第75話 手紙ニ
聖都を揺らした慟哭は、やがて静かな、けれど熱い決意を帯びた沈黙へと変わっていく。
ピエールが震える手で配り続けた手紙は、残された将軍たちの手に渡り、彼らの中に眠る「マリエールとの記憶」を呼び覚ましていった。
【エティエンヌ将軍への手紙】
私の、頼もしい軍師エティエンヌ。
貴方にこの手紙を遺すのは、少し気後れしてしまいます。
だって、貴方の鋭い洞察力をもってすれば、私が何を書き何を願っているかなど、手紙を読む前からお見通しでしょうから。
エティエンヌ。
あの日、フォレ・ド・オンブル(影の森)での戦いを覚えていますか?
貴方の背後に迫る刃を、私が遮ったときのこと。
貴方は「自分の失態だ」と自分を責めていたけれど、それは違います。
貴方が前方の敵を完璧に抑えてくれていたからこそ、私は自分の役目を見つけることができたのです。
貴方の知略が、全軍の命を救ってくれた。
私は、たった一つの綻びを直しただけに過ぎないのよ。
あの日、貴方の背中を守れたことは、私の短い人生の中で何よりの誇りでした。
策士である貴方は、時に冷徹な判断を下さなければならないこともあるでしょう。
けれど、貴方のその計算の裏側には、いつも「犠牲を最小限にしたい」という、誰よりも優しい真心があることを私は知っています。
だからこそ、私は貴方にすべてを委ねることができました。
エティエンヌ。
貴方のその明晰な頭脳を、これからはエミリのために貸してあげてください。
彼女は私ほど強くはありませんが、私以上に人の心に寄り添える子です。どうか、彼女の「頭脳」となり、支えてください。
貴方の隣で、戦盤について語り合った時間は、知的な喜びに満ちた、私にとっての大切な休息でした。
私の背中を守ってくれて、ありがとう。貴方が無事でいてくれて、本当に、本当によかった。
――あなたの戦術の弟子、マリエールより
手紙を読み終えたエティエンヌは、いつもの優雅な微笑みを消し、ただ静かに天を仰いだ。
あの日、自分が死角を作ったせいで彼女に無理をさせ、血を吐かせてしまった。
その消えない負い目を、マリエールは「誇りだった」という言葉で優しく包み込み、彼を呪縛から解き放ったのである。
「……どこまでも、私の上をいかれるお方だ」
エティエンヌは愛用の扇子を強く握りしめた。
端が指に食い込むのも構わず、声もなく肩を震わせる。
感情を剥き出しにして吠えるガストンとは対照的に、彼の悲しみは深く、静かに、鋭利な決意へと変質していった。
「マリエール様……いいえ、陛下。ご安心を」
彼は亡骸の前で優雅に、けれど重く、臣下としての最敬礼を捧げた。
その瞳には、かつてないほど冷徹で、かつ慈愛に満ちた知略の光が宿っている。
「マリエール様が遺されたこの平和を乱す不確定要素は、すべて私が、その根から絶ってみせましょう。陛下が望まれた『侵されない平和』を、私が一生をかけて完成させます」
エティエンヌはエミリに向き直り、静かに微笑んだ。
それは、かつてマリエールが全幅の信頼を置いた、稀代の策士の顔であった。
「エミリ様。貴女が心から笑える日のために、私はこの頭脳のすべてを捧げます。……それが、私を救ってくださったあの方への、唯一の報恩ですから」
【ロランへの手紙】
私の誠実なるロランへ。
この手紙が貴方の元に届くとき、南方の空は晴れているでしょうか。
ロラン。
私はお父様に、「南方の守護はロランに任せたいの」とはっきり告げました。
貴方は自分のことを「地味な男だ」なんて思っているかもしれませんね。
でも、私は知っています。
貴方は地道な努力で大いなる成功を成す将軍。
南方はこの国の豊かさを支える、この国でもとても大切な場所。
そこを任せられるのは、派手な武功を誇る者ではなく、民の暮らしを慈しみ、当たり前の平和を誠実に守り抜くことができる貴方しかいないと、私とエミリは確信していたのです。
貴方が南方にいてくれる。
その安心感があったからこそ、私は一度も後ろを振り返ることなく、北の戦場へ向かうことができました。
貴方のその揺るぎない誠実さは、私にとって何よりの信頼でした。
ロラン、最後のお願いです。
これからは、私の遺したエミリと子供たちを、その高潔な精神で守ってあげてください。
お父様と共に、この国の土台を支え続けて。
貴方が守ってくれた南方の風は、いつも私に安らぎをくれました。出会ってくれて、本当にありがとう。
――あなたに堅実に守られ続けたマリエールより
手紙を読み終えたロランは、その場に音もなく膝をついた。
ガストンのように声を荒らげることも、エティエンヌのように天を仰ぐこともない。
ただ震える手で手紙を押し頂き、床に滴るほどの涙を流し続けた。
「……マリエール様。……不束者の私を、これほどまで……」
マリエールが先王に「ロランの努力こそが信頼できる」と伝えていたという事実。
それは、自分を「地味で真面目なだけが取り柄」だと思い込んでいた将軍の魂を、激しく揺さぶった。
「陛下……聞こえますか。このロラン、命に代えても、貴女様が愛した南方の陽光を、そしてエミリ様と若君たちを、一寸の曇りもなく守り抜いてご覧に入れます」
ロランは立ち上がると自らの剣を抜き、重厚な刃を天に向けて捧げた。
華やかさはない。
けれど、一度決めたことは決して曲げない。
彼女が「高潔」と呼んだその誠実さが、エミリを守るための、最も堅固な「南の壁」となった瞬間であった。
【海の勇者ジャン・ド・ラ・メールへの手紙】
私の、勇敢なる海の提督、ジャン。
この手紙を読んでいる貴方は、きっと自慢の艦隊の上で、潮風に吹かれながら悔しがっているのでしょうね。
「マリエール様、勝手すぎるぜ」なんて、貴方の大きな声が聞こえてくるようです。
ジャン。ノワール半島の戦いでは、素晴らしい働きをありがとう。
貴方の艦隊が水平線を埋め尽くし、逃げ場を求めて海に殺到した敵軍を完璧に抑え込んでくれたからこそ、私たちは勝つ事が出来ました。
「剣を振るう必要なんてない、三時間で貴女様の庭園に変えてみせる」と言ってくれたあの不敵な笑い。
恐怖に震えていた私の心を、どれほど貴方の力強さが救ってくれたか、貴方は知らないでしょう。
貴方は太陽のような人です。
貴方が笑えば荒れ狂う海さえ静まり、沈んでいた騎士たちの士気も一気に跳ね上がる。
その明るさと、海のように広い心こそが、わがアルシエル軍の誇りでした。
ジャン、最後のお願いです。
これからは、その自慢の艦隊で、エミリと子供たちの未来の航路を守ってあげてください。
この国が世界へと繋がる広い海を、貴方の手で、自由で平和な場所にし続けてほしいのです。
貴方の艦隊の勇姿を、私はいつまでも忘れません。
私のために、美しい海を、美しいままに守ってくれてありがとう。
――あなたの海に守られていたマリエールより
手紙を読み終えたジャンは、トレードマークの豪奢なマントを激しく翻し、誰の目も憚らず大声で泣き始めた。
「……バカ野郎が!! マリエール様、あんた、最後まで……最高に格好良すぎるじゃねえか……っ!!」
拳で自分の胸を何度も叩くその姿は、痛々しいほどの魂の慟哭であった。
あの日、街を庭園に変えると約束した。
指一本動かさせないと言った。
それなのに、結局彼女は自分たちの死角を補うために命を削り、誰よりも先に逝ってしまった。
その悔しさと、彼女からの「ありがとう」という言葉が、海の男の心に深く突き刺さる。
数日後。
大海原に、一斉に礼砲の音が轟いた。
部下には明かせぬ、聖女マリエールの死。
ただ独り、潮風の中で海の彼方を見つめるジャンの頬には、涙が流れ続けていた。
それは、最愛の主君を見送る弔砲であり、同時に、新しい時代を拓く海の男の決意の雄叫びであった。




