第七話
「勇者」は、聞き慣れた曲ということもあって、とても弾きやすかったようだ。メロディーラインを一通り確認したら、ヒロはすんなり伴奏もつけて聴かせてくれた。彼自身が口で言っていたよりも、ずっと譜読みが速い。しかし、さらりと弾けたのは良かったのだけれど、新たな問題がまた一つ持ち上がった。
「…全然『勇者』じゃないね。」
「『勇者』っていうより、『聖者』だね。」
ピアノの音は、優しすぎるのだ。表彰式で流れるものは、管楽器やストリングスや打楽器で、力強さに溢れているので、余計に優しく感じてしまう。プロが弾いたらまた違うのだろうが、私達はアマチュア大学生だ。しかも何年ものブランクを抱えている。
「昔弾いてた時は、完全に自己満足だったんだって、今わかったよ。」
「確かに、弾くのは凄く楽しいね。」
「そうなんだよね。これ弾くのにハマってたときは、弾きながら自分を表彰してたよ。意味もなく。」
「条件反射で、褒められた気分になるんだね。」
「うん、気分が良くなっちゃうんだ。でもやっぱり、聴くならオーケストラが必要だね。」
コミュニティーセンターに誘ってみて大正解だった。やっぱり、実際に弾いてみないと、きちんとは選べない。
「振り出しに戻っちゃったね。どうしよう。」
「そうだなぁ…。」
ヒロは、楽譜をいろいろ捲りながら考えている。私も考えなければと思うのだけど、どのように考えるべきなのかがよくわからない。何故なら、ヒロの置かれている状況が、まだよく理解できていなかったからだ。
私は、情報収集から始めることにした。
「一発芸って、飲み会とかでやるの?」
「うん、そう。部室でやるんだけど、なぜかアップライトピアノがあるからさ。」
「へえー、誰が持ってきたの?」
「OBの人。現役の時に持ち込んだらしいんだけど、卒業するときにはもう新しいピアノ買っちゃったから、要らなくなってそのまま残ってるらしいよ。」
「え、でもそれじゃあ調律どうしてるの?」
「その人、調律師なんだ。毎年一回は来て、調律してくれるんだよ。」
「一発芸のために?」
「そう。だから、うちのサークル…ラグビーサークルなんだけど、新入生歓迎会では、ピアノが弾けるかどうか必ず聞かれるんだ。で、二年からは強制的に弾かされる。電子じゃなくてアップライトだし、しかも先輩が調律してるのを見てるから、あんまり手を抜くわけにもいかないんだよ。」
なるほど、サークルの一発芸という割に真剣だったことには、そんな理由があったわけだ。そして、私が予想したとおり、ラグビーサークルだったこともついでに判明した。これで、疑問は一気に解決した。
すっきりした私も、一頻り話し終えたヒロも、何となく黙ってしまう。音楽室のクーラーも一段落したようで、今は冷風を放出していない。一階のレクリエーション室から、バスケットボールの軽快なバウンド音と、数人の素早い足音が聞こえる。あとは、たまに脇の狭い道路を走る車のエンジン音や、悪巧みをしていそうな烏の鳴き声が聞こえるばかりだ。
長閑で、のんびりしてしまって、こういうときには、『G線上のアリア』や、『主よ、人の望みの喜びを』の方が聴きたいと思う。それなら、ヒロの舞台の飲み会では、どうだろう。
「聴いてる雰囲気は、どんな感じ?」
「え?」
突然の質問で、ヒロは何を聞かれているのかわからなかったようだ。
「飲み会なわけだし、コンサートみたいに、しーんと聞き入る訳じゃないのかな、と思って。それとも、ピアノバーみたいな雰囲気とか?」
「いや、それなりにガヤガヤしてるかなぁ。バーって感じでもないよ。」
「それだったら、あんまりのんびりしたような曲は、飲まれちゃうんじゃないのかな。去年の先輩たちは、どういうのを弾いてたの?」
「うーん…クラシックの人もいたし、ポップスの人も居たかな…。でも確かに、あんまり静かな曲の人は居なかったかも。」
ヒロは去年のことを思い返しながら、首を捻った。そして、さらに難しい顔をして続ける。
「そうだよね…。そういうことも考えないといけないよね。静かな曲だと、聴いてる人にも、静かにしなきゃいけないって、気を使わせてしまうかもしれない。」
「なるほど…確かに…。」
私もそこまでは考えていなかった。そういうことになると、考えられるのは…。
「ってなると、元気なのは、これと、…これかな。」
ヒロも同じことを考えていたようで、『勇者』と『春』の楽譜を取り出し、机に並べる。
「でもなぁ…『勇者』はさっきのことがあるし、『春』は季節はずれだよね…。」
あっちの条件で駄目なら、こっちの条件で駄目、という具合で、私たちはとうとう行き詰まってしまった。