは?」
「香澄、京也の兄で、本城、涼也と申します。」
「本城?」
聞き覚えのない苗字に彼は首を傾げる。
「はい。」
「……。」
男は訝しげに涼也を見て、そして、大きく扉を開ける。
「立ち話もなんですから中に入って下さい。」
「…お邪魔します。」
涼也は一瞬迷いを見せたが、京也の真実を知りたかったので、男の誘いに乗った。
「散らかっていますが。」
「……。」
一歩踏み出し、涼也は後悔した。
男は整理整頓が苦手なのか、中はごみ屋敷化していた。
「お茶を出しますから。」
「いや…結構です。」
心の底からの言葉だったのだが、男は遠慮と取ったのか、そのまま台所に向かおうとする。
涼也は台所を見て思わず悲鳴を上げかけた。
台所だった場所は腐臭が漂っており、見た目も本来台所には置いてないものなども多くおり、涼也は自分の判断を誤ってしまったと思った。
「あれ…確か…この辺に……。」
ゴミ溜まりを漁る男に涼也は必死になって止めにかかる。
「いや、これが終わったら仕事場に戻らないといけないから、本当にお茶を貰う時間も勿体無いんで、結構です。」
「そうですか?」
「ああ。」
男が手を止めたのを見て涼也はこっそりと息を吐く。
「よければ座ってください。」
「……。」
座ってくれと言う言葉は嬉しいのだが、残念ながら座るどころか歩くのでさえ困難なのに、と涼也は思う。
「ああ、すみません。」
男はそう言うとズザザと音を立てながら床にあったものを隅に寄せた。
「……。」
涼也は諦めて空いた場所に座り込んだ。
「何からお話ししましょうか。」
「貴方と京也の関係は何だったんですか?」
涼也の質問に男は悲しげな顔をした。
「本を読んだら分かると思いますが……。」
「ルームメート。」
「はい。」
涼也の言葉に男は頷き、そして、膝の上に拳を作った。
「一年の時の俺たちは普通に仲が良かったと思います。」
彼は昔を思い出し、目を細める。
「ですが、嵐が訪れた。」
口調が暗くなり、その眼が闇を孕む。
「二年に上がり、俺と香澄は違う部屋に変わった。俺はまあ、いい奴と当たりましたが、香澄は……。」
唇を噛み、痛みを堪えるような顔をする男に涼也は止めようかと考えるが、彼は止められるのを望んでいなかった。
「香澄は問題児に当たりました。」
「問題児?」
「はい、俺たちが通っていた学校は普通の学校とは違い、いわゆる次代を担うと言われる奴らが集まる学校で、そいつらに媚を売るのは日常となっていて、その人たちに気に入られればもてはやされるけど……。」
「嫌われればハブられる。」
「はい。」
涼也は京也の身に起こった事を理解する。
「京也は自分から敵を作るような奴じゃなかったが……。」
「確かに、香澄自身は敵を作るような人間じゃなかった。」
「……。」
「香澄の同室になった奴が、そうなるように仕向けたんだ。」
「ーーっ!」
涼也は目を見開き、男を見つめる。
「男は平凡な香澄を利用した。そして、スケプゴートとなった香澄は……。」
「自殺した。」
「はい。」
これ以上詳しい事を話そうとしない男に涼也は溜息を零す。
「話は以上か?」
「……。」
「ありがとうな、話してくれて。」
涼也は話の内容からか普段の口調に戻っていたが、男は泣きそうな顔をして彼を見ていた、それは彼の飾らない言葉が真実を語っていると悟ったからだろう。
「ごめんなさい……俺が……。」
謝る男に涼也は首を横に振った。
「謝る必要はないさ、逃げていたのはお前だけじゃないからな……。」
涼也は己の拳をじっと見つめる。
「俺だって京也の事を守れなかった。」
家族が離れ離れになり、それぞれ違う学校に通っていた涼也と京也だったが、それでも、お互い連絡する手段はいくらでもあった。
しかし、忙しいから、とお互いが、お互いの事を優先しすぎて、結局涼也は何もする事が出来ないまま唯一の片割れを失ってしまったのだ。
「だから、謝るのならば、俺じゃなくて、京也の前で言ってくれ。」
「……。」
黙る男に涼也は顔を微かに引きつらせて微笑んだ。
「それじゃ、俺は失礼するな。」
「……。」
涼也たちはこれ以上何も話す事はなかった。
涼也はアパートから出て、トボトボと歩き、そして、そっと足を止めた。
「あ……手土産渡すの忘れたし…肝心の話も忘れていた……。」
涼也は自分の仕事を思い出すが、これ以上あの男と話したくもないし、今の状態で話せば間違いなく両者が傷つくだろう。
「……。」
涼也は溜息を零し、前を見ると彼は固まった。
彼の目線の先にはごくごくありふれた日常があった。それは、二人の兄弟が遊んでいる光景――。
仲がよさそうな兄弟に涼也は笑おうとして失敗する。
彼の目に涙が溜まる。
「くそ……。」
今日に限ってこんなにも片割れを意識する日はなかったのに、何で今日に限ってーー。
頬に伝いそうになる雫を乱暴に袖口で拭った。
「何で黙ってたんだよ。」
本当は分かっている、自分に迷惑を掛けさせたくはなかったのだ、だから、京也は自分に黙って勝手にこの世から消えてしまったのだ。
「馬鹿野郎が…。」
震える拳が彼の心情を如実に表しているだろう。
「何で、何で自殺したんだよ…。」
「あっ……。」
「ドジ、とってこいよ。」
コロコロと転がる、ボールを京也は目で追う。
ぼんやりとしていた彼だが、遠くで車が見えた。そして、それは子どもに気づいていないのかスピードを緩める事はない。
マズイと思った瞬間彼は駆け出していた。
「えっ?」
小さな少年を突き飛ばし、涼也は彼の代わりに車に引かれた。
意識が途切れる瞬間、彼の脳裏に怒る雪美の姿が浮かんだ。