Табак и Вздох(煙草と溜息)
煙草を消すときに落ちていく灰を見て彼女は、
『線香花火みたいだね』
と、少しだけ楽しそうに言った。
星降る夜中に、禁煙である俺のアパートの窓際で煙草をふかしながら。
そして。
『私さ、ときどき、溜息吐く言い訳のために、煙草吸ってる時があるんだよね』
ぼんやりと、天を仰ぎながら。
『私ね、あんたに〝溜息吐くたびに幸せが逃げていく呪い〟かけたから』
彼女はそう言って――
言い残して。
俺を残して、逝ってしまった。
一年前――彼女が二十四歳、俺が二十一歳の、今日のようにけたたましく蝉が喚く、うだるような暑さの夏の朝だった。
彼女が残したのは、幾何かの金と、彼女が〝呪い〟をかけたという、彼女の煙草、一カートンだけ。
それは文字通りの意味で、その二つだけだった。
一
二年前――つまり、彼女が逝く一年前。
俺の住むアパートは1Kでしかもその「1」は、六畳しかない和室だった。
それなのに、二年前の春のその日、大学のゼミの新歓(新入生歓迎会)の二次会は大学から近くて部屋が片付いているという理由だけで俺の部屋に選ばれ、そこには先輩同級生含めロシア文学語学専攻の十数人がぎゅうぎゅうに詰め込まれた。
その一人が二年生になって二十歳になったばかりの俺で。
その一人が二十三歳の研究生だった彼女だった。
窮屈すぎたために春なのにむんむんに暑く、エアコンを起動させるも埃しか吐き出さなかったためにものの三十分ほどで二次会は終わり――まさか春先にエアコンを点けることになるとは思いもしなかった――、それでも部屋は空き缶やら空き瓶やらでぐちゃぐちゃで、俺が片付けに追われている間に、「野郎ども三次会だー!」と近所のカラオケ屋に俺以外の十数人は行ってしまった。
彼らが去った後、一つ溜息を吐いてベッドに座り込むと、
「お疲れ様、大変だったね」
「ぅわっ!」
――隣には、彼女が座っていた。
彼女はショートカットをおかっぱにした黒髪で、カチューシャをして、ふりふりのレースのついた白い七分袖、七分丈ジーンズ。
「初めまして、私イクラ・フィアリェータヴィ」
彼女はそう言ってキツネみたいに微笑んで。
「綴るとこうね――」
と言って、彼女はそこらへんにあったA4サイズのハンドアウトの裏に、これもまたそこらへんにあったボールペンですらすらと筆記体で書く。
‹ Икра Фиолетовый ›
まだ習いたてもいいところで(しかも筆記体だったし)、当時は全く読めなかったけれど。
「よろしく」
彼女はそう言って、右手を差し出す。
「えっと、俺は、司美琴、ツカサがファミリーネームで、ミコトがファーストネーム。よろしく、お願いします」
俺はその右手を恐る恐る取って軽く握る。彼女も優しく、俺の手を握る。温かくて、柔らかい。どきどきしてきて、顔が熱くなってくる。
酒のせいだ。
彼女は手を放して、エアコンを切って窓を開け、桟に軽く腰掛ける。
「よろしくね、ミコト。私は二十三歳でこの専攻の研究生なんだけど、もう就職してるの」
そう言いながら、彼女はポケットから煙草を取り出し、その一本に火を点ける。
「あの、イクラ、さん? あの――」
「フィアでいいから、私のことは。あと敬語禁止」
そう言って一息吸って、紫煙を吐き出す。
「えと、はい。……じゃなくて、この部屋禁煙なんですよ、だから」
「いいじゃん、窓際で吸えば。ほら、月が綺麗だから電気消してよ、ミコト」
……言っても聞かなそうだから、言うこと聞いてもうさっさと帰ってもらおう。夜の部屋に二人っきり、っていう男の誰もが夢見るシチュエーションだが、敷金や大家から追い出されないことには替えられない。
俺は言われるがまま、部屋の灯りを消す。確かに月が真ん丸で綺麗で、月光が僅かに部屋を照らす。
また彼女はふうと息を吐いて――紫色の息を吐いて、
「私、煙を操る超能力があるんだよ」
そう言って月光を背に微笑み、
「……へぇ」
俺は曖昧に相槌を打つ。
まだまだ暑くなるには早い時期なのに、部屋には湿った空気が滞る。
結局そんな彼女の電波発言からは二人は無言で、
「――また来るよ、ミコト・ツカサ」
「……逆だよ、フィア」
彼女がたっぷり一本煙草を吸い終わるまで、その温かく湿った空気は、気まずく濁ったままでこの狭い部屋を満たし続けた。十分弱ぐらいだろうか。
「それじゃ、また、学校で」
――そうして、彼女が部屋を出る直前、
「はい、そうですね……送っていきますか、フィアさん?」
俺がそう訊ねると、
「敬語で話さなくなったらね」
彼女は俺に背を向け、そんな空気を纏ったまま、扉の向こうに姿を消した。
それから少しずつ知っていったことだけれど、彼女はロシア出身で(名前からしてそりゃあそうだといえばそりゃあそうだ)、黒い髪のおかっぱ頭に黄色いカチューシャ、それに歳の割に幼げなふりふりのついた服とスカートを、どうやら好みなようで、しょっちゅう身に付けていた。
また彼女はもともと俺の行く大学の文学部ロシア文学語学専攻に留学してきた大学生で、そのまま日本に居ついて、就職して、ときどき大学に研究しにくる研究生らしい。
なんでそんなことを俺が知っていったのかといえば、それ以来――あの二年前の春の日以降、彼女は、大学に近くて片付いている俺の部屋によくやって来るようになったからだ。ジャージとかパジャマとか、そんなラフな格好で。
彼女は俺の部屋で、酒を呑んだり、煙草を飲んだり、カレーを飲んだり。
彼女は俺の部屋で、傍若無人に振る舞い。
いつの間にか俺の同級生たちは、彼女の態度に付いていけなくなってあまり関わらないようになり――先輩たちは言わずもがなで、必要最低限しか接触をもとうとしなかった。
彼女の傍らには、俺以外の人がいなくなってしまった。
……俺が「お人好し」だと判断したからだろうか。もしそうなら彼女はほぼ第一印象でそう判断したことになるけれど。
俺もそこまで、彼女を「面倒な人だな」とは思わなかったしなあ。
そんなこんなで、彼女が初めてこの部屋に来たあの晩から、一月経った五月のある日。
満月。灯りを消した俺の部屋。彼女が開けた窓から黄金の光と、涼しげな五月病を促すような葉風が畳臭い部屋に入り込む。
「私、煙を操る超能力があるんだよ」
今日もジャージで彼女はその桟に半分腰掛けて、禁煙の俺の部屋で煙草をふかす。
「……だから禁煙だって言ってるだろ」
何度言ったかわからない、携帯電話だったら「だ」を打っただけで全文予測変換できそうな台詞を口にする。
「……それに俺は絶賛傷心中なんだ、ほっといてくれ」
そして当時俺は、好きだった同級生がいて、告ったら、フラれた。
彼女にもちょくちょく相談していたのだ。だから彼女もそのことを知ってる。
「……初めてこの部屋に来た時も、フィアは超能力使えるなんてこと言ってたね」
「よく覚えているね」
そう言って彼女は微笑み、
「ミコト、敬語、使わなくなったね」
俺がその言葉にぴくりとして、彼女は一つ息を吐き、
「……見ててね」
そう言って彼女はすうと息を吸う。
彼女の銜える煙草の先が、赤く明滅する。
彼女の称える色白の顔が、赤く、染まる。ように見える。
窓際の彼女は、月明かりを背にキツネのように目を細め、口を丸くしてそれを吐き出す。窓から吹き込む夜風に乗って、ゆっくりと俺に向かってくる。
その煙の形は――
「ハート形だ……すごいな……」
彼女の口から放たれたハートマークは、俺の心臓の位置に一直線に進んで、
俺に当たってふわりと消えた。
彼女に目を戻すと、彼女は窓際から煙のように消えていて、
――俺の胸の、中にいた。
「……フィア……?」
「好き」
俺は彼女の普段とのギャップに心を撃たれ、
俺は彼女ベッドに押し倒した。
……フラれてすぐにこんな次第とは男として情けないけれど。
そんなこんなで彼女は、俺の彼女になった。
二
「ソフィア・イクリーニチナ・フィアリェータヴィは亡くなりました」
と、まるで葬儀屋のような格好をしたアラブ系の男が、唐突にそう言った。
「いえ、私はペルシア人です」
彼は読心したかのようにそう言葉を続ける。
大学の文学部棟の屋上へ続く――屋上へは出られないけれど――階段の、行き止まりに、俺は座っていた。俺の好きな場所で、よく昼飯に弁当を作ってここで食べていた。そのときも食べていた。
その前日から彼女は、
『ちょっと仕事で出張に行かなきゃ。でもいつでも電話してね』
と、どこかへ出張に行っていた。
今からちょうど一年前の――彼女と出会って一年と少し経った、うだるような暑さの夏の日だった。
――そんな日の、そんな場所――屋上へと続く階段の、最後の踊り場に、その男は立っていた。
「……あなたは?」
俺は彼に訝しげに「あなたは誰ですか」と問おうとしたのだが、彼は何食わぬ顔で、俺がさもそこまでしか言おうとしていなかったかのように、そこまで聞いて答えた。
「こんばんは、ミコト・ツカサさん」
葬儀屋のような黒いスーツにがっちりした逆三角な肉体。百八十以上ありそうな、眼鏡七三のその男は、ぼんやりと見つめる俺に、こつんこつんと、革靴を鳴らして近づいてくる。……というか、踊り場まで彼が近づいてきていたことに俺は全く気づかなかった。
「私はセフィード・シーヤと申します」
ミミズの這った後のようなアラビア文字? の書かれた名刺を差し出しながら、彼は告げる。
「……で、何だって? ミミーズ・ビーアさん」
俺は、まだ、さっき耳に入った彼の言葉を拒絶していた。
「名前まで拒絶する必要はないでしょうに。親切にも、ローマライズと片仮名でも書いてあるでしょう」
「親切にも」って自分のことで使う奴初めて見た。
そして。
「もう一度、お伝えいたします」
彼は一つ、軽い深呼吸をして。
「ソフィア・イクリーニチナ・フィアリェータヴィ――イクラ・フィアリェータヴィは、亡くなりました」
二度目のその言葉からは、俺は逃れられなかった。
『私ね、あんたに〝溜息吐くたびに幸せが逃げていく呪い〟かけたから』
彼女はそう俺に言い残したのだそうだ。
俺はそう、そのセフィードに聞いた。
利いた――酷く心に。
そんな俺に、彼は端的に言った。
「知りたいでしょうから、お教えいたします」
またまるで読心したように。まだ場所は、屋上へと続く階段の終点だ。
「彼女は、アフリカの或る国――国名を挙げてもいいですが、別に挙げる必要もないでしょう――の戦後復興の任に就いていましたが、その地で政府ゲリラに殺害されました」
彼の言葉には意味不明な点と理解不能な点が幾つかあったけれど。
「あなたとそっくりな少年を救うために、凶弾に斃れました」
その言葉に、記憶のままの彼女が砂煙舞う黄土色の街で、フリフリの格好で少年の前に立ち塞がって、軍隊に立ち向かう姿がありありと目に浮かんで――
「詳細は、落ち着いたらまたお話ししましょう」
彼はいつの間にか去り。
俺はいつの間にか自室にいた。
時計を見ると十四時で、先程から五分ほど経っていた。弁当箱は畳の上に転がっていて、中身は空だった。
……先程の彼の言葉は、まるで芸能人が死んだニュースを聞いたときのように、まるで現実感がなかったけれど。或いはまた、剽軽な――人を食ったような彼女のことだから、俺をドッキリに仕掛けているのかもしれないと思ったりもしたけれど――
彼女に電話をしても出ない。彼女は一度もそれをしたことがなかったのに。
かたかたと、体が震えだす。恐怖に。不安に。
「本当に……本当に?」
「写真を見ますか?」
独り暮らしの独りの部屋の独り言に返答があった。
「それとも動画のほうがいいですか?」
……先程の、……なんとか人だった。
「セフィード・シーヤです」
再び、彼は名乗った――顔がとても近かった。
「見ますか?」
彼は迫った。ごつい体に黒いスーツだけでも威圧感があるのに、ここまで至近だとその圧迫感に俺は押し潰されそうだった。
「……はい」
と、俺は弱い声で、けれど強い意志で、そう答えた。
見ないと、俺は決して信じられないだろうから。
見ても、恐らく俺は信じられないだろうけれど。
あらゆる全てを疑った哲学者でもないけれど、疑いだしたら止まらない。
彼はスーツの内側の胸ポケットからデジタルカメラを取り出して――
――それから一日、ただ、泣いていた。
泣いていた、記憶しかない。
真っ暗になっても部屋の灯りも点けず、じめじめと肌を締め付ける暑さの中、窓から差し込む月光が俺を照らしても、俺は彼女を失って何もない六畳間で、いつもなら狭いと文句を言うのにやけに広く感じる六畳間で、その隅で、ただ、呆然と。
俺はそのまま部屋の隅で小さくなって眠った。彼女の夢なんて、見なかった。
起きたらもう日が暮れていた。
通夜は、翌日の晩に行われた。
「この度は、お悔やみ申し上げます」
セフィード・シーヤは、通夜開始時刻の一時間前に我が家を再び訪問してきた。
「が」
と、絶対に逆接の接続詞を繋ぐべきではない文章にそう言い繋げる彼は、毎度のことながらいつの間にか部屋に上がっていて、いつの間にか俺の目の前に座っていた。
「昨日日程など全てお伝えいたしましたが、やはり聞いておられなかったのですね」
正座だ。
「もう一度、一通り説明致しますね」
と、彼は職業的な敬語を少しくだけさせながら、俺の目を真っ直ぐに見つめる。
「……とりあえず、着替えてください」
言いながら彼は、俺の寝間着のスウェットを一瞬で脱がしてパンツ一丁にして(声を上げる間もなかった)、そして二瞬目で俺に礼服――所謂喪服を着せたって! どんな荒技だ!
「……そう云えば、彼女は――ソフィア・イクリーニチナ・フィアリェータヴィは貴方に伝えていなかったようですね」
と、俺は何も言っていないのに、彼はぺらぺらと喋り出す。俺を部屋から連れ出し、玄関を出て共益スペースの廊下を走り階段を下り、俺のアパートの目の前に停められていた黒の軽自動車(日本車)の助手席に俺を乗せ、彼は運転席に座ってエンジンを掛けて発進する。
「私はセフィード・シーヤ」
何度目だ。
「私は――彼女が勤めていた『人材派遣会社』――世界に百三人存在する超能力者を集めて世界を救う秘密結社〝Colours〟、その外交官です」
「は?」
俺はただ一言、そうしか言葉は出なかったけれど。脳はのっけから彼の言葉を避妊していた。
「コンドームですか」
突っ込まれた!
「何をですかやめてください」
彼は真剣に嫌そうだった。
彼はあからさまに眉に皺を寄せて、大きく溜息を吐いて、何も持っていなかった筈の左手からまるで手品のように、名刺を取り出した。
「ただの手品です」
「これ、貰いましたけど」
「貴方はちゃんと見ていないでしょう」
天気予報みたいなイントネーションで彼はそう言う。確かに何だこの読めない字はと思ってそのままだ。
「ロシア語も同レヴェルだと思いますが」
「そうかな」
「話せる私が言うので確かです」
「……」
彼はくすりともせずに冗句を言った。眼鏡をカチャリと上げる。
「で、名刺をちゃんと見てください」
言われて俺は、ようやくその段階で受け取った名刺を見る(つまり彼は左手でずっとこっちに名刺を差し出しながら、ハンドルを握っていた右手をそれから離して眼鏡をかちゃっとしたのだ)。
『〝Colours〟――〝白〟=〝特派員〟
هسیا سفید
(Sefid Siya)
Iran』
シンプルだった。シンプルすぎて何も情報がない。
「そしてこっちがソフィア――フィアの、名刺です」
どくんと、胸が跳ねた。
俺は彼女から、そんなものを貰ったことがなかったから。
今まで彼女が俺に晒してこなかった面を、第三者によって見せられると思わなかったから。
『〝Colours〟――〝紫〟=〝煙〟
Икра Фиолетовый
(Ikra Fioletovyi)
Russia』
……少し、ほっとしていた。
俺に語っていた名前が騙っていた名前ではなく――恐らくは、このセフィードや、或いはごくごく一部の人間が、彼女の本当の名前を知っているのだろうということを確認できたから。
「それも含めて、また後で、説明しますよ――到着いたしました」
俺は外を見る。
「ここが、その式場です」
近所にある、学生街の田舎にしてはやたらでかいと大学でも有名だった葬儀場だった。
三
喪主は、どうやら社長秘書的役割りにいるらしいセフィードが務めるらしかった。
『彼女の両親は亡くなっていて、また貴方ともまだ結婚はしていません故』
と彼は理由を説明した。
……彼女は、俺と結婚する気だったのだろうか?
……なんて、丸一日泣いて、そして眠ったせいで、また彼女の死が現実感を失っている。
『彼女の遺言で、日本式で、貴方の家の近所で行うことになりました』
とも、彼は言っていた。
そんな、彼女の通夜が行われるモノトーンの祭儀ホールには、大学の同じ専攻・研究室の人たちと、彼女の働いていた「人材派遣会社」――〝Colours〟の社員と思われる人たちがやって来た。なんでそう思ったかというと、専攻・研究室の人(つまり知り合い)以外の九割以上は色とりどりの髪や肌の人間だったからで、それは別にエロゲ的意味じゃなくて、色んな国の人だったからだ。……まあたぶん、赤色の髪の人は染めたんだろうけど。セフィードといい、フィアといい、恐らくその「人材派遣会社」はある意味で「多国籍企業」なのだろう。
因みに、俺の両親は来ていない。ここから実家は遠いし、「婚約していたわけではないだろう?」と言って、彼らは今日も誰かの死を悼んでいる。
――そんな。
そんなまるで他人事のようなモノローグをしているのは、勿論虚勢と、装った平静で。
柩を開けて、彼女の静かに微笑む肉体を見た途端に、
頭が真っ白になって――
そんな――そんな通夜の記憶はぼんやりとしていて、あとは、彼女に似合わない花に囲まれた祭壇で微笑む彼女の写真が、やけに遠く感じたことしか覚えていない。
そして坊さんがお経を読み終わった後は、俺と、それに喪主のセフィードは棺に納められた彼女とともに、そこで三人きり、無言で夜を明かした。
翌朝の告別式には、大学の奴らは来なかった。自分の研究だったり、出席がぎりぎりの授業だったり、いろいろな「理由」という名の言い訳をつけて。……まあ、彼女の人徳に見合っていると言えなくもない。
集まったのは、俺と、その「人材派遣会社」に属するらしい多国籍な百四人の、計百五人。
ずらりと並んだパイプ椅子の向く先には、昨晩と同じ、花に囲まれた彼女の棺と、彼女の無邪気に微笑む遺影。
セフィードは気を遣って、俺の焼香を一番にしてくれた。
喪主の彼に一礼して、焼香して、線香を立て、喪主にもう一回礼して、席に着く。……やり方が合ってるかは自信ない。
そうして線香の匂いを嗅いで、ぼんやりと、彼女といた六畳間が思い出される。
――そういえば彼女は、線香が好きだった。
『……なんで俺なんだ?』
それは、彼女の死ぬ半年前――俺が二十一になる二ヶ月前で、彼女が二十四になった二月、隙間風が冷たい真夜中だった。
窓も部屋の扉も閉めこたつに潜りエアコンをつけて、それでも寒い、俺の六畳間。もしかしたらカーテンが寒色だからかもしれない。
俺とフィアは、正方形の炬燵机の一辺に二人ぎゅうぎゅうに座って丸くなり、炬燵布団を肩まで掛けている。
その日俺は唐突に、別にその日じゃなくてもよかったんだろうけど、ずっと気になっていたことを、隣にくっついて座る彼女に訊いた。
紫色のパジャマ姿の彼女は、毛糸のもこもこ靴下を履いてもこもこ耳あてをして、
『へ? 何の話?』
そう言ってとぼけて小動物のようにコンビニで買ったミルクを挟んだフランスパンをがじがじかじっている。
『いや……なんで俺のこと好きになったのかなー、と』
俺の言葉を聞いて彼女はパンをかじる口を止め、
『んー、単純接触効果、かな?』
『え……』
単純接触効果とは心理学用語で、先入観のない状態で何度も同じ人と会うとその人に好意的印象を持つ、というものだが。
『うそうそ冗談っ』
時間停止していた俺を見て少し慌てて否定する彼女がようやく網膜に映り始めて、
『……なら、なんで?』
もう一度、彼女に問う。
――自分には、誇るべきところなどなにもないからだ。
自信を持てる部分など、ないからだ。
『……昔、』
彼女は、いつもにやに……にこにこしているその顔を、少し寂しそうに歪めて、
『昔ね、ミコトみたいに、バカで、真っ直ぐな男がいて……そいつが好きだったんだ』
過去への扉を開く。
『でも、二年前にね、その彼は――』
『……その彼は?』
そう言って彼女は天井を仰ぎ、
『――既に愛し合っている彼女がいた』
『……死んだのかと思った』
彼女は一転してけらけらと笑い、
『そんなメロドラマみたいなことあるわけないじゃん。二年前、日本の愛知県で、出張中にあった彼は当時高校三年生で十八歳。同級生の彼女と高校卒業してすぐ結婚したんだって』
彼女は今度は自分の爪先を見て、
『そんな一途な彼と、ミコトの姿が被ってね……。まあ、それはそれで。それは理由の一部だよ。大部分は、「こんな私でも、ミコトは許し容れてくれるかな」って』
それは、たぶん「お人好し」と言われているのとあまり変わらないけれど。
彼女は少し恥ずかしそうに、ふふっと笑った。
『――教えてくれてありがとう、フィア』
俺がそう言って微笑むと、彼女はすっと表情をなくして顔を白くし、
『だから、絶っっっっっ対に、浮気しないでね。……たぶん私、その女殺しちゃうから』
……俺の目は泳げずに溺れ、口からはからからとした空虚な苦笑いしか零れない。彼女ならやりかねない、と思う。
浮気できるほど、俺はモテていないけど。
『ローマの休日ならぬ、愛知の出張、だね』
なんとかして軽いジョークを、震える声で吐き出す。
『……あとね、ミコトからは線香の匂い――纏わりつく死の匂いがするから、かな』
彼女はそのジョークをスルーして、唐突に真剣な眼差し。
『……そうかな』
俺は静かに、少しだけ自分のことを話す。
いつだって自分のことを話すのは、苦手だ。
『俺の実家、葬儀屋なんだよ。小学校の頃は、誰かが死んだらうちで葬式で、だから誰かが死んだらうちにすぐ訃報が届くんだ。それで俺のその頃の渾名は、〝死神司〟とか、〝シニガミコト〟とかだった』
『へーぇ……』
……。
……。
かじかじ。……彼女は再び、パンをかじり出す。
『ごめん、つまんない話だったね』
俺は沈黙に負けて平謝り。
『……でも、線香の匂いは、俺は好きだ』
あの、少し鼻がすっとする、死を悼む香りが。
『私も、線香の匂いって、なぜか好きなんだよねー』
彼女は突然俺の胸に顔をうずめ、すんすんと匂いを嗅ぐ。
『やっぱりいい匂いだね、あ、そういえば、遺伝的に遠い人の体の匂いって、いい匂いに感じるらしいよ』
そう言って俺を見上げる彼女は可愛くて、
彼女のひくひくする鼻の接する胸がきゅんとして、
俺は彼女を(以下略)。
……なんて思考がトリップしながら俺は焼香を終えて自分の席に座り、「人材派遣会社」の人たちが焼香を終える。
こうした儀式をしていると、彼女がもう帰ってはこないのだということを――こんな仄々とした言葉を使いたくないのだけれど――しみじみと、感じる。
彼女はもう帰ってはこないのだ――俺のあの、月明かり差し込む六畳間には。
いくら俺が、〝死を司る神〟と渾名されても。
彼女は、火葬された。彼女の希望だ。
棺の中で真っ白な顔で眠る彼女は今にも起きてきそうで、
棺の中を埋め尽くす色とりどりの花はやっぱり彼女には似合わなくて、
頬に触れると、その冷たさがじっとりと手に纏わりついた。
そして、
火葬場から出てきた彼女は、
骨も肉も、跡形もなく煙となって消え去って。
紫色の菫だけが、棺に残されていた。
葬式の後の――宴会、じゃなくて何て言うんだろうな――告別式に参加した人での食事会。普通は通夜の後にやるものだろうけど、喪主とその「人材派遣会社」の都合で告別式の後の昼過ぎになった。当然大学の知り合いは来ず、参加者は俺と、「人材(略)」の人々、計百五人。畳が敷かれ大量の長机が並んでいる大広間にその全員が集まり、酒を飲んで豪勢な飯を食っていた。
この「人材(略)」は、どうやら儲かっているらしかった。
そう云えば――高一の頃じいちゃんが死んだとき、
『大人はいいよな、辛いことは酒飲んで忘れられて。ってかこいつらむしろじいちゃんが死んだの口実にして酒飲みたいだけじゃねーのか』
と集まった親戚一同に敵意をむき出していたが、二十一歳になってやっとわかった。
あの日酔っ払った親父が言っていた――
『死んだじいちゃんだって俺らにいつまでもメソメソしてもらいたくねーだろ。愛する家族に笑っていてほしいと思ってんだろ?』
――が、そうじゃない。
怖いのだ。
歳を重ねるにつれて、自分の死が近づいてきて。
歳を重ねるにつれて、身近な死が増えてきて。
それでも彼らは、そして俺は、明日に向かって、前を向いて歩いていかなくちゃいけなくて。
その恐怖と、悲しみから目を逸らして、明日からも笑って生きていくために、俺たちはこうしてこんな儀式をするのだ。
そんな考え事をしてひとりで飲んでいたら(知り合いもいないしな)、
「弔うということは、とても大事なことなのですよ」
隣に巨漢七三黒縁眼鏡のセフィードがぬっと隣に現れて、まるで歴史家が「埋葬の文化」を重要視するように、そう言った。
「あなたは彼女の――ソフィア・イクリーニチナ・フィアリェータヴィの数少ない居場所の一つでした。ありがとうございました」
彼が手に持っているのは水の入ったグラスだった。
「……そうですか」
俺はそれでもいいと思っていたし、その上今となってはどうしようもないが、俺は彼女のことを殆ど何も知らなかった。
「そういえば、あなたの会社って――」
「聞きたいですか?」
話したそうだ。
「いや別に――」
「私たちの会社は」
そこまで話したかったのか。
「世界に百三人存在する超能力者を集めて世界を救う秘密結社〝Colours〟。そして私はその外交官です。……っていうところまでは説明しましたね?」
……わざわざおさらいまでしてくれた。
そう云えば、彼女は昔「煙を操る超能力者だ」と自称していたし、確かに彼女の苗字‹ Фиолетовый ›は「紫色、菫色」って意味だけど。
「それなら今ここに俺を除いて百四人いるのは、彼女が死んだんだから本当は百二人になるはずだから変だし、それに、こんなところで油売ってていいんですか? 世界を救う秘密結社が」
ちょっと棘のある言い方になってしまった。が、セフィードは気にせず、
「今百四人いるのは、百二人のうちその家族を連れてきている者がいるからです。因みに『超能力者百三人』は死んでもまた次が生まれて常に百三人になります」
……後半はいらない情報だ。
「あとね、あなたが感じている以上に、今世界はだいぶ平和なんですよ。それに、仲間の死は悼まなくては。人間として当然――」
「ミコト君、だったよね? 君もどう?」
こんなやつのつまらん話なんて聞きたくないよね! と付け足しながら、セフィードを押し退け、ショートカットの女性がにこにこしながら俺の隣に座る。その左手薬指には、空色に輝く指輪。
そしてその反対隣りに座った男は、
「フィアのこと、……ご愁傷様だったね。僕は二年前に会ったきりだけど、とても、いい人だった」
〝二年前〟、そして彼女を「フィア」と呼ぶ童顔で寂しく微笑む彼が、フィアが想っていた男だろうと、俺は直観的に感じた。……というか、彼女は出張で同じ会社の彼に出会ったのか。なんか変な感じだ。いや、今時の「多国籍企業」はそんな感じなのかもしれない。
――そんな彼の左手薬指には、金色に輝く指輪。色は違うが、俺の隣に座る巨乳ショートカットの彼女と同じデザインのもの。つまり、彼女の旦那。
「二人は二十歳で夫婦なのです」
押し退けられていつの間にか長い机を回り込んで俺の正面に座る彼がそう言う。そうか、二年前十八だもんな……若い、な。一つしか違わなくて、しかも年下なのに、俺と彼らとではえらい違う。人生のすべてが。
「さあさあミコト君! 飲も飲もっ」
隣のショートヘアの彼女が満面の笑みで、俺の空のグラスにどこから持ってきたのか焼酎をがぼがぼと注ぐ。
逆隣りと正面の彼らも、グラスを持って待機。最初セフィードとやらが水のグラス持ってるから大丈夫かと油断していたが……俺、下戸なんだけど。両親はざるなんだけどな、隔世遺伝か。
「……じゃあ、頂きます」
人のいい俺は断れずに彼らに合わせてグラスを掲げ、
「「「乾杯っ」」」
……乾杯じゃねーし! と思いながら彼らのグラスに自分のを合わせ、一口飲んだら、
月明かり差し込む自分の部屋で目を覚まして。
彼女と、
彼らの存在は、夢のように掻き消えていて。
……テーブルに置かれた彼女の煙草だけが、彼女の存在を証明していた。
四
フィアは死ぬ前に(死ぬことが解っていたのだろうか、それともこうした『出張』の度にそうしていたのか)、俺の口座に貯金をすべて移していた。まあ、使い道などないのだけれど。
でもそれだけの金ではもちろん一生生きていけるわけがないし、生きていけたとしてもそれは人間としてどうなのかだろうか、と思って、大学三年、二十一歳の俺は、就職活動をしていた。実家を継ぐという選択肢も無きにしも非ずだが、それはほんとにほんとの最終手段だ。第一、仕事内容さえわからないし。
結局、彼女がかけたという〝呪い〟についてもよく解らないままだった。
解らないというそんな「無知の知」的な「解らない」というよりはむしろ、「何を言っているの全くわからない」という「理解不能」或いは「言語が通じていない」といったレヴェルの「解らない」だった。
だった――けれど。
その二日後。
その日は相変わらずむしむしと湿気の高く暑い日で、陽射しはじりじりと肌を焼くような、そんな日だった――相変わらず俺は独り、部屋の片隅でぼうっと窓の外を見ていただけだけれど。
冷房の吐く空気さえも、俺を慰めようとはしなかった。
そんな――そんな。
そんな、彼女がこの部屋にいない虚しさに、
「……はあ」
と俺は一つ、溜息を吐いた。
吐いたら。
……俺は、その日はどうしようもなく、夕食を買いに行かなければならなかった。部屋にもう何もなかったからだ。ついに米もなくなり、日常的非常食としていたカップ麺もなくなった。
無くなってしまった……。
仕方なく、外出した。そして三十分も経たないうちに、財布を落とした。
仕方なく、現金で安く買えるスーパーから矛先をコンビニへと変更して、また一つ溜息を吐いて、
電子マネーの入った命綱の携帯電話を落とした。
……なんというか、あからさまに過ぎた。
俺は、……何というか、かの世界的に有名な泣けるコメディ小説『庵野ジョーの案の定な日常』ではないけれど、たぶん「自分が滑稽な状況にいる状態から逃れたい感情」という言葉が一番妥当な気がするけれど――そんな感情と、そして或る種の諦めとともに、そしてアパートに帰って、彼女が残していった二十ミリグラム(!)の煙草に火を点けて吸ってゴホゴホとむせたら(実は俺はこれが喫煙初体験だった)、固定電話(FAX付)が鳴り響き、
「財布と携帯電話がうちの交番に届きましたよ」
という連絡が入った。
――俺は彼女の言葉を、信じざるを得なくなった。
いや、あらゆる全てを疑った哲学者でもないけれど、疑わしい理由はいくらでもある。
けれど。
彼女の最後の最期の望みなのだから。
彼女の最後の最期の呪いなのだから――と。
まるで言い訳のように、俺は彼女の言葉を信じようと思った。
そして俺はその日から、溜息を吐く言い訳のために、煙草を吸うようになった。
「煙草を吸って吐く息は、それは煙であって溜息じゃないからセーフ」――なんて、彼女が考えそうな……幼稚な屁理屈だ。
幼稚な屁理屈だけれど――俺は。
俺は溜息を吐く言い訳のために、煙草を吸うようになった。
「溜息を吐く代わりに煙草を吸えば、幸せがやってくる」と、諦め混じりに信じながら。
――彼女のいないそれからの日々は、彼女の煙草のおかげかそこそこ充実していて、でも少し孤独で、ちょっと空虚で、……だいぶ退屈だった。
そんな孤独で空虚で退屈な毎日に、特筆すべきことなど、特にない。
ある二流の会社で、最終面接まで行った。煙草十本分ぐらい、煙という名の溜息を吐いた。
それでも何とか乗り切って、今年――大学四年の春、その会社から内定をもらった。
卒論も、いい感じに構想がまとまり、夏休みの今ではもう半分ぐらい書き終わっている。まあ一通り書いても、何度も直されるだろうけど。これも、煙草十本分ぐらい。
そうして傍から見たら「リア充」とか呼ばれそうなほど、なんとなく充実した大学生活を送っていたら、
……彼女が、できた。
そして俺は、俺の心の孤独と空虚と退屈が、だいぶ小さくなっていることに気付いた。
「時間は最良の薬」とよく言うけれど、それは「彼女が俺の傷だった」と言っているようで、認めたくなかった。
五
――蝉がけたたましく鳴く、朝。
そう、彼女が死んでから一年が経った、朝。
俺は今――そう、〝今〟だ――大学の研究室からちょっと抜け出して、夏の陽射しがギラギラと照らす、二階の十六畳ほどのバルコニーである喫煙所にいる。文学部棟唯一の喫煙所だ。夏の陽射しがギラギラと容赦なくコンクリートの床を温め、肌を刺す。でも、ベンチに座って、真っ青な空と真っ白な雲を見上げられるここは、清々しくて気持ちいい。肌は汗でべとべとで、頭がちりちり暑いが、それでもだ。
俺は煙草を一本取り出して、ライターで火を点ける。
二十ミリグラムという重さには、まだ慣れない。たぶん一生、慣れることはないだろう。
煙草を吸っときながらむせるのはなんだか恥ずかしいけれど、でも我慢しきれずにゴホゴホと小さくむせる。
彼女が残した一カートン――二十本一箱×十箱の煙草も、残りあと二本。一日に換算すると……およそ〇・五本しか吸っていない。まあ、もともと吸っていなかったし、これは重い煙草だし――想いのこもった煙草だし――そこまでおかしくはないだろう。
と、がちゃりと、ここと中を繋ぐ扉が開く音。俺がそちらを見ると、
「え、ミコト……?」
「……サヤ」
そこには、俺に嫌悪の眼差しを向ける彼女がいた。
「ミコトって、煙草吸うの……?」
その眼差しのまま、彼女は問う。
「ああ。一年前から」
どうでもいい情報までつけて、俺は答える。
「……最ッ低ッ! もうあんたとは別れるからッ!」
彼女は長い栗色の髪を振り乱してそう吐き捨てて、踵を返して走り出す。
「ちょっ、待て――」
俺が立ち上がって止めるのも聞かずに。仕方なしに彼女の携帯に電話を掛けると、
『お掛けになった番号は――』
即座に着信拒否されていた。
――それに一つ、溜息を吐いてしまった。
すると、俺の携帯が着信を告げる。彼女からかと期待したが、番号が違った。
内定先だった。
『あなたの内定は取り消されました』
一言で云うとそういう内容の、俺にとっての最悪の知らせだった。
『全部国の政策が悪いんだ』
一言で云うとそういう言い訳を、その会社はしていた。
「……」
俺は喫煙所で呆然と立ち尽くし、手に持ったままで八割が灰になった煙草を口まで持っていき、銜えて、一服する。
「はぁぁぁ……」
大きく一つ息を吐いて、もう一度ベンチに座りなおす。がっくりと肩を落とし、床のコンクリートのざらざらを凝視する。
……それならなんで、彼女はここに来たんだろうな。
俺っぽい人の背中が見えて、それを確認するため、とかだろう。私も煙草吸いに来ました、ではなかろう。
そんなことをぼんやり思いながら、俺はにやりとニヒルに苦笑い。
ああそうか、やっとわかったよ、この〝呪い〟が。
その〝呪い〟は、
純粋で、子供っぽくて、嫉妬深い君がかけた〝呪い〟で、
君が死んでも、君を想い続けるようにかけた〝呪い〟で、
そして、死んでも俺を守りたいという、君の〝祈り〟――だと思っていたけれど。
これは、「彼女を忘れさせない」〝呪い〟なんかじゃない。
本当は、「彼女を忘れさせゆく」〝呪い〟なんだ。
もちろん彼女は本当は、自分を忘れてほしくなどないだろう。
……死人に意志などなくただ遺志だけがあるから、それは「今」ではなく彼女の死の間際の話だけど。
でも彼女は、俺が彼女を引きずらず、新たな未来へと踏み出せるように、自分を忘れさせることにした。
たぶん、彼女はわかっていたのだろう。……自分の死を。
実際今俺の記憶している彼女との思い出は、彼女との出会いと、彼女の愛の告白(×2)と、彼女の死だけ。しかも最後のはあやふやだ。
「溜息を吐く度に煙草を吸えばいいことがある」なんてそんな甘いこと、いくら彼女の「超能力」だからって、どうして信じられたのだろう。
……なんだかそこら辺で、ガタイのいい眼鏡の彼がふふふと微笑んでいる気がする。
たぶん、そんな「奥行き」が、そんな「曖昧さ」が、彼女にあったからだろう。
逆に云えばそれは、俺がそんな彼女の「奥行き」や「曖昧さ」を追求したがらなかったから――そういう神秘性を含めて彼女を好きだったから――ということでもあるけれど。
恐らく、本当の彼女の〝呪い〟――能力の効果である「煙草を吸うと彼女との記憶を――彼女の記憶を忘れていく」というものを隠すために、予め眼鏡の彼(と、他の同僚にもかもしれない)に、頼んでいたのだろう。
百三人も超能力者がいるのだ。金もあるし、それぐらい、可能だろう。
……それに、あんなに嫉妬深い彼女の〝呪い〟の効果で、俺に彼女ができるわけがないじゃないか。
その証拠に、今俺は溜息を吐く前に彼女にフラれているし。
そんな一つの結論に至って、俺は一つ、思い出す。
よく、彼女が口にしていたことだ。
『ひとは、ひとりでいきていくもの』
だからひとは、集まって、寄り添って、いきてゆく。
彼女は俺に、一度も本名を名乗らなかったけれど。
結局セフィードは説明する前に姿を消したけれど(俺がぶっ倒れたというのもある)。
Софья Икринична Фиолетовый――
「ソフィア」は名、日本人で云えば「下の名前」だ。
「イクリーニチナ」は父称といって、スラブ系とかアラブ人に多い、「誰々の息子・娘」という意味のもので、彼女の場合は、父の名がたぶん「イクラ」で、すなわち「イクラの娘」ということである。父親の名前が「イクラ」だということであり、それはつまり、
彼女は父の姓と名をずっと自分の名前として騙ってきたということだ。
それにこの「父称」というものにはもう一つ付言しておくべきことがある。
ロシア語文化圏では、親しい間柄だと、名と父称を合わせて呼び合うことが多いのだ。
のだけれど。重ねて云うが、彼女はそれらを俺に名乗らなかった。
その理由は彼女が俺に決して「ソフィア」と名乗らなかったことに関わるのかもしれないし、
その理由は彼女がずっと恐らく誰に対しても「父親と同じ姓名」を名乗っていたことに関わるのかもしれないし、
その理由は亡くなった彼女の両親とも関係があるのかもしれないし――
――特に関係ないのかもしれない。
(ああ、あと「フィアリェータヴィ」というのは、解説の必要もなく、そのまま姓だ)
『ひとは、ひとりでいきていくもの』――だから俺は。
だから俺は、彼女を置いて、前へ進もうと思う。
彼女の望みは、「自分を忘れて前へ進むこと」だったろうけど。
俺の望みは、「彼女を胸に置いて前へ進むこと」。
彼女を忘れたら、そりゃあ、心は楽だろうけど。
彼女を忘れたら、たぶん俺の魂は、ゆっくりと死んでいくだろう。
彼女はそう思わなかったのか。
たぶん俺が全てを忘れたとき、「魂が死ぬ」なんてことも考えなくなるのだろう。
たぶんそれが、「魂が死ぬ」ということなのだ。
彼女を忘れるまでに、「この煙草全てを吸い尽くすまで」と猶予があったのは、たぶん彼女の「わがまま」というのも悪い気がするほどの、彼女の正直な気持ち。
……何度も「たぶん」と云って申し訳ないが、確証が何もないのだ。
……そして俺は、今吸っていた煙草の火をぐりぐりと押し消し、灰皿へと捨てて、
残った一本の煙草を、ゴミ箱へ捨てる――手元にあると、ふとした拍子に吸ってしまいそうだからだ。
彼女の遺品は、ちゃんと心の中にある。
ついでに、俺の口座にも。
最後に吐いた煙は、ぎらぎらと輝く陽に照らされて紫に輝き、
ハート形になって、見えなくなるまで消えなかった。
『溜息を吐くと幸せが逃げていく』×『なら溜息の代わりに煙草の煙を吐けばいいじゃない』っていうネタに、他の長編の脇役を引っ張ってきて書いたものでした。
ロシア語は勉強中です.