1話 すべてのはじまり
今話は少々長いです。できるだけ一話5000文字を目安に執筆していますが、ときどきこういうこともあるかと思います。よろしくお願いします。
コメント・感想、お待ちしております。
※前話との整合性の問題で多少改訂が入りました。
「橘さん、どうぞー」
名前を呼ばれて、啓吾は目覚めた。
かつてないほど深い眠りに誘われ、人間の深淵とでも言いえるところを垣間見たような気がするのだが、定かではない。
寝ぼけた頭を振って啓吾は周りを見渡した。
既視感。
それもそのはずである。月に二回は顔を出しているいつものクリニックの待合室であった。
けれど、今日が診察の日だったか啓吾には確信がない。
それ以前に、どうしてここに来たのかすら、覚えがない。
(……っ!?)
鈍い痛みが啓吾の脳裏に走った。
「橘さん、どうぞー?」
再び掛けられたその声に、啓吾は我を取り戻すと立ち上がった。
これ以上待たせるのは失礼にも程があることだと思い直したのである。
(それにしても、先生の声はこんなに高かったか……?)
幽かに過った疑念と脳裏を締め付ける妙な痛みを追いやりながら、啓吾は診察室の扉を押し開けた。
「失礼しま……」
「やあ、いらっしゃい。橘啓吾くんだね」
押し開けた扉をそのままに、啓吾は完全に固まってしまった。
視界に入るのは見馴れた診察室。ゆったりとしたソファにオーディオ機器、それに絵画。デンと置かれた大きなデスクの向こう側にいるのはしかし、見馴れた医師の姿ではなかった。
滋味のある、とでもいうべき柔らかい声で啓吾を出迎えたのは、中性的な顔立ちの下に古代ギリシアのヒマティオンに似た服を着て佇んでいる人物。
あまりにミスマッチなその組み合わせは、しかしどういうわけか微塵も可笑しさを感じさせないという違和感を啓吾に植え付けていた。
「疲れたろう。まずはゆっくりしようじゃないか」
そう言うと、彼は傍らの椅子に腰を降ろして啓吾にも椅子を勧めた。
企図しない状況の変化についていけない啓吾はしかし、どうにかいつも通りに斜め向かいの椅子に座った。
混乱の極地にある啓吾に目の前の存在は微笑みかけるとゆっくりと口を開いた。
「とりあえず、はじめまして。僕のことは“代行者”とでも呼んでくれ」
「代行者……? 変な称号だな」
「ふふ、よく言われるよ。君は橘啓吾くん、で間違いないね?」
「ああ、そうだが……」
喋りながら、代行者は傍らのティーポットから二つのカップに紅茶を注いだ。芳醇な果実に似た香りが、部屋の中に匂い立つ。
「マリアージュの“エロス”っていう銘柄だよ。この蠱惑的な香りが好きでね」
代行者の台詞は、けれど啓吾には空寒く聞こえた。
いつの間にそんなものが机の上に現れたのか、なぜ代行者とやらは自分の名前を知っているのか。
そもそも、代行者は……、自分はなぜこんなところにいるのか。
「まあまあ、とりあえず飲みなよ」
不思議と、逆らう気も起こらずに啓吾はカップをゆっくりと傾けた。
鼻の奥をくすぐるような匂いと共に、温い、丁度いい加減の液体が口の中に満ちる。
「……うまい」
意図せず、啓吾の口から声が漏れた。
不可視の温かい何かが自分の身体を駆け巡るのを、啓吾はぼんやりと感じた。
それと同時に、ざわついていた心中が凪いでいく。取り留めもなく湧き上がる疑念に振り回されていた思考がクリアになっていく。満足そうに頷いている面前の代行者に抱いていた不審までもが、氷解してゆく。
ここに来る前に、何があったのか。
大学の帰り道、夕暮れ時に遭遇した飛び出し事故。
車のライトに照らされた少年の後ろ姿を見た瞬間に、思わず動いた身体。
衝撃、一瞬の激痛、暗転。
「落ち着いたかい?」
「ああ」
「それは良かった」
微笑みを浮かべる代行者の顔に急かす様子はなかった。
けれど、ごく自然に、啓吾は自らが辿り着いた結論を口にしていた。
「俺は、……死んだんだな」
「そうだね」
代行者もまた、否定はしなかった。
診察室に、沈黙の帳が降りる。
啓吾は俯いたままぴくりとも動かない。
いくばくかの時間が流れて、ようやく啓吾が顔をのそりと持ち上げた。
僅かの困惑と後悔、現世からの開放、そういったものが綯い交ぜになった表情が、そこにはあった。
「事故死、というのも情けないな」
「そんなことはないさ。君が庇ったおかげで一人の命が救われたんだ。誇っていいと思うよ」
「……そうだな」
そう呟くと、くしゃりと歪んだ顔を隠すように啓吾は残っていた紅茶を飲み干した。
また、温かい何かが身体を駆け巡る。その心地よさに、啓吾は暫し身を委ねた。
啓吾の脳裏に祖父の顔が浮かぶ。きっと、今ごろ随分寂しい思いをさせてしまっているだろう。
いつか、祖父の死に水を取ることになるだろうと啓吾も覚悟はしていたが、まさかに月旦をおいて自分が逝くことになるとは思いも寄らなかったのである。
ツイと、涙が啓吾の頬を濡らした。
申し訳ないとしか、言いようもない感情が啓吾の身体を押し包んだ。
代行者は何も言わず、ゆっくりとティーカップを傾けている。
ゆっくりと息を吐いた啓吾の瞳には、明確な光りが灯っていた。
「それで……、ここはどこなんだ? 天国とか地獄の類いには見えないが」
「うーん、そうだね、生と死の狭間みたいなものかな。分からないかもしれないけれど、今の君は魂だけの存在なんだね」
「三途の川か?」
「ちょっと違うなあ。別に天国とか地獄とかに繋がってるわけじゃないしねえ」
「そうなるとあんたは神様か何からしいな」
「僕は神なんかじゃあない。全知全能であれば、と思ったことならあるけれど、ね」
そう言って苦笑しながら、代行者はポットから二杯目を注いだ。
心地よい香りが、啓吾の鼻孔をくすぐった。
ふと、見上げると代行者のいたく真摯な瞳が啓吾を見つめていた。
「簡潔にいこうか。僕は君に異世界転生を提案したい」
「異世界……」
「あぁ、僕らが『エルソス』と呼んでいる世界。君の知らない世界を救ってくれないか?」
代行者は、そんな巫山戯た話を極めて真剣な面持ちで告げた。
エルソス、機械科学のかわりに魔法が発達したその世界では人間とは違う数多の種族が暮らし、独特の生態系で育まれた多彩な動物や魔獣と呼ばれる特殊な存在が跳梁跋扈している。
けして平和とは言えない世界は、けれど神代の時代より幾星霜の長きに渡って歴史を刻んできた。そのエルソスがいま、時代の転換期を迎えようとしていると代行者は言う。
「澱のように凝り固まった負のエネルギーみたいなものが形になろうとしているんだよ」
「……悪いが、分かりやすく頼む」
「近いうちにエルソスに魔王が現れる、ということだね。ともすれば、既にその辣腕は影に隠れて振るわれているのかもしれない」
胡散臭いことを聞いた、という風に啓吾は片眉を吊り上げた。
無理もないことである。代行者が語るそれはまるで小説かゲームか、そういう類いの話にしか聞こえない。
「君にしてほしいのはその魔王の討伐だね。特別強制するような役割があるわけじゃない。君は好きに生きていい。そのついでいいから、魔王を倒してほしいんだ。さもないと、世界が暗闇に飲まれてしまう」
「……役割ね。なんというか、テンプレだな」
「様式美、と言って欲しいな」
何が可笑しいのか、代行者はクスクスと笑ってそう答えた。
「それで、どうかな。僕の申し出を受けてくれるかい?」
「……そうだな」
そう言うと、啓吾は椅子に深く座り直した。背凭れに後頭部を預けて、凝っと天井を見上げて、沈思黙考する。
代行者も、さして急かそうともせずに黙ってカップを傾けている。
啓吾に取ってメリットが多い、いやほとんどデメリットがないと言っていい話である。
なにせ一度は死んだ身だ。その先に何があるとしても、もう一度チャンスが与えられるというならば喜ばない道理もない。
けれども同時に、何故自分が選ばれたのか、という疑問が啓吾の頭を擡げる。
平凡……ではないかもしれないが、世界を救う大望を託されるような大それた存在ではけしてない。
コトリ、とソーサーが音を立てて机に置かれた。
「具体性がない話……、なのはまぁいいとして。なぜ俺なんだ?」
ほとんど呟くように啓吾がそう言うと、代行者は困ったような笑みを浮かべた。
慈愛すら感じる、深いその笑みに、啓吾は自分の心臓がドキリと跳ね上がるのを感じた。
「なぜと聞かれれば、運命、としかいいようはないね」
「……耳障りの良い言葉だな」
「表現の問題さ。僕は僕なりに熟考して君を選んだんだ。魂の煌めき、とでも言うのかな。もし何度選ぶ機会があったとしても、やっぱり僕は君を選ぶだろう。それをあえて言葉にするなら、運命、としかいいようがないのさ」
口説き文句のような言葉に、啓吾は己が紅潮するのが分かった。
誰かに求められたことがない、とはさすがに言わないが、それでもここまでに熱烈な言葉を掛けられたのは啓吾の人生を通しても初めてのことであった。
「こっぱずかしいやつだな、あんたは」
「ふふ、そうかもね。けれど嘘は言っていないよ。君だって求めていたはずだ」
「……なにを」
「生き甲斐というものをさ。息苦しく制約された世界に倦み、何のために生きればいいのか。何を導に生きればいいのか。不条理と閉塞感の中を彷徨いながら、どこかで、生の充足を求めていたのではないかい?」
思わず、啓吾は言葉に詰まった。
自分が知らない自分を掘り出されたような気がして、続く言葉が、出てこない。
「エルソスは君の世界と比べるべくもない文明だけれど、ずっと多くの種族や動物が暮らしているんだ。苦難が無いとはもちろん言わない。けれど、きっと退屈しないだろう」
代行者の澄み切った瞳が、啓吾を射貫く。
「どうだい、橘啓吾くん。世界をひとつ救ってやってくれないかい?」
真摯な代行者の言葉に、固より啓吾の返す言葉は一つ。
「いいだろう」
そう言って、長い溜息を一つ零した。
「そうか、よかった。うん、よかった。そう言ってくれて助かった」
啓吾の言葉を聞くや否や、代行者は椅子から身を乗り出してそう言いながら啓吾の手を取って力強く握手した。
その何ともいえぬ笑顔は、肩の荷が下りたようにも、あるいは啓吾の選択そのものを祝福しているようにも、見えた。
そして、長い握手の果てに幾分か落ち着いてみせた代行者は、
「君の転生を祝して贈りたいものがあるんだ」
実に楽しそうに、そう宣った。
「まずは三つ、僕からのギフトを」
「ギフト?」
訝しげに首を傾げる啓吾に、代行者は指を一つ立てて見せた。
「一つ目は視る力を。エルソスには君が知らないものが巨万とあるだろう。だから君の目を通して、知ることができるようにしよう。あくまで僕の力が及ぶ範囲にかぎるけれど」
「二つ目はインベントリの力を。君が必要なものを必要な分だけ亜空間にしまえるようにしよう。生き物を入れることはできないけれど、君が望むだけで出し入れできる。世界でもっとも安全な道具入れになるだろう」
「三つ目は剣を。あらゆるものを切り裂き、折れることなく、君を助けてくれるだろう。剣の銘は“クレド”、約束と志を意味する。私と君の約束の証にこれを贈ろう。さぁ、受け取っておくれ」
代行者の立てた指が三つになり、その言葉が言い終わらない内から二人の間に閃光が瞬き、錆鼠色の鞘に納まった無骨な両手剣が唐突に現れた。
無駄な装飾がほとんどない実戦本意の拵えは、けれどひしひしと業物だけが持つ妖艶な気配を感じさせている。
「……ずいぶんな大盤振る舞いだな」
「まさか。異世界の面倒事に巻き込むのだから、これくらいはさせておくれ」
慣性に引かれて落ちようとする剣−−−−−−クレドを慌てて受け止めながら、啓吾は片眉を吊り上げて代行者に呆れたような視線を投げかけた。
もっとも、代行者の方は柳に風とばかりにニコニコとした笑みを崩そうとしない。
「さあ、次の贈り物だ」
「まだあるのか!?」
「そうだよ。こんどは君から三つ、願いをきかせてくれ。出来る範囲内で答えよう」
こんどこそ呆れ返った顔で啓吾は代行者を眺めた。
くれる、というからには有り難くちょうだいもできるが、この上にまで願い事と言われてもすぐに思いつくものではないだろう。
「時間はあるからゆっくり考えておくれ」
そう言うと、代行者はゆったりとソファに座り直した。
すでに何杯目かも分からない紅茶を美味しそうに飲んでいる姿を見て、啓吾もまた諦めたように思索を始めた。
無意識に、その両手は膝の上に置かれたクレドの鞘を撫でている。
暫時、二人がカップを傾ける音だけが小部屋に響く。
代行者がさらに二杯ほど紅茶を飲み干し終えたところで、ようやく啓吾が口を開いた。
「……そうだな。転生、というからには生まれ変わるんだろうが、まったくの赤ん坊から、というのは勘弁してくれないか? 姿形が変わるのはともかく、下の世話までされて喜ぶ趣味はない。というかご免こうむる」
「あはは、欲のない話だね。了解したよ、その辺りは任せておくれ。程度はあるけれどうまく都合しよう」
「それから、転生に際して記憶はどうなる?」
「ふむ? ……あぁ、そうか。前世の記憶の心配をしているのなら大丈夫。洗脳じみたことをするつもりもない」
「そうか、それなら元の世界で俺が持っていた技術もなんとかならないか」
「お易い御用だよ。少し色もつけてうまく互換しておこう」
「それと……」
そこではじめて、啓吾は何かを迷うように視線を彷徨わせた。
代行者は、急かすでもなくただ微笑みを浮かべて静かに啓吾の言葉を待っている。
やがて、啓吾は意を決したように代行者を見つめると、自分の着ているコートを指差して口を開いた。
「このトレンチを持っていけないか」
「……理由を聞いても?」
代行者の問いに啓吾は嘆息して天井を見上げると、どこを見るでもなく、ぽつりぽつり、と言葉を零した。
「俺の血肉は母から貰った。親父のおかげで俺は剣を始めた。それに、今の俺がいるのは爺さんのおかげだ。……死んだ身の上でこう言うのも変だが、それだけで俺は満足−−−−−−はしていないかもしれんが、少なくとも一つの生を終えたことに納得はできる」
「……」
啓吾の顔に表情はない。ただ絞り出すような声だけが、言葉にできない何かを訴えている。
そんな脈絡のない啓吾の独白を、けれど代行者は静かに聞いている。
「このトレンチは、元は爺さんのものらしい。それを親父が受け継いで、親父が死んだ時、母が繕い直してくれた」
「形見、というわけかい?」
「そうだな。みみっちい矜持かもしれないが、たとえ来世でも俺は俺であることを止めたくはない。だから、この“繋がり”だけは、持っていきたい」
「そう……。そこまで言うなら否やはないよ。もっとも、長く使えるように少しばかり弄らせてもらうけれどね」
「ああ、かまわない。むしろありがたい」
「ふふふ、どういたしまして」
そう言うと、代行者は手にしていたカップを机において立ち上がった。つられて啓吾が立ち上がると同時に、つい先ほどまであったはずのティーセットが音も立てずに掻き消える。
あまり驚きの連続に、もはや啓吾は諦念じみた表情でそれを眺めるしかない。夢幻のような現状で、ただ、左手に携えたクレドの確かな重みだけが啓吾には無性にありがたかった。
「さあ、準備は整った。さっそくだけれど、次へ進もう」
「そうか。……俺はどうしたらいい?」
「簡単だよ、この扉を開けて、その先へ真っ直ぐ歩くだけ。ただし、いいかい、戻ってきてはいけないよ。振り向くのは構わないけれど、戻ってはダメだ。さもないと、道を見失ってしまうからね」
「どう言う意味だ?」
すぐに分かるよ。そう言って笑う代行者に、啓吾は溜息を零した。
代行者が指し示した扉は、この部屋に入ってきたのと同じそれ。つくづく、不思議な存在である。
「短い間だが、世話になったな」
「あ、ちょっと待ってくれるかい」
啓吾が扉の取っ手を握った瞬間。狙い澄ましたかのように、代行者はそう言って啓吾を引き留めた。
「最後に三つ、アドバイスを贈らせておくれ」
「……」
「あはは、そんな顔をしないでくれよ。本当は黙っているつもりだったんだ、先入観ってのはよくないと思ってね。けれど、あんまり君の願いが無欲だったからさ。もう少し、手を貸してあげたくなったんだ」
「無欲、ねえ」
納得がいかない、と言わんばかりに片眉を上げて顰め面をする啓吾に、代行者はただただ微笑みを浮かべる。
「無欲だよ。逆に聞くけれど、なぜもっと普通の−−−−−−不老不死の命とか、そういうものが欲しいとは思わないのかい?」
心底不思議そうに、けれどどこか楽しそうに代行者は問いかけた。
啓吾は一瞬、言葉を選ぶように視線を彷徨わせて、代行者の顔をじっと見つめた。
「……理由、というなら“興味がない”としか言いようがない」
「ふぅん?」
「爺さんに言わせると、“咲き誇る花は散るからこそ美しい”だそうだ」
「『風姿花伝』かい? 洒脱な方だねえ」
「変化があるからこそ良い、永遠なんていう牢獄に疲れ倦んだ先にあるのは停滞だ。そんなものに魅力は感じない」
「ふふ、ふふふ」
「なにかおかしいことでも言ったか?」
「いやなに、その服がなくても十分に君は繋がりとやらを受け継いでいるのだな、と思ってね」
言われて、啓吾は憮然とした。
なるほど確かに、啓吾の愛した人々は啓吾の中に受け継がれている。あるいはそれは、リチャード・ドーキンスが提唱した意伝子というべきものかもしれない。
けれどもやはり、
「−−−−−−それでも、“形”というものに俺は拘るんだろうよ」
その答えを、実に楽しそうな顔で受け止めた代行者は一つ大きく頷いた。その表情は、どことなく満足げにも見えた。
「やっぱり、君を選んで良かったと思うよ」
「……それで、話は終わりか?」
「あはは、もう少しだけ付き合っておくれ」
そう言うと、代行者は真剣な顔で三つの忠告を語った。
一つ、最初に出会うでクリスタという少女とその家族を信頼し、全てを話し共に暮らすこと。
二つ、魔法に限らず向こうにある独自の技術を学び、貪欲に力を蓄えること。
三つ、ヴィルトースという名の男に出会ったならば力を貸すこと。
「覚えたかい?」
「忘れる方が難しい」
「あはは、それもそうか」
そう言って笑いながら、代行者は扉の取っ手に手をかけて一気に押し開いた。
同時に、眩い光りが明滅して、思わず啓吾は右手で視界を庇っていた。
「さぁ、こんどこそお別れだ。この先に君の未来がある」
啓吾が次に目にしたのは、曠然たる荒野であった。
先ほどまでの瀟洒な部屋はどこかへ消え失せて、果ても見えない荒涼とした赤茶色の大地と月だけが輝く夜空が啓吾を出迎えていた。
「いってらっしゃい。僕はいつでも君を見守っていよう」
「おい、これはいったい……!!」
しかし、啓吾が振り向いたそこには、もはや誰もいなかった。
ただ、前方と同じ荒野が広がっている。いや、よく見ると、真っ直ぐと後ろに向かって延びる踏み固められた道のようなものはあるのだが、それ以外は何をもっても同じ風景が広がっている。
思わず、啓吾はその道に向かって一歩を踏み出そうとして、止まった。
『簡単だよ、この扉を開けて、その先へ真っ直ぐ歩くだけ。ただし、いいかい、戻ってきてはいけないよ。振り向くのは構わないけれど、戻ってはダメだ。さもないと、道を見失ってしまうからね』
代行者の言葉が啓吾の頭を過った。
あの摩訶不思議の塊のような存在の言うことを無視するのは、どうにも嫌な予感がしてならない。そう思って、啓吾は前を向く。前に、道はない。
今更、ここまできて前言を翻すつもりは啓吾もない。ならば、言われた通りに前へと進むしかない。
一歩を、踏み出す。
ザリリ、と地面を踏みしめる音が耳に残った。
そこからは、ただ、ただただ前を向いて歩いた。
荒野はどこまでも静かで、何もない。月に照らされた薄明かりだけを頼りに、まっすぐと歩く。
無性に自分自身を搔き抱きたくなる衝動を堪えながら、啓吾は寂しい旅路を歩いていく。
ふと、誰かにそうされたかのように、啓吾は空を見上げていた。
満天に、星が瞬いている。
つい先ほどまで、月のほかに何も見えなかった夜空が、光りに溢れている。
前世で見たあらゆる夜空よりも、なお美しいその光景が、啓吾の胸を揺さぶる。
自然、啓吾の足が止まったその瞬間。星が、流れた。
無数の奔星が夜景を彩り、空に散らばった星々が強く明滅を繰り返す。
と、一筋の奔星がその流れを変えて、身動きする間もなく啓吾へと飛び込んできた。
為す術もなく、啓吾の胸元へと飛び込んだその光りの塊は、けれど痛みもなにも無しに融け入るようにして啓吾の身体の中へと姿を消した。
瞬間、何かが啓吾の身体を脈動するようにして駆け巡った。
思わず踞った啓吾は、愕然とした。
ただの赤茶けた土でしかなかったはずの大地に、どうしたことか鏡のように自分の姿が映っている。足下の地面のその向こう側から、見ず知らずの自分が驚いた顔でこちらを覗き込んでいた。
十にも満たないであろうか、元よりもなお、あどけない顔立ちはしかし以前よりも彫りが深い。短く切り揃えていた髪はアッシュグレイに、瞳も幾分か澄んだ茶色に近づいていた。
心持ち、元の顔立ちが残っていると言えば、言えなくもない。もっとも、誰かがそうと言われなければ分からないほどに変わり果てたその容姿を、啓吾は自分であると理解していた。
いや、理解出来てしまった。得体が知れない気持ち悪さを感じるほどにすんなりと、腑に落ちてしまった。
これが“新しい生”なのだ、と。
無性に、泣き出したくなった顔を遮二無二夜空へと持ち上げて、啓吾は歩き出す。
上を向いて、振り向かず、戻らず、まっすぐと歩く。
夜空に、星が明滅する。
どこかで星が燃え尽き、どこかで星が産声を上げている。
気付けば、声もなく啓吾は泣き叫んでいた。
慟哭し、止めどなく涙を流し、ぼやけた視界をそのままに、まっすぐと歩いていた。
そうして、どれほど歩いたかもしれないままに、静かに気を失った。




