母性に目覚めました。
チーズ蒸しパンの力で立ち上がった不審者は、よろけながらも歩くことが出来た。よたよたと後ろを付いてくるのが何だがちょっと可愛らしい、とか思っていたけれど未だに不審者という呼称はどうなんだろう。不審者が私の後ろを付いて来るのうふふ、とか完全に精神病んでる系女子だ。しかし不審者の状態もアレなので、取りあえず家に入って腰を落ち着けるのが先決だ。
鍵を開けて引き戸を、音を立てながら開ける。中に入り電気を点けると、そこに立っている彼の薄汚さがはっきりと見えてしまった。思わず顔を歪めてしまう。一体どれほど風呂に入っていないのだろうか。
「とりあえず、お風呂に入って。」
***
不審君(ちょっと親しみを込めてみた)がお風呂に入っている間、私は色々と準備していた。父と母が寝室として使っていた和室に敷布団を敷き、枕を設置。両方とも生前父が使用していたものだ。掛け布団は前に干した時に2階に仕舞っていたのを思い出し、探したのだが思いのほか時間がかかってしまった。やっとの思いで見つけ出した布団を抱え、下に降りていくと開けっ放しの襖の間から布団の上に転がる誰かが見える。まあ彼しかいないのだが。
うつ伏せになっていてこれまた顔は見えないが、寝息らしき音は聞こえるのでうまいこと呼吸は出来ているようだ。抜き合い差し足で近づいて、そっと布団を掛ける。警戒心がやたらと強い人だと思っていたから目を覚ましてしまうかなと思ったが、全くそんなことはなく。熟睡しているようだ。
本当はこれからチーズ蒸しパンでは補えないだろう栄養を取ってもらって、ちょっと事情でも聞こうかと思っていたのだが寝てしまってはしょうがない。
襖を静かに閉めて、それからはいつもと同じ時間が流れた。ただ、2階の自室で寝るときに普段はかけない鍵を掛けたのは、赤の他人が家に居ることを少し意識していたのかもしれない。後から思ったが通帳とかもっと守るべきものが一階にあったが、結局何事もなかったので問題はなかった。
***
寝坊した。普段あまり寝坊することがない私が、まさかの寝坊。慌てて身支度をし、適当に作ったおにぎりをこさえて玄関に向かう。靴を履き、戸に手をかけたときだった。後ろからがちゃっと音が聞こえて振り向くと、相変わらず俯いている不審君。寝坊の衝撃にうっかり忘れていた。
「ご飯いっぱい炊いたから、いっぱい食べて。」
名前も知らないその人にそう言い残して、私は戸を閉めた。
***
昨日よりは早い時間に帰って来られて、玄関に入ると土にまみれた大きめな靴がある。ああ、そうだった。色々話し、聞かないといけないよな。
がちゃっと、朝とは違い前から聞こえてきた。そこにはやはり俯いている不審君。流れる沈黙。な、何か言ったほうがいいのかな。
「た、だ、いま?」
何と言うチョイスをしてしまったんだ私。自分の語彙力のなさには本当に絶望する。いや、この場合コミュニケーション能力か?どちらにしても職場ではビジネスライクな話しか出来ない自分には足りない能力だ。
「……ぉ」
心の中で一人絶望していたら、僅かだが聞こえた。耳を澄まさなければ聞こえないような小さな音。
「ぉ、かえり、なさい?」
ああ、……ああ。この言葉を聞いたのはいつぶりだろう。それはこの家の住人が3人だったときで、よく母の柔らかい声で、時々低くてちょっと掠れた父の声で。鼻と目に、一気に熱い何かか上がってくるような気がしたがそれをやり過ごす。
それにしても、初めて聞かせてくれた声がそんな温かい言葉なんて、枯れ切った心に染み渡ってしまうよ。それが狙いなのか?心の隙に入って懐柔したら金品を奪うのか?なんて考えも過ったけれど、さっきの一言を発した後、どうしたら良いのかわからない風にドアノブを握って震えている姿からは、そんな狡猾さは見えない。
「ご飯作るから、一緒に食べよう。あと、お話もしようか。」
頷いたのを確認して、私は靴を脱いだ。
***
ポツリポツリと話してくれる彼の言葉はとても小さくて、集中して耳を傾けた。それで漸く名前がわかった。レイと言うらしい。苗字も聞いたのだが、言うのを躊躇するように口を開いたり閉じたりしたかと思えば、小さく左右に首を振ってしまった。
「どのくらいご飯食べてなかったの?」
「……一週間、ぐらい。」
「どうして、そんなことになったかは、言える?」
「………………」(左右に首を振る)
怪しさの限界に挑戦でもしているのか。あ、ちなみに私の名前は桜田結子、犯罪歴もなければ補導歴もない真っ白な人間です。
これまでこんな怪しい人と関わりを持つことなんてなかった。交友関係も狭ければ活動範囲も狭い。その上面倒くさがりで色々な物事から避けてきた自覚がある。そんな私が、
「まあ暫くはゆっくりして、いいよ。」
こんな言葉を言うなんて。昨日からおかしい。自分でもよくわからないのだが、不審君もといレイ君を見ていると不思議とそんな言葉が出てきてしまう。何だろう、母性?
「っぁ、りがとう、ございます」
鼻を啜って絞り出したような声を出して目の前の彼はそう言った。う、何だろう今、心臓の近くあたりが急にむず痒くなるような、くすぐったいような。よく分からない感覚が過った。これが母性なのかもしれない。急激な母性の高まりは出産へのリスクがそろそろヤバいラインを通り越しそうなことへの警告でも兼ねているのか?弱々しい若い男の子を目の前にして滾ってしまったのか?
まあ何にせよ、一人には広すぎる空間が少し埋まったのだった。……それにしても本当に少しだ。ご飯、これでもかと言うぐらい食べてもらわないとな。