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第74話 手紙一

 聖都を包む冬の静寂は、マリエールの寝室に満ちる重苦しい沈黙をより一層際立たせていた。

 部屋を埋め尽くす八人の将軍、聖女騎士団、そして闇に潜む『灰色の狼』カイル。

 数多の死線を越えてきた強者たちが慟哭の渦に沈む中、エミリだけは、マリエールの枕元に遺された自分宛ての手紙を、壊れ物を扱うような手つきで握りしめていた。


【エミリへの手紙】


 私の大好きで、大切なエミリへ。


 この手紙をあなたが読んでいるということは、私はもう、あなたの隣で笑うことはできないのでしょうね。

 驚かせてしまって、そして、悲しませてしまってごめんなさい。


 あなたをあの日、ヴァンスの街から連れてきてしまったこと。

 私の代わりに、あんなに重い天使の鎧を纏わせ、戦場やバルコニーに立たせてしまったこと。 

 あなたの人生を、私の「影」として変えてしまったことを、ずっと謝りたいと思っていました。


 けれどね、エミリ。

 私の十九年の人生の中で、あなたと過ごした日々が、一番「普通」で、一番「幸せ」な時間でした。

 そっくりな顔のあなたと、美味しいものを分け合い、夜遅くまでくだらないことで笑い転げたあの部屋でのひととき。


 あなたは親友なんて言葉では足りない、私の魂の半分でした。

 あなたがいてくれたから、私はただの「マリエール」として息をすることができたのです。


 エミリ、お願いがあります。

 どうか、あの方たちのことを、私の代わりにお願いします。

 レオンハルトを、そして私たちの愛した子供たちを。

 子供たちが泣いていたら、どうか私の代わりに抱きしめてあげて。

 そして、彼らには決して「聖女の呪縛」を継がせないでください。

 剣も、重い使命も、奇跡も。そんなものは私たちの一代で終わりにするわ。

 あの子たちには、ただ笑って、お腹いっぱい食べて、好きな人を愛して、平凡で温かい人生を歩んでほしいのです。


 これからは、あなたこそが私。

 でも、自分を「影」だなんて思わないで。あなたが笑っていることが、私の生きた証です。

 私が見られなかったこれからの春を、夏を、秋を、冬を。どうか私の分まで、大好きな人たちと一緒に見届けて。


 出会ってくれてありがとう。

 私の人生を、宝石のような毎日に変えてくれてありがとう。

 今までの全てに、心からのありがとうを贈ります。


 愛しています、エミリ。

 私の、もう一人の私へ。


             ――マリエールより


 読み終えたとき、エミリの指先は激しく震え、紙面には大粒の涙が点々と滲んでいた。

(……何よ、これ。……勝手すぎるわ、マリエール)

 お詫びなんて欲しかったわけじゃない。泥の中から自分を引き上げ、ただ一人の「魂の半分」として抱きしめてくれた彼女への怒りなど、一瞬たりとも抱いたことなどなかった。


 エミリは、横たわるマリエールの冷たい頬に自分の額を寄せ、誰にも聞こえないほど小さな、けれど激しい声で叫んだ。

「お詫びなんていらない……! 私は、マリエールの影でいられることが……あなたの隣で笑えることが、何よりも幸せだったのに……っ!」


 ふと視線を上げれば、鏡に赤く目を腫らし崩れ落ちた自分の姿が映る。

 その顔は、マリエールと生き写しであった。

『聖女の呪縛は子供に継がせないで。……夫と子供たちをお願い』

 手紙に刻まれたその遺志が、折れそうなエミリの心を無理やり立ち上がらせようとする。


「……マリエール、あなた……ずっと、これを書いていたのね」


 エミリの呟きが、涙に濡れた室内の空気をしんと冷やした。

「三ヶ月前から……あの冬の嵐が来た頃から、あなたの寒気はもう、毛布を何枚重ねても止まらなかった。……吐血だって、隠したって私には分かっていたのよ。私の前で、何度血を吐いたと思っているの……?」


 その言葉に、レオンハルトが、そしてアルベールが、弾かれたように顔を上げた。


「私、何度も止めたわ。いいから横になって休んでって……。でもあなたは、少しでも体が動くようになると、すぐに起き上がって机に向かった。『今日は調子が最高なのよ、エミリ。見て、こんなにペンが走るわ』なんて……子供みたいな嘘をついて」


 エミリは手紙を胸に抱きしめ、その場に膝から崩れ落ちた。

「……違ったのね。あなたは、自分の命がもうすぐ尽きることを、誰より分かっていた。だから、国のためじゃなく……私たちのために、この手紙を残すことに、最後の命を削り続けていたのね……っ!」


 政策や法ではない。残される者たちへの「愛」を書き記すこと。

 それが、死を目前にしたマリエールが選んだ、女王としての、そして一人の女性としての、最後にして最大の「公務」であったのだ。


【レオンハルトへの手紙】


 愛するあなたへ


 私の愛するレオンハルト。

 一番近くで私を支えてくれた貴方だもの、きっとこうなることを分かっていましたね。

 今、この手紙を読んでいる貴方の隣には、きっとエミリもいてくれていることでしょう。


 レオンハルト。

 貴方と過ごした時間は、私の人生で最高の奇跡でした。

 私は、あなたと初めて会った時からお慕いしていたの。

 気が付かなかったのでしょうね。


 戦場で背中を預け合い、エミリと三人で夜更けまで語り合ったあの時間。

 貴方が私を、そして私と同じようにエミリを大切に想い守ってくれたからこそ、私は本当の意味で自分の居場所を見つけることができました。

 貴方の大きな手が私を抱きしめてくれるたび、私は自分がただの聖女ではなく、一人の愛される女性なのだと実感することができたのです。


 先に行ってしまう私を、どうか許して。

 これからはエミリを、そして私たちの愛した子供たちを、私だと思って抱きしめてください。

 貴方たちが手を取り合って笑っていれば、私の魂もまたその温もりの中に居続けます。


 マリエール・ド・アルシエルは、貴方の妻になれて、この上なく幸せでした。

 出会ってくれて、私を見つけてくれて、本当にありがとう。


 愛しています、レオンハルト。ずっと、ずっと。


        ――貴方の妻、マリエールより


 レオンハルトは溢れ出す涙を拭おうともせず、ただマリエールの傍らで立ち尽くしていた。

「……マリエール。君は最後まで、俺たちのことばかりだ……」

 彼は震える手で、マリエールの手と、そして隣で泣きじゃくるエミリの手を同時に握りしめ、そのまま崩れ落ちた。


 三人で駆け抜けた戦場。三人で笑い合った食卓。

 マリエールが守りたかったのは、国や民といった大きなものだけではない。

 この「三人」で育んできた、小さな、けれど確かな愛そのものだったのだ。


「安心しろ……。君が愛したエミリも、子供たちも、国も、俺がこの命に代えても守り抜く。……君が俺にくれた光を……」

 もはや言葉が紡げ無い。

 レオンハルトは気力を振り絞って体を起こすと、マリエールの唇にそっと、最後の口づけを落とした。

 それは、最愛の妻への別れの儀式であり、同時に、彼女の愛した世界を愛し抜くという生涯をかけた誓いであった。


【ピエールへの手紙】


 私の、世界で一番大好きなピエール。


 この手紙を読んでいる貴方は、きっと「お嬢様、またわがままを仰って」と泣きながら困っているのでしょうね。

 これまで一度も言えなかったけれど、私は貴方の淹れてくれるお茶と、貴方が作る温かいお料理が何よりも大好きでした。


 私がまだ小さくて、森で泥だらけになって帰ってくるたび、貴方は小言を言いながらも、すぐに温かいお湯を用意して私を綺麗にしてくれました。

 どんなに立派な城に住んでも、私にとっての「家」は、ピエール、貴方がいてくれる場所だけでした。


 聖女としての重圧に押し潰されそうだったときも、貴方はいつも一歩後ろにいて、変わらぬ笑顔で「お帰りなさいませ」と迎えてくれた。

 貴方のその優しい声があったから、私は「女王」でも「聖女」でもない、ただの「マリエール」に戻ることができたのです。


 ピエール、最期までわがままを言ってごめんなさい。

 どうか、私のためにあまり泣かないで。これからは私の代わりにエミリの、そして私の子供たちのそばにいてあげて。


 貴方の隣にいられて、私は本当に幸せでした。

 私の人生を、たくさんの優しさで満たしてくれて、本当に、本当にありがとう。


        ――貴方の、自慢のお嬢様より


 広間の片隅で、ピエールは手紙を両手で大切に抱きしめ、子供のように声を上げて泣き崩れた。

 かつて自分が洗ってやったあの小さな手が、今はもう動くことも、温もりを返すこともない。

「……ああ、お嬢様……。自慢のお嬢様……」


 ピエールは涙で濡れた顔を拭い、ふらつく足取りで歩み寄ると、マリエールの乱れた髪を一本一本、慈しむように整え始めた。

「最後くらい……もっと、たくさん、わがままを仰ってくださればよかったのに。お茶が熱すぎるとか、このお菓子は飽きたとか……」

 ピエールは彼女の冷たい手を取り、自分の頬に当てた。


「安心してください、お嬢様……。エミリ様も、若君たちも……このピエールが、命ある限り、温かいお食事とお茶を用意してお待ちいたします。それが、お嬢様の召使いとしての、最後の御奉仕でございますから……」

 ピエールは深々と一礼した。

 その礼法はどの執事よりも美しく、一人の少女を家族として愛し抜いた男の、気高い忠誠の証であった。


【アルベールへの手紙】


 私の自慢のお父様。


 この手紙を貴方に届けるとき、私はもう貴方の隣で、次の戦いの布陣を語り合うことはできないのでしょうね。

 親より先に逝ってしまう親不孝な娘を、どうか許してください。


 あの日、戴冠式を前にエミリと二人で貴方の部屋を訪ねたときのこと、覚えていますか?

 「本当のお父様になってください」とお願いしたとき、貴方が自分の孤独さえ忘れて、子供のように喜んでくれたこと、私は一生忘れません。


 聖女という重荷に震えていた私にとって、貴方の大きな胸に飛び込んだあの瞬間こそが、私の「本当の人生」の始まりでした。貴方は約束通り、私たちの盾となり、家となり、温かな父となってくれました。


 「真の聖女にふさわしいものを」と、貴方が贈ってくださったあの白銀の鎧。袖を通すたびに、まるでお父様に抱きしめられているような温かさを感じ、どんなに恐ろしい戦場でも私は決して独りではないと強く思えたのです。


 お父様。私は、貴方の娘になれて本当に幸せでした。

 どうか、不甲斐ないなんて思わないでください。貴方の手が、貴方の声が、私の人生で一番の「幸せ」でした。


 お父様、大好きよ。


        ――貴方の娘、マリエールより


 手紙を読み終えたアルベールの手は、枯れ葉のように激しく震え、腰から崩れ落ちそうになるのをガストンが必死に支えた。

 息子を処刑した孤独な老王を「お父様」に変えてくれたのは、血の繋がらないこの少女であったのだ。

「……マリエール、ああ……私の、愛しい娘よ……」


 彼は這いずるようにしてマリエールの亡骸に近づき、その白い手を自分の皺だらけの頬に強く押し当てた。

「安心しろ、マリエール……。お前が遺した『国』は我が命に代えても守り抜く。ガストンも、シグルドも、騎士たちは皆、お前の言葉を胸に立ち上がっているぞ」


 アルベールは震える手でマリエールの髪を撫で、傍らで跪く者たちを見据えた。

「エミリ、そしてレオンハルトよ。今日より、この老骨の残りの時間はすべて、マリエールが愛したお前たちのために、そしてあの子が遺した孫たちのために捧げよう。あの子が『幸せ』だと言ってくれたこの手を、私は二度と離しはせん」


【ガストン将軍への手紙】


 私の、永遠の守り神であるガストン将軍。


 これを貴方が読んでいるということは、私はもう貴方の新調した鎧を「地味すぎるわ、ここにリボンを付けるといいのよ」と言って笑ってあげることはできないのでしょうね。


 貴方との最初の出会いを覚えていますか? あの謁見の間で、私は貴方の自慢の斧槍ハルバードを粉々に壊してしまいました。

 あの時、呆然と柄だけを握りしめていた貴方の顔は、今思い出しても少しだけ滑稽で……そして、とても懐かしいです。


 貴方は誰よりも早く、誰よりも真っ直ぐな忠誠を誓ってくれました。

 ガストン。貴方は私の前で勇ましく笑ってくれたけれど、私にとっては、貴方がただそこに立っていてくれるだけで十分でした。

 貴方の分厚い胸板と、その奥にある熱すぎるほどの真心こそが、孤独だった私の本当の「盾」だったのです。


 私は一足先に、剣を置いて休ませていただきます。

 私の代わりに、どうか私の愛したこの国を、そして私の家族を、その強靭な腕で抱きしめてあげてください。


 出会ってくれてありがとう。わがままな私の盾でいてくれて、本当にありがとう。


    ――あなたが守り抜いたマリエールより


 読み進めるうちに、ガストンの巨大な体躯が、嵐に打たれる大樹のように激しく揺れ始めた。

「……っ、ふ、ふふ……。あの日、か……」

 彼は鼻を真っ赤に鳴らし、顔をくしゃくしゃに歪めて笑った。涙が滝のように溢れ、鋼鉄の鎧に音を立てて落ちていく。


「滑稽だった、だと……? 当たり前だ、あんな神速の剣を見せられて、腰を抜かさぬ騎士がどこにいる……っ」

 ガストンは嗚咽を漏らしながらも、床に額を擦りつけるようにして最敬礼を捧げた。

 そして、マリエールの指輪を嵌め、必死に耐えているエミリへと向き直った。


「……マリエール様。お聞きください。貴女の盾は、まだ折れてはおりませんぞ!」

 ガストンは雷鳴のような、けれど慈愛に満ちた声で吠えた。

 彼は立ち上がると、新調した斧槍の石突きを、ドォン! と重く床に打ち付けた。


「エミリ様……いいえ、マリエール陛下! 泣くのは今日だけにしましょう。明日からは、このガストンが、貴女の前に立ち塞がるすべての不浄を、この斧槍で塵一つ残さず薙ぎ払ってご覧に入れます!」


【カイルへの手紙】


 私の、大切なカイル。


 この手紙を貴方が手にしているということは、私の「目」であり「耳」である貴方のことですから、きっとすべてを察して、人知れず顔を伏せているのでしょうね。


 あの路地裏での出会いを覚えていますか? ナイフを私に突きつけ、飢えた獣のような目で私を睨みつけていた貴方。

 あの時、貴方の奥底に眠る「真心」に触れたからこそ、私は貴方に賭けてみたくなったのです。


 貴方は期待に応えてくれました。

 私が「光」の中で笑っていられるように、貴方は自ら「泥」を啜り、闇の中を這いずり回って、私の行く道を掃き清めてくれた。

 カイル、貴方がいてくれたから、私は一度も後ろを振り返ることなく歩き続けることができたのです。


 貴方は泥棒なんかじゃない。私の命を、そしてこの国の未来を繋ぎ止めた、誰よりも高潔な英雄です。


 お願い。

 私がいなくなった後も、その鋭い目と耳を、今度はエミリと子供たちのために貸してあげてください。

 貴方たち「狼」が影に潜んでいてくれるだけで、彼らは安心して夜を眠ることができます。


 私に、闇の中の安らぎを教えてくれてありがとう。


   ――あなたの光の分身、マリエールより


 離宮の影、誰の目にも触れない場所で、カイルは漆黒の胸当てを鳴らして震えていた。

「……英雄だなんて、柄じゃねえよ……マリエール様……」

 自分たちのような存在を人間として扱い、名前をくれた唯一の女性。


「……あんたが俺を英雄って呼ぶなら、俺はあんたの遺したもんを、地の果てまで守り抜いてやる」

 カイルは濡れた目を拭うと、音もなく立ち上がった。

 背後には「灰色の狼」たちが、殺気すら消して控えている。


「……野郎ども。これからはエミリ様と子供たちが俺たちの『命』だ。この国の闇は、すべて俺たちが飲み込む」

 カイルは広間へ向けて、一度だけ深い最敬礼を捧げた。

「おやすみなさい、マリエール様。……あんたの影は、いつまでもあんたの家族に寄り添ってるぜ」

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