クライスト・イリュージョン
会社からの帰り、同僚からの誘いも断り、真っ直ぐ駅へ向かう。駅に着くと、ポケットから乗車カードを取り出し、改札口を抜ける。寸分違うことはない、いつも通りの手順だ。
改札口を抜けると、そこにはプラットホームへと続く一本のバカでかい階段が伸びている。
俺はこの一連の動作を人生で後、何回し、この階段を後、何回見なければならないのだろう。
きっと、定年退職間際にはそれを見ただけで吐き気を起こすようになってるにちがいない。
階段を上りきると、そこにはプラットホームを境に左右非対称の光景が広がっている。右にはデカい病院がそびえ、そのデカさのあまり、昼夜関係なく、あらゆる光を遮断している。目につくものと言えば、ポツポツとまばらに光る病室の明かりぐらいだ。
左には、ポツポツどころか鬱陶しいほど、ネオンの光が一面に広がっている。 それがまた、嫌すぎる。 記者会見を受ける芸能人が思い浮かぶ。シャッターフラッシュの質問攻め。ネオンの光は俺にこう言うのだ。
「どうです?寄っていきませんか?良い娘がそろってますよ。安くしときますから」
と、これの連呼。「別に」の一言で済ましたくなる気持ちも分かる。
しかし、そういう質問にバカ正直に応対するアホはいるものなのだ。今、ここからでも何人か目につく。フラフラ歩き、本能のおもむくまま店に入って行く。(大抵は性欲だろう))
あんな奴ら、見るのもうんざりだ。まあ、それだけが生き甲斐なのだからしょうがない。
俺はあいつらみたいなクソにはならない。俺はあいつらとは違う。絶対に…あいつらとは…
「確かに違う」
急に耳元でバカでかく聞こえた。いや、俺だけが聞こえたのだろう。周囲の人間は何事も無かったような顔をしている。
振り向くと、男が立っていた。
「えっ?いや…あの…は?」なんだ?こいつ…
歳は俺と同じ二十代半ばぐらいで、かかとまである真っ黒なコートを着ていた。
「いや、あんたさっきからブツブツ言ってたじゃねえか。うらやましそうに、"俺はあいつらとは違う"って」
いつの間にか、声に出していたらしい。それにしても、今の状況に脳の回転が追いつかない。うらやましそうに?
「例えばどこが違うと思うんだ?」
男はニヤニヤしながら聞いてきた。本当にそれが知りたい訳ではなく、俺がどう答えるのか、楽しみにしているように。
「いや、その…」
脳の回転は段々、追いついて来たがまだ、言葉が出てこない…
「でもよ。外見はほとんど一緒だぜ。スーツにネクタイ、地味な鞄…」
しかし、この男の言葉で俺の脳は急激に回転を加速させた。
「どこが!?俺はあんなダメ人間じゃないし、見た目だって、俺の方が全然マシだろ!」 やっと、言葉が出て来た。それなのに、こいつは…「ダメ人間って、言ったな。あのサラリーマンがなんでダメだと分かるんだ?彼だって、一生懸命生きてるのに」
たくっ、こんな訳の分からない状況で、それなりに応対してやったのに…
「一生懸命!?どう見てもダメ人間にしか、見えないだろ!あんなに酔い潰れてよ!それしか、楽しみが無いんだぜ!?」
「でも、楽しんでる。人生を…あんなに笑って…」
男はバカ笑いしているサラリーマンを見ながら言った。俺からして見たら、あんたの方がうらやましそうなんだけど…
そして、男は俺の方に向き直ってこう言った。
「毎日、死んだ魚みたいな目してるあんたとは大違いだぜ」
言い返す言葉が出てこない。脳の回転が止まった訳じゃない。むしろ、安定している。だからこそ、まずい。今の自分の状態を認めてしまうと俺は…
俺は男に背を向けた。こんな奴にかまってる暇なんか無い。自分にそう、言い聞かせた。
「良い眺めだな…」男はかまわず、つぶやいた。
おそらく、こいつとは根本的に合わない。見ただけでヘドが出そうなネオン街の光景を賞賛したのだ。
「負け犬の背中ってのは…」男の言葉だ。
えらく、またデカく聞こえた。
負け犬の…背中?背中って…誰の?
俺の?
気が付けば、俺は男に殴りかかっていた。
「てめぇ!」
「おいおい、俺に殴りかかる暇があったら…」
ふと、男は言葉を切り、俺の背後を見た。
なんだ?何を見ている?つられて、俺も後ろを振り向くと、その時、
「死ねよ」と…
俺のみぞおちに手の平サイズの圧がかかった。体がかかとを軸に孤を描く…
60°、45°、30°…0°
目の前に、夜空が広がった。所々で星が上品に光っている。あんなに小さいのに、その光はネオンの数倍眩しく思えた。なんとなく、俺は右のデカい病院の光景を思い浮かべた…
何年ぶりだろう。空を見るのは…
空?
けたたましいクラクションが聞こえる。その方向に顔を向けると、自分が今、どういう状況なのか理解した。
死んじまう!!
俺はプラットホームから線路に頭を出している状態だったのだ!
上半身を思い切り起こし、背中に突風が怒号と共に走り去って行くのを感じとった。間一髪、首なしで一生を終えるのを免れた…
俺は唖然としていた。当然だ。初めて死にかけた…
「フハハハハハハ…腹痛ぇ…ハハハハハハ…」
男は…笑っていた。死ぬほど…腹の底の底から、腸を通り越して、最早それは膀胱から引き出しているのではないかと思うほど…
良いなあ…俺もあれぐらい死ぬほど笑いたい…
だが、俺の脳はちゃんとまた現実的に回転してくれた。自分が今、何をすべきか…
「てめぇっ、何笑ってんだよ!死ぬとこだったじゃねえか!!」 俺はそいつの襟首をつかんで怒鳴った。正しい行動だ。脳の回転は良好。こうすれば相手は怖がるはずだし、謝ると教えてくれている。
なのに、こいつは…
「これが笑わずにいられるかよ。死にたがりが、いざ死に直面したら必死に生きようとしたんだぜ!?」
そう言うと、男はわざわざ周囲の人にさっきの俺の無様な様子をジェスチャーして見せた。
だが、俺はほっとした。笑う奴は1人もいない。
ああ、神様。この状況にまともな人間をセットしてくれてありがとう。俺は自信を持ってこう言える。
「謝れよ」
しかし、男は急に笑うのを止め、真顔でこう言った。
「何で死にたがりなんかに謝らなきゃならねえんだよ」
明らかに空気が変わった。一瞬、自分が謝りかけてしまうほどだった。だが、正しいのはこっちのはずだ。
「人を殺そうとしておいて、死にたがりだと!?まるで、俺を自殺志願者みたいに言いやがって!」
「顔みりゃ分かるさ。自殺志願者は何もいじめの被害者だけじゃない。むしろ、あんたみたいなエゴイストが大半なのさ」
エゴイスト…俺が?
「あんたは自分以外の人間をクズだと勝手に決めつけ、優越感に浸っているだけだ。自分の中で自分だけの帝国を創り、その国にのさばる帝王。だが、ある日気付く。自分にはクーデターを起こす者すらいないことを…その後、あんたは何をするか…」
何だよ…クソッ、あえて言いやがらねえ…クソッ…「例えば、あんたこいつらをどう思う?」
男はすぐそこにいたヤンキー夫婦を指差して言った。
夫は金髪に耳には大量のピアス、上下揃いのジャージに首には金のネックレスと、典型的だった。妻の方も夫とはほぼ変わらない格好で、腕には赤ん坊を抱いていた。
ふん、どうせ避妊具もろくにつけずにヤリまくってできたんだろう。ただ、この夫婦、何でこの男見て喜んでんだろう?
「どうせ、デキちゃった婚だとでも思ってんだろ。そして、いずれこいつらはその赤ん坊をコインロッカーにぶち込むと」
こいつ、俺の心が読めんのか!?
「図星みたいだな。人を見た目で判断してるからそんな発想しか出てこないんだよ。こいつらはな、子供が欲しくて、ちゃんと計画してつくったんだよ!」
何も言い返せない…言いたいこともあった…なんで、お前にそんなことが分かるのかと…ただ、この男にとってそれは容易なことなのだと納得している自分もいる。そう…さっきの行動と言い、俺は段々こいつが人間離れした存在のように思えてきたのだ。
「はっきり言ってやる」男は続ける。
「あんたはこいつらよりもクズだし、もっと言えばさっきクズだと決めつけていた、あのサラリーマンはあんたよりもよっぽど良い人生を歩んでいる!」 あいつらが俺より良い人生を歩んでいる?そんなバカな。あいつらは無駄金を遣う人生を歩んでるだけだ…
いつの間にか周囲の人間はこの男の言葉に聞き入っていた。
俺はキリストが弟子たちを説教する光景を思い浮かべた。
「納得行ってねえみたいだな。いいか。聞け。毎日毎日、生きる気力も無く、ただ酸素を吸って、二酸化炭素を吐きやがって!温暖化防止のためにも死んだらどうだ!?この地球は俺たちにとって必要なものだからよ!」男は弟子たちを囲んで言った。
「誰も殺してくれやしねえぞ!!だから、俺はさっきあんたに最高のチャンスをくれてやったのによ!」
チャンス!?チャンスって何のだよ!?…まさか…
すると、男はコートの内ポケットを探り出した。どこかで見たことある光景だ。確か、ギャング映画なんかでよく見る。でも…この光景は…この国では成立しないはずだ…
「後ろを向け」
このセリフも聞いたことがある。確か、これを言われた奴は大抵…
「お前にもう一度チャンスをやる」
…殺される
そう言うと、男は俺が予想していた通りの感触を背中に突き付けた。筒状をしていて、その空洞からは鉄の塊が飛んでくる…ただの鉄の塊なのに、爆発的な速度が加われば、たちまちそれは殺人鬼へと変貌する… それが今、俺の後ろにいる…
「ちょっ、ちょっと待てよ。何するつもりだ…」何するつもりかぐらい分かる。だが、聞かざるを得ない。
「自殺は大罪だからな…俺があんたを救ってやるよ」
「す、救う?」明らかに逆のことをしようとしている。
「要は他殺死を成立させればいい話だ。そうすれば、少なくともあんたは地獄には行かないだろう…それを今から俺がやってやるって、言ってんだよ」
「いや、待て。落ち着け!今、自分が何しようとしているのか分かってんのか!?お前はその引き金を引くと、殺人犯になるんだぞ!?」「違うね…救世主になるのさ」
この男の言葉で全て理解した。やはり、こいつはキリストだったのだ。
全ては仕組まれていたんだ。さっき、感謝した神もこいつで、周りの奴らは俺のためにセットされたんじゃない。こいつの弟子だったんだ。その証拠に誰もこの男を止めようとしない。
クソッ…確かにあんなサラリーマンになるぐらいなら死んだほうがマシだと思ってた…でも、それは今じゃない。
泣きそうだ…もうすぐ俺は死ぬんだ…死ぬって、こんなに恐ろしいものなのか…ニュースで見た自殺者に拍手を送ってやりたいくらいだ…クソッくだらない人生だったなあ…
「俺はいつも、あんたを見てた」
幻聴のように聞こえてきた。これが男の声だと気付くのに、数秒かかった。脳がこんなセリフを予想していなかったからだろう。
見てた?いつも?俺を? そう言えば…
脳が再び急速に回転し始めた。そして、男が言ったこの言葉が思い浮かんだ。『毎日、死んだ魚みたいな目してるあんたとは大違いだぜ』
毎日…
「お前、いったい…」
「いたぞっ、あそこだ!」 振り向こうとした時、階段の方から叫ぶ声が聞こえた。そして、複数の人間が俺の方まで走ってくるのが分かる。すると、足元でけたたましい金属音が鳴った。見ると、何かが転がっている。鉄パイプだ…
「何をしているんだっ、君は!」
振り向くと、それは予想外の光景だった。男は白衣を着た男たちに取り押さえられていたのだ。
それでも、男はもがき、そのせいでコートが肌けている。下に着ていたのは、患者の服だった…
俺の脳の回転は完全に停止した。ただ、目の前の状況を見ているしかない。
「離せ!」男はまだ俺を殺そうとしている。とっさに防衛本能が働き、俺は足元の鉄パイプを蹴って男から遠ざけた。こいつにとって、これは拳銃なのだ。
男はそれを見て、あきらめたのか、もがくのを止めた。
「分かった。もう、いい。ただ…最後にこいつに言いたいことがあるんだ」男は呼吸を整え、俺に一言言った。
「死ね」
翌日、あの男が本当にキリストだったことが分かった。
『クライスト・イリュージョン』、ミュージックシーンに疎い、俺でも一度は聞いたことがある名だ。
彼は今や絶大な人気を誇るロックスターだったのだ。
歌う歌詞は政治批判や自己啓発と様々だが、特に若者のぶつけようのない怒りや不安が、巧みに表現された歌詞は絶大な指示を受けていた。
しかし、その人気絶頂期にも関わらず、ある日突然彼は活動辞退を表明。当時理由は明かされず、まさに幻想のように彼は表舞台から姿を消した。
これについて、当時のファンは口々にこう言ったと言う。
「彼は神だったんだ。そして私たちに希望を与えるために、ほんのひと時地上に降臨されていたのだ」と。 実際に『クライスト・イリュージョン』の活動期間中、自殺者数は大幅に減ったと言う。
しかし、キリストも元は人間である。
本当の理由は彼は末期の喉頭ガンに侵されていたのだ。かすれ声が売りだったこともあり、発見が遅れたのだろう。
それでも、彼は少しも動じなかったと言う。
伝えるべきことは全て、伝えたから。
しかし、入院先でまだやるべきことがあると確信する。
担当の医師によれば、彼は毎日、決まった時間に窓から駅を見下ろしていたと言う。
きっと、最後の弟子を見つけたのだろう。
彼がそいつに言った最後の言葉、あれは「生きろ」としか聞こえなかった。
俺は今の会社を辞め、ロックミュージック専門雑誌の会社に転職することにした。
驚くことに、一発採用だった。この時、なんだか俺は笑ってしまった。
そうか…そうだったのか。
俺は生きるよ。自分のために。人のために。そして、あんたのために。
書くよ。あんたの言葉を。伝えるよ。あんたの言葉を。
それが俺の生きる道だから。