第9話 行軍
ヴァル・ド・ロゼの深い霧が、昇り始めた朝日に打たれて白磁の輝きを放つ頃。
村の入り口はかつてない異様な熱気と、肌を刺すような緊張感に包まれていました。
そこには、王子クロヴィスが整えた精鋭騎兵隊が、一点の乱れもなく整列している。
王家の威信を象徴するように、金糸で緻密な刺繍を施した天蓋付きの馬車が中央に鎮座し、貧しい村のぬかるんだ地面には不釣り合いなほどの眩い光を放っていました。
遠巻きに眺める村人たちは、昨日の「奇跡」への畏怖と、自分たちの隣人があまりに遠い存在になってしまったことへの戸惑いを隠せない。
彼らは息を潜め、事の顛末を見守っていました。
その静寂を切り裂き、マリエールが姿を現したのです。
彼女は王家が用意した最高級の絹の衣を冷徹に拒み、昨日までと変わらぬ、煤で汚れ、あちこちが擦り切れた平民の服を纏っていました。
背中には、最低限の生活道具を詰めた小さな布の荷物がひとつ。
そのあまりに質素な姿は、周囲の黄金色の騎兵隊の中で、かえって異様なまでの存在感を放っていたのです。
「お嬢様……本当に行かれるのですね。この老骨、いまだに夢を見ているようでございます」
隣で震える声を漏らしたのは、老従者ピエールでした。
彼はあの日、マリエールが神速の剣で鋼を断ち、光の粒子に変えた瞬間から、彼女をどう呼ぶべきか、その距離感に激しい葛藤を抱いているようだった。
マリエールは足を止め、ピエールの古びた革靴の先を見つめてから、その顔を真っ直ぐに見据えました。
「ピエール。私はこれから王都へ行き、血の流れる戦場へ向かいます。……あなたも、私と一緒に来なさい」
「わ、私のような老いぼれが……? 聖女様となられた今のお嬢様には、相応しき供回りがおられるはず。私はお荷物になるだけではございませんか……」
謙遜の中に寂しさを滲ませる老人に、マリエールは静かに首を振った。
(……いいえ、あなたがいなければ、私はまた「私」を殺してしまう)
彼女の脳裏に、前世の忌まわしい記憶が蘇ります。
かつて聖女としてもてはやされた彼女は、自らの居場所を守るために必死だった。
文字を覚え、古今の戦術書を紐解き、誰もが見向きもしない異国の戦術書すら独学で修めたあの日々。
連戦連勝。
民衆の熱狂的なコール。
そして、王子からの求婚を勝ち取った絶頂期。
けれど、手に入れた瞬間に、彼女は学ぶことをやめてしまったのです。
王妃となり、宝石とドレス、そして酒に溺れる放蕩の日々。
帝国の反撃が始まった時、酒で狂った頭には、かつてあんなに容易く描けた戦術の欠片も浮かばなかった。
連戦連敗の果て、大会戦で味方の裏切りに遭い、敵城の冷たい地下牢に投獄された時の、あの這い上がるような絶望。
(なぜ、あの作戦を看破できなかったのか……。なぜ、私はあんなにも愚かだったのか!)
投獄されていた間、彼女は「自分は王妃なのだから、人質として生かされ、やがて取引で返されるはずだ」という甘い考えを捨てられなかった。
しかし、届けられたのは夫クロヴィスからの、死刑宣告にも等しい一通の書簡。
『身代金は払わない。殺せ』
マリエールは青く光る瞳を鎮めるように深く長い息を吐き出すと、その小さな手をピエールの痩せた腕に添えました。
「いいえ、あなたが必要なの。王宮には、私を盲目的に崇める者や、利用しようとする者……あるいは、呪いのような言葉を吐く者しかいないでしょう。あなたが隣にいて、私のために素朴なスープを温めてくれないと、私はまた……自分が何者であるかを見失ってしまう。かつてのような、心の壊れた人形に戻ってしまうのが怖いのよ」
その瞳に宿る、悲痛なまでの孤独と切実な拒絶。
ピエールは、彼女が何者であろうと人生を賭けて支え抜くことを瞬時に決断したのです。
「……御意のままに。この命、尽き果てるまで、どこまでも、お供いたします」
そこへ、馬上のクロヴィス王子が軽やかに身を躍らせて下り、歩み寄ってきました。
彼はうやうやしい仕草で馬車の扉を開き、マリエールを迎え入れようとします。
「さあ、聖女様。王都への道は険しく、冷たい。この馬車をお使いください。神の御使いである貴女の御身に、これ以上の泥を跳ねさせ、汚れを付けるわけにはいかないのです」
クロヴィスの言葉は、一片の疑いもない誠実さに満ちていました。
しかし、マリエールは知っている。
その誠実さが、いつしか「身代金を払う価値もない」という冷酷な決断へと変貌することを。
「……いいえ、王子。その馬車は不要です。これは怪我をした兵や、歩くことのかなわぬ老人のために使いなさい。私は、民と同じ道を、この足で歩きます。ピエール、行きましょう」
マリエールは、唖然として言葉を失う王子を置き去りにし、迷いのない足取りで冷たい泥濘の中に最初の一歩を踏み出しました。
かつて、宝石を散りばめた靴で民の視線を見下ろした自分への、これは最初の「罰」であり、決意の証でした。
後ろからは、混乱しつつも「神の使い」の後に続こうと馬の手綱を引く騎士団が続く。
豪華な騎兵隊が、粗末な服を着た少女と老人の後に従うという、異様な光景の行軍が始まりました。
彼女は一歩歩くごとに、足元に伝わる泥の重みと冷たさを噛み締めました。
今度は、決して焼かせない。
今度は、決して溺れない。
マリエールの歩みは遅く、しかし揺るぎないものでした。
泥濘に汚れていく古い革靴の重みこそが、今、彼女が「罪を背負った人間」として生きていることの、確かな証だったのです。




