第8話 後悔の夜
床に就いた後も、泥のような眠りは訪れなかった。
まぶたを閉じれば、暗闇の向こうからあの忌まわしい記憶が、生々しい熱量を持って這い出してくる。
火刑台から立ち上る猛火が肌を焼き、肺を焦がす熱さ。
そして、何よりも深く魂を切り裂いた、愛したはずのクロヴィスが綴ったあの冷酷な筆跡。
「……消えなさい」
マリエールは呪文のように呟き、跳ね起きるように身を起こした。
裏切りと絶望の記憶は、夜の闇をより一層深く、重苦しく塗りつぶしていたのです。
彼女は暗闇の中で、自分の右手をじっと見つめた。
月明かりすら届かない部屋で、その掌には今、前世の紛い物ではない本物の神威が、微かな熱を帯びて静かに脈動している。
(今の私は、国を動かし、運命を捻じ曲げる力を持っている。けれど、この力は私が私自身を律するための重い鎖でもあるわ……)
まぶたの裏に、かつての眩いまでの「栄光」が浮かんでは消える。
かつて、十四歳の少女だったマリエールは、捨てられることを極限まで恐れていた。
神の啓示という嘘を真実にするために、彼女は血の滲むような努力を重ねたのです。
村娘には到底理解できないはずの難解な聖典を丸暗記し、独学で文字を覚えた。
夜を徹して古今の戦術書を紐解き、誰もが見向きもしない異国の奇策を記した古文書すら、狂ったように読み漁った。
「マリエール様! 勝利を! 我らに聖女の勝利を!」
戦場に響き渡る万雷の拍手と、自分を神と崇める兵士たちの咆哮。
誰もが不可能だと断じた戦局を、彼女は独学で得た異国の戦術でひっくり返し続けた。
連戦連勝。
その果てに、彼女はついに若き王子クロヴィスからの求婚を勝ち取ったのです。
王妃の座。
それは、泥にまみれた村娘が夢見ることさえ許されない、至高の到達点であった。
しかし、手に入れた瞬間に、積み上げた努力は砂の城のように崩れ始めた。
クロヴィスが王に即位すると同時に、マリエールは「戦う必要」を失った。
自分を繋ぎ止めていた、あの狂気じみた学習への情熱は、いつしか高価な宝石の輝きと、肌を滑る極上の絹織物の感触へとすり替わっていった。
贅を尽くした晩餐会、夜通し行われる放蕩の限り。
酒と虚栄に脳は萎え、かつてあれほど鋭利だった戦術的感性は、泥のように濁り、澱んでいったのです。
悲劇の始まりは、帝国の逆襲だった。
前線からの悲鳴のような報告が届いても、酒で狂った頭には、かつてあれほど容易く浮かんだ逆転の策など一つも浮かばなかった。
連戦連敗。
かつての「聖女」の化けの皮が、一枚、また一枚と剥がれ落ちていく。
そして訪れた、あの大合戦。
逆転の転機と信じて全軍を投入したその地で、彼女を待っていたのは神の助けではなく、王家の放蕩に絶望した味方の裏切りだった。
退路を絶たれ、あろうことか三日前まで自国の領土であったはずの敵城へと、無様に連行された。
冷たく湿った独房の中で、彼女は幾夜も、己の指を噛みながら後悔したのです。
(なぜ、あの日、あの裏切りの予兆を看破できなかったのか……。なぜ、伏兵の定石を失念していたのか……!)
しかし、その絶望の淵にすら「甘え」があった。
(私は王妃であり、神に選ばれた聖女だ。人質として生かされているのは、交渉の余地があるからに違いない。クロヴィスなら、国を挙げて私を買い戻してくれるはずだわ)
そんな惨めな希望を完膚なきまでに打ち砕いたのが、差し出された夫からの書簡だった。
『その女の身代金に、我が国の一文たりとも支払う価値はない。……直ちに殺せ』
「あぁ……っ」
二度目の人生、静かな闇の中で、マリエールは押し殺した声を漏らして激しく震えた。
熱い。
全身を火が舐め回すあの感覚。
けれど、肉が焼ける物理的な熱さよりも、必死に文字を覚え、戦術を学び、愛を捧げた男に「ゴミ」のように捨てられたという屈辱。
その悔恨こそが、今もなお彼女の心を切り刻み続けていた。
「……誰も、焼かせない。この村の人たちも、名もなき兵士たちも……そして、私も」
その誓いは、誰の耳に届くこともなく、白く凍てついた夜気の中に静かに溶けて消えていきました。
夜明けが訪れ、東の空が重苦しい薄墨色から白磁の色へと変わり始めた頃、村の入り口からはすでに、平和な農村には不似合いな響きが聞こえ始めていた。
軍靴の響き、鎧の擦れ合う冷ややかな金属音。
マリエールは、ピエールが用意してくれた一番丈夫な、しかし泥にまみれ、あちこちが擦り切れた古い革靴を履いた。
「ピエール、荷物はそれだけでいいわ。豪華な馬車も、着替えのドレスもいらない。……私は、自分の足でこの大地を踏みしめて歩きたいの」
かつて、宝石を散りばめた靴で民の視線を見下ろした自分への、これは最初の罰だ。
マリエールは、自分を待ち受ける王子クロヴィスの熱狂的な視線を思い、冷たく目を細めた。
今度は、あなたの望むような人形にはならない。
学び、読み、考え、抗い続ける。
神に与えられたこの力さえ、自分を縛り、正義を成すための道具として使い潰す。
マリエールは、ピエールと共に、狂信的な期待が渦巻く広場へと向かって、確かな一歩を踏み出した。
自らの罪を浄化し、前世で失った全てを今度こそ守り抜くための、長く険しい巡礼の始まりであった。
彼女の履く古い革靴が、王都へ続く冷たい土を、復讐にも似た強い意志で踏みしめていったのです。




