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第76話 手紙三

 マリエールの死から半日が過ぎた。

 聖都を包む静寂は、残された者たちの心に深く、重く沈殿している。

 涙で目を腫らしたピエールが、「皆さま、お食事をとってくださいませ。マリエール様も、それをお望みです」と痛ましげに告げ、軽食のワゴンをメイドに運ばせた。


 しかし、食欲のある者など誰もいない。

 ガストンが「すまねぇ、爺さん。俺はまだ……食えそうにねぇんだ」と声を絞り出せば、エティエンヌも「申し訳ない、執事長。食事を口に入れようとすれば、嗚咽が邪魔をしてしまう」と、力なく首を振った。

 あるじを失った部屋に、手紙を開く微かな音だけが響く。


【高貴なるアンリ・フルール将軍への手紙】


 私の、誇り高き騎士アンリ。


 この手紙を読んでいる貴方は、きっと溜息をつきながら「最後までお嬢様には敵わない」と、苦笑いしているのでしょうね。


 アンリ。

 あの日、初めて貴方たちと立ち会った時のことを覚えていますか? 貴方の自慢の細剣をバラバラにしてしまった私を、貴方は「煤けた顔の田舎娘」と呼びながらも、その瞳には武人としての確かな敬意を宿してくれました。

 煤だらけで泥臭い私の中に、誰よりも早く聖女の光を見つけてくれたのは、貴方だったのかもしれません。


 戴冠式の前、私はお父様に、貴方を東方に配したいとお伝えしました。

 東方は平定されたとはいえ、この国の美しさと文化が息づく大切な場所。

 そこを任せられるのは、誰よりも美学を解し、気高く、そして部下を思いやる優しさを持ったアンリ、貴方しかいないと考えたからです。


 オセルの城壁の前、一人で駆け出した私を守るために、貴方が「優雅さ」をかなぐり捨て、必死の形相で軍旗を振ってくれた姿……。

 私は馬上で、貴方のその必死な忠誠を、とても誇らしく、愛おしく思っていました。


 アンリ、最後のお願いです。

 これからは、その美しき剣筋でエミリと子供たちの進む道を清めてあげてください。

 エミリは、私よりもずっと花が似合う子です。彼女が女王として立つ場を、貴方の手で世界で一番美しく、誇り高い場所に仕立て上げてほしいのです。


 アンリ。

 煤けた田舎娘の私を、本物の「女王」にしてくれてありがとう。

 貴方の隣で戦えたことは、私の人生の美しい一ページでした。


 ――あなたが飾ってくれた聖女マリエールより


 手紙を読み終えたアンリは、震える手で細剣の柄に触れた。

 かつてマリエールに粉砕され、新たに打ち直したその剣は、今や彼女の信頼そのものであった。


「……煤けた娘……情け無い。煤けていたのは、あの方の輝きを見抜けなかった、私の目の方だったというのに」


 アンリは膝をつき、手紙を胸元に収めると、溢れ出る涙を白い手袋でそっと拭った。

 彼は最後まで、マリエールが愛した「騎士としての美学」を貫こうと、乱れがちな呼吸を必死に整える。


「アンリ・フルール、謹んで拝命いたしました。マリエール様……貴女様が私に遺してくださったこの場所を、生涯かけて守り抜いてご覧に入れましょう」


 彼は立ち上がり、マリエールの亡骸へと、宮廷で最も洗練された流れるような一礼を捧げた。

 その姿は、悲しみに打ちひしがれているはずなのに、どこか神々しいまでの決意に満ちていた。


「陛下……いいえ、エミリ様。ご安心を。……これからの王宮は、かつてないほど美しく、気高き場所となるでしょう。私が、あの方に恥じぬよう、すべてを整えてみせます。さあ、顔を上げてください。貴女の美しさは、あの方が最も守りたかったこの国そのものなのですから」


【私の守護神マキシム・テールへの手紙】


 私の誇り高き鉄壁、マキシム。


 この手紙が貴方の元に届くとき、西方の国境は静かでしょうか。

 貴方はいつも口数は少なかったけれど、その背中はどんな言葉よりも雄弁に「安心」を教えてくれました。


 マキシム。

 あの日、私が「王を殺す」と言ったときのこと、覚えていますか?

 絶望と恐怖で震えていた私に、貴方は迷いなく言ってくれましたね。

 「大逆はあの王だ」と。

 あの言葉が、どれほど私の凍りついた心を救ってくれたか。

 貴方が私の決断を正義だと信じてくれたから、私は最後まで自分を失わずに戦い抜くことができたのです。


 貴方にお願いした西方は、この国の安全を左右する最も過酷な場所。

 「決戦の時は最前線に出てもらう」とお願いした通り、貴方の盾はこの国の最後の砦でした。

 貴方のその岩のような意志と、仲間を守り抜く強さがあったから、私は安心して前だけを見ることができました。


 マキシム、最後のお願いです。

 これからは、その揺るぎない盾でエミリと子供たちの「安らぎ」を守り抜いてください。

 貴方がそこに立っていてくれるだけで、彼らはどんな嵐の中でも胸を張って生きていけます。


 マキシム。

 私の盾の騎士。

 本当にありがとう。貴方の静かな強さを、私は心から尊敬していました。


  ――あなたの盾が守り通したマリエールより


 手紙を読み終えたマキシムは、岩のようにどっしりと構えていた巨体を、わずかに震わせた。

 彼は言葉を飾ることをしない。

 ただ、分厚い手袋を脱ぎ、マリエールが「尊敬していた」と書いてくれたその文字を、指先で静かになぞった。


「……マリエール。礼を言うのは、俺の方だ」


 マキシムの声は低く、地響きのように重く響いた。

 かつてはただ命じられるままに戦う道具に過ぎなかった自分に、「西方の盾」という誇り高い役目を与え、一人の人間として信じてくれた少女。 

 聖女と出会う前の自分は、何と愚かであったのか。

 彼女が遺した最期の言葉が、マキシムの胸の奥にある熱い鉄を叩き、さらに硬い決意へと変えていく。


「安心しろ。……俺の盾は、次は貴女の家族を守り抜く」


 マキシムはマリエールの亡骸に向け、巨大な盾を床に突き立て、深々と頭を下げた。

 その姿は、何者も通さない鉄壁の門のようであった。


「エミリ陛下。西方はこのマキシムが、蟻の這い出る隙もなく守り抜きます。あの方が信じてくれたこの『盾』、今度は貴女とこの国の未来のために、永遠に捧げましょう」


【私を見続けてくれたシルヴァン・ボワ将軍への手紙】


 私の、愛すべき狙撃手シルヴァン。


 この手紙を読んでいる貴方は、きっとどこかの木の上や、影の中から、少し困ったような顔をして私を見つめているのでしょうね。


 シルヴァン。

 あの日、王に反旗を翻すため王都へ向かう行軍の中で、私が「一緒に歩いてくれる?」と聞いたとき、貴方は迷いなく「あなただからこそ着いていく」と言ってくれました。

 あの短くも力強い言葉が、孤独な戦いに身を投じようとしていた私にとって、どれほど温かい救いになったことか。

 聖女としてではなく、ただのマリエールという一人の少女を見て、信じてくれた貴方の優しさを私は生涯忘れません。


 貴方に任せた中央の守護は、どこで何が起きても即座に駆けつけなければならない、最も過酷で自由な役目です。

 「最高の狙撃手の貴方が中央にいてくれるなら、どこで騒乱が起きても大丈夫」……そうお父様に話した時、私の心には一点の不安もありませんでした。

 貴方の風のような軽やかさと、深い森のような静かな忠誠を、私は誰よりも頼りにしていました。


 シルヴァン、最後のお願いです。

 これからは、その鋭い目と耳でエミリと子供たちの周りに潜む小さな「悲しみ」や「危難」を、誰よりも早く見つけて摘み取ってあげてください。

 エミリのそばに貴方という「影」がいれば、彼女は安心して太陽の下を歩いていけます。


 シルヴァン。

 私の歩幅に合わせて一緒に歩いてくれて、本当にありがとう。

 貴方がいてくれたから、私は暗殺に遭わずに生きてこられたのです。


  ――何度も暗殺者から貴方に命を救われた、マリエールより


 手紙を読み終えたシルヴァンは、いつも表情を隠している前髪をかき上げ、紅潮した瞳を露わにした。

 彼は声を立てて泣くことはしない。

 ただ、手紙を大切に折り畳み、胸の奥、心臓に最も近い場所にしまった。


「……ずるいな、マリエール様。そんな風に言われたら、俺はもう、一生貴女の影から出られなくなるじゃないか」


 シルヴァンの声は、まるで木々のざわめきのように静かで、切ない響きを帯びていた。

 彼はマリエールの亡骸の前で一度だけ、音もなく膝をついた。

 石畳には涙の染みが一つ、二つ……増えている。

 それは騎士の礼というよりも、親愛なる友、あるいは魂の片割れを見送るような、深い情愛の籠もった仕草であった。


「……分かってるよ。あんたが愛したエミリ様も、この国も、俺が全部見守ってやるよ。俺の役目は、あんたの遺志を消さないことだ」


 エミリの背後には常に、彼女を守る「最強の狙撃手」が存在し続ける。

 

 マリエールの手紙の残りは、ピエールがそっと箱に仕舞い込んだ。

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