第77話 時を超えた手紙
あの日、執事長ピエールが大切に保管したマリエールの手紙は、エミリの手によって封じられた。
そして月日が流れ、ついにその封が解かれる日が来たのである。
【愛しい息子、シオンへ】
親愛なる、私の愛しい息子シオン。
13歳の誕生日、おめでとう。
この手紙を貴方が開いたということは、貴方はもう、自分の足で人生の荒野を歩き始めようとする、一人の立派な人になっているのでしょうね。
貴方の名前を決めるとき、貴方の父レオンハルトと、私のお父様であるアルベール先王、そして「もう一人の私」と一緒に、何度も話し合いました。
「シオン」。それは真っ白な百合の花。
どんなに汚れた泥の中でも、気高く、美しく咲き誇る花です。
貴方がこの世界の何物にも染まらず、自分の信じる正義を貫ける子になるようにと、願いを込めました。
貴方が二歳のとき、私はこの世を去ってしまいました。
その先、貴方をこの腕で抱きしめることは叶わなかったけれど、これだけは信じて。
貴方の最初の鼓動も、最初の手足の動きも、私はすべてこの身で感じていました。
貴方がお腹の中で動くたび、私は「ああ、この子のために、この国に未来を遺さなきゃ」と、何度も勇気をもらったのよ。
シオン。貴方には、二人の母がいます。
貴方をこの世に送り出してすぐ旅立ってしまった、不器用な私。
そして、私の代わりに貴方を抱きしめ、涙を拭い、今日まで我が子として、女王として、深い愛情で育ててくれた、太陽のように温かい母マリエール。
いいえ、彼女の名前は、本当はエミリ。
マリエールは私の名前であり、貴方の母は、私の分身なのです。
エミリが貴方に注いだ愛は、そのまま私の愛でもあるわ。
彼女が貴方を叱り、抱きしめる時、そこにはいつも私の魂も寄り添っていたことを忘れないで。
13歳という年齢は、自分の進むべき道に迷うこともあるでしょう。
そんな時こそ、鏡を見て。貴方の瞳の輝きの中には父レオンハルトの誠実さが、貴方の微笑みの中には私とエミリの不屈の意志が宿っています。
貴方の後ろには、貴方を愛する八人の将軍たちや、聖女騎士団の叔父様、叔母様たちがついている。
皆、貴方を守り、導くことを誇りに思っている、最高に格好いい大人たちよ。
シオン。
貴方がどんな道を選ぼうとも、私は貴方を誇りに思います。
ただ、貴方が大切だと思う人を全力で守り抜ける、そんな「心」の強い男になって。
生まれてきてくれて、本当にありがとう。
貴方の人生に虹のような光が降り注ぐことを、空の向こうからずっと祈っています。
私のことを知りたくなったら、お父様やお母様、お爺様やカイル、そして将軍たちに聞いてみて。
楽しいお話になると良いのだけれど。
愛しているわ、シオン。
――もう一人の母、マリエールより
シオンが手紙を読み終え、茫然と立ち尽くす中、レオンハルトとエミリは彼を別室に呼び、静かに向き合った。
「……母様、いえ、エミリ様。貴女は、ずっとマリエール様のふりをして、僕を……?」
シオンの問いに、エミリは震える指を組み、まっすぐに息子を見つめた。
「ええ、シオン。私はエミリよ。……いつか貴方に軽蔑される日が来るのを覚悟して、今日まで『マリエール』を生きてきたわ。でも、今の私の心にあるのは、隠し通せなかったことへの後悔じゃないの。彼女が、私の本当の名前を貴方に教えてくれたことへの、感謝なのよ」
レオンハルトが、シオンの肩に手を置く。
「シオン。お前の母は一人じゃない。命を繋いだマリエールと、愛を注ぎ続けたエミリ。どちらも欠けてはならない、お前の『母』だ。……フィリアンヌが手紙を読むまでの一年間、この真実はお前と俺たちだけの秘密にしよう。彼女を守るために、な」
シオンは涙を堪え、エミリを抱きしめた。
「分かっています、お父様。……僕を産んだ人の願いも、僕を育ててくれたお母様の強さも。……僕は、前よりもずっと、お母様のことを愛している。エミリお母様」
エミリはその日、13年間で初めて息子に本当の名前を呼ばれ、泣き崩れた。
それは、大いなる二人の聖女の物語が、次代へと繋がった瞬間であった。
一年後、フィリアンヌ13歳の誕生日。
兄シオンはすでに真実を知り、妹を静かに見守っていた。
【愛しい娘、フィリアンヌへ】
私の愛しいフィリアンヌへ。
13歳の誕生日、おめでとう。
この手紙を貴女が開いたということは、貴女はもう、自分の将来をその瞳に描き始めている頃なのでしょうね。
貴女にどうしても伝えておきたいことがあります。
貴女はマリエールがお腹を痛めて産んだ子ですが、貴女には間違いなく二人の母がいます。
貴女の母の本当の名前はエミリ。
私の名前がマリエールです。
貴女のお母様は、私の魂の半分。
貴女は私の娘でもあり、エミリの娘でもあるのです。
本当は貴女とお菓子を作ったり、中庭でお茶をしたり、やりたいことは本当にたくさんあったわ。
でも、私は待てなかった。
けれど、エミリが貴女を愛し、抱きしめたすべての時間は、そのまま私の愛でもあるのです。
貴女は今、鏡の中にどんな自分を見ていますか?
お兄様のシオンを支えようと背負い込み、自分を律しているのかしら。
貴女は女王になるのかしら。
シオンが王位を継ぐとしても、あるいはいつか運命が貴女を玉座へと導くとしても、私は貴女を全力で誇りに思います。
けれど、忘れないで。
女王や王女である前に、貴女は一人の愛される娘であり、自分の足で行きたい場所へ行ける、自由な魂を持っていることを。
もし、運命の重さに心が折れそうになったら、いつでもこの手紙を思い出して。
貴女の後ろには、八人の将軍たちや聖女騎士団の叔父様たちが、固い絆で貴女を守るために控えています。
貴女は私たちの希望、そしてこの国の誇りです。
貴女がどんな未来を選ぼうとも、私とエミリはいつまでも貴女の味方よ。
生まれてきてくれて、本当にありがとう。
貴女の進む道が光に満ちたものであることを、空の向こうからずっと祈っています。
――もう一人の母、マリエールより
ついにフィリアンヌが手紙を読み終えた。
彼女はシオンよりも感情が豊かで、激しく泣きじゃくりながら部屋を飛び出し、エミリの元へ駆け寄った。
「お母様! どうして! どうして今まで言わなかったの!」
エミリは、一年前にシオンを受け止めた時よりも、ずっと穏やかな表情で娘を抱きしめた。
「ごめんなさい、フィリアンヌ。……でもね、貴女が今こうして私を『お母様』と呼んで泣いてくれるまで、私は本当の意味で自分の名前を取り戻すのが怖かったの」
フィリアンヌは、エミリの首にしがみついた。
「……ずるいよ! お母様が二人もいるなんて、私、世界で一番幸せ者じゃない……! 私が女王になったら、マリエールお母様と、エミリお母様、二人分の愛でこの国をいっぱいにしてみせるわ!」
シオンは誇らしげに頷き、父レオンハルトと視線を交わした。
「はい、父様。……これからは僕たちが、母様……エミリ様を守る番ですね」
二人は両親から、なぜエミリが自分を「マリエール」と偽らねばならなかったのか、その真実を聞かされた。
臣下や国民がなぜ、これほどまでに母を英雄視し、忠誠を尽くすのか。
かつてこの国を救った「本物の聖女」の物語を聞き、二人の胸は熱く震えた。
「お兄様、将軍たちに聞きに行きましょう。誇り高きマリエールお母様の話を」
「ああ、もちろんだ」
ガストンはシオンにせがまれ、鼻を真っ赤にしながら語った。
「マリエール様がいかに苛烈で、美しく、そして俺の自慢の斧槍を完膚なきまでに叩き壊したか! 若、あのお方は……あのお方は太陽だったのです!」
彼は同じ話を何度もループし、最後には子供のように泣き崩れるのだった。
フィリアンヌは影の中にいたカイルを見つけ出した。
「ねえカイル、マリエールお母様はどんな人?」
カイルは困ったように、でも愛おしそうに目を細める。
「よく笑うんだよな。あんたの笑い方にそっくりだよ。向こう見ずで、危なっかしくて……俺たちが命を懸ける価値のある、最高の主君だった」
エティエンヌは、シオンたちの前で初めて涙を見せた。
「マリエール様は、戦略の天才であられた。私は軍師と呼ばれているが、彼女の足元にも及ばない。そして、彼女はいつも自分を犠牲に人を助けるのだ。若、姫、マリエール様がいるからこそ、この国は存在しているのです」
ピエールは目を細め、遠い空を見つめた。
「お嬢様は、あの中庭が大好きでした。私の用意したお菓子とお茶を、それは美味しそうに召し上がっていましたよ……」
二人は、生まれて初めてピエールの涙を見た。
マリエールお母様の話を聞くことは、みんなの心の、最も深く大切な場所に触れることなのだと、子供ながらに悟った。
「マリエールお母様。みんなに聞いたけど、もっと知るには時間がかかりそうです。会いたいよ、マリエールお母様」
春の柔らかな日差しが、大司教特別管轄区を包み込んでいた。
ここは王国の最高機密。聖女マリエールが眠る真実の終着駅である。
エミリは女王の重い礼装を脱ぎ捨て、かつて雪の日に二人で笑い合った時のような、軽やかな白いドレスを纏って墓碑の前に立っていた。
数歩後ろでは、宿将ガストンが巨木のように不動の姿勢で控えている。
エミリは墓碑に刻まれた『Merielle de Archiel Sainte Marjie, vrawie Émiliez』(聖なるマリエール・アルシエル 幾万の民を救った聖女に聖なる安らぎを)』の名を、指先でそっとなぞった。
※ アルシエル語表記(架空言語)
「……ねえ、マリエール。子供たちに、あの手紙を届けてくれてありがとう。シオンもフィリアンヌも、あの子たちは貴女の言葉で、本当の意味でこの世界に祝福されたのよ」
エミリの声が、わずかに震えた。
「……そして、あの手紙にはもう一つの魔法がかけられていたわ。卑怯よ、貴女は。私に何も言わせないまま、あんな贈り物をするなんて。……私に『エミリ』の名前を取り戻させるために書いたのでしょう? 私が一生、貴女の名前の檻の中で自分を殺して生きていくのを分かっていたから」
エミリは墓碑に額を預けた。石は春の陽光を吸い、まるでマリエールの体温のように温かかった。
「貴女は……なんて、なんて欲張りで、優しい人なの。本当に、全部救わなければ気が済まないのね。クスクス……」
背後から「ぐすっ」と大きな鼻をすらす音が聞こえた。エミリが振り返ると、鋼の鎧を纏った巨漢の将軍が、顔を真っ赤にして泣いていた。
「あら。ほら、マリエール。貴女のせいで、またガストンが泣いてしまったわ。王国随一の将軍をこんなに泣かせるなんて、本当に罪な女ね」
「……申し訳ございませぬ、エミリ様。ただ、あまりにも……マリエール様のお心が、そして今、貴女様がその名を呼ばれたことが……。我ら騎士にとって、これ以上の救いはございませぬ……っ!」
「……ガストン。ありがとう。昨日、貴方が私を『エミリ』と呼んでくれたとき、嬉しくてね、私も貴方みたいに泣きそうになってしまったのよ」
空には、あの日と同じように淡く確かな虹が架かろうとしていた。
「マリエール……見ていてね。私は貴女の愛したこの国を、貴女の遺した子供たちを守り抜くわ。『マリエール』として。そして、もう一人の貴女であり、親愛なる親友の『エミリ』として」
春風が吹き抜け、エミリの髪を揺らした。
それはまるで、墓土の下に眠る少女が笑いながら、彼女の背中を優しく撫でたかのようであった。




