第71話 落日の帝国
わずか八時間の戦闘。
それは、数世紀にわたる大陸の勢力図を、残酷なまでの手際で塗り替える決定的な終止符となった。
戦塵が収まり、静寂が戻ったとき、集計された数字はもはや「戦争」と呼べる範疇を超えていた。
敵軍の死者九万、負傷者二十一万。
そして、生き残ったほぼ全軍が捕虜となった。
対するアルシエル軍の死者は、わずか五十九名。
負傷者は一万一千。
マリエールが描き、エミリが研ぎ澄ませ、八将軍が寸分の狂いなく実行した「8の字」の罠。
それはハルガルド帝国の軍事力のみならず、国力そのものを根底から粉砕したのである。
「……信じられん。旧領のすべてを、これほどの手際で奪還するとは」
第一将軍シグルドは、かつて敵に蹂躙された山河を、今は自軍の旗が埋め尽くす光景を見下ろしていた。
その声は、勝利の昂揚よりも、むしろ畏怖に震えている。
「これはもはや勝利ではない。……神による裁きだ。我らが陛下は、運命そのものを手懐けてしまわれたのか」
海を越えて派遣された帝国軍の壊滅は、今後二十年、いや五十年にわたる継戦能力の完全な消失を意味していた。
全軍の八割超を失った帝国に、もはや「遠征」という二文字を紡ぐ力は残されていない。
三日後。
海を越えた帝国の首都では、文字通りの地獄が具現化していた。
無謀な戦費を賄うための過酷な増税は、制御不能なハイパーインフレを招いた。
パン一つを買うために、大人が抱えるほどの金貨の袋が必要な惨状。
政治への信用は地に落ち、かつての栄華は見る影もない。
白昼堂々、王都の目抜き通りを武装した盗賊が闊歩し、略奪の悲鳴が絶え間なく響く。
「……王は昨夜、側近により毒殺。今朝、王位を継いだ弟君も、昼過ぎには路地裏で刺されました。秩序を守るはずの軍や騎士団は、食い詰めた盗賊へと変じています」
聖都への凱旋路、マリエールの隣に馬を寄せたカイル・サヴァランが、感情を排した声で報告を上げた。
彼ら『灰色の狼』は、崩れゆく帝国の断末魔を最前列で観察し続けていたのだ。
「もはや国ではありません。あれは、ただの燃えカスです。陛下、あと一揉みで陥落させる事も容易いと思われます」
マリエールは揺れる馬上で、広げた地図から静かに目を離した。
その吐息は、冷たく乾いた風に溶けていく。
「……そうですか。あんなに私を追い詰め、すべてを奪おうとした巨大な影が、こんなにもあっけなく自滅するのですね……」
マリエールは、自嘲気味に微笑んだ。だが、その瞳には統治者としての冷徹な光が宿る。
「カイル。帝国へ、正式に『多額の賠償金』を請求しなさい。支払いに応じぬ、あるいは支払いが滞るようであれば、即座に軍事侵攻を辞さないと通告を。……実際には、そんな余裕も必要もないけれど、帝国が再び牙を剥くための資金を、向こう数十年にわたって吸い上げ続ける足枷が必要なの」
「承知いたしました。……『慈悲深き聖女』様からの『慈悲』……確かに受け取りました。根こそぎ奪われ、攻め滅ぼされないだけ、奴らも果報者というものです」
カイルは楽しげに目を細め、再び闇へと消えていった。
聖都アルシエルは、幾夜ものあいだ、歓喜の輝きの中にあった。
街の至る所に飾られた白銀の旗が春の風に舞い、窓から漏れる灯火は星の海のように地上を埋め尽くしている。
広場では楽団が奏でる喜びに満ちた調べが止まず、人々は手を取り合い、新しい女王の名を歌い、踊り明かした。
戦勝の旗が街中にはためき、民衆の歌は止まらない。
それは長く凍てついた冬が終わり、この国にようやく訪れた、本物の春の音だった。
しかし、王宮の最奥、王家の食卓には、表舞台の喧騒とは無縁の、家族だけの穏やかな時間が流れていた。
ここに控えることを許された執事長ピエールやメイドたちは、主君たちのあまりに人間らしい姿を前に、誇りと感動で溢れそうになる涙を必死に堪えていた。
「さあ、食べたか? マリエール、エミリ! 今日は戦の話は抜きだ。この鳥料理、お前たちの好物だと聞いて私がシェフに直接命じて作らせたのだぞ。ほら、冷めないうちに!」
先王アルベールは、窮屈な鎧を脱ぎ捨てた二人の娘に、次々と料理を取り分けていた。
かつての威厳ある覇王の姿はなく、そこにあるのは、ただの甘い父親の顔だ。
「お父様、少し食べさせすぎですわ。私、このままだとドレスの新調が必要になってしまいそう」
エミリがクスクスと笑いながら、マリエールの皿に乗せられた山盛りの料理を見て揶揄する。
隣に座るレオンハルトは、そっとマリエールの手を取り、慈しむような眼差しで彼女を見つめた。
「……マリエール。ようやく、本当に終わったんだな。君はもう、自分の命を削ってまで『ウリエルの剣』を抜く必要はないんだ。これからは、俺たちが君の剣になり、盾になる」
マリエールは、重い鎧から解放された軽やかな体で、レオンハルトの広い肩にそっと頭を預けた。
「ええ。……ありがとう、レオンハルト。あなたたちがいてくれたから、私はここにいられる」
(……ああ。私の頭の中にしかなかった、あの孤独で無惨な『前世の記憶』は、今日、本当の意味で塗り替えられた。新しい、温かな歴史へと……)
マリエールは窓の外、宝石のように瞬く聖都の明かりを見つめ、静かに、一筋の涙を零した。
それは、誰も知ることのない前世の絶望に、ようやく本当の終止符を打てた安堵の雫。
食卓にいる者たちは、その涙の理由を問いはしなかった。
ただ、このあまりに完璧な勝利を掴むために、この少女がどれほどの魂を削り、どれほどの茨の道をたった独りで歩んできたのか。
その凄まじい自己犠牲の果てにある、尊い涙なのだと、それぞれが胸に深く刻んでいた。
アルベールは、震える娘の肩を、節くれ立った分厚い手でそっと包み込んだ。
(……すまなかった、マリエール。儂が不甲斐ないばかりに、お前はどれほどのものを独りで背負い続けてきたのだ。もう、何も案ずることはない。これからは儂が、命に代えてもお前の穏やかな日常を守り抜いてやろう)
老いた王は、娘が成し遂げた偉業の裏にある重圧を想い、共に落涙しながらも、その瞳にはかつてない力強い父性が宿っていた。
レオンハルトは、彼女の柔らかな手を両手で包み、その熱を確かめるように握りしめる。
(君はいつだって、自分を二の次にして戦っていた。……でも、もういいんだ。これからは、俺が一生をかけて君を甘やかしてやる。ずっと、俺の隣で笑っていてくれればいい)
夫として、最愛の女性の孤独な戦いが終わったことを祝福し、レオンハルトの瞳からも幸せな涙が溢れ出した。
エミリは、マリエールの隣でその手をそっと握りしめ、溢れる涙を拭いもせずにただ微笑んでいた。
(マリエール。……やっと、心が自由になれたのね。私たちはこれからも、ずっと一緒よ。楽しいことも、美味しいものも、全部、二人で分け合いましょうね)
誰よりも近くで彼女の「震え」を見てきたエミリ。
彼女はマリエールの魂が呪縛から解き放たれたことを確信し、明日からの賑やかな毎日を想いながら、もらい泣きするように頬を濡らした。
四人は誰も何も言わず、ただ同じ部屋で、静かに共に泣いた。
それは悲しみの涙ではなく、ようやく手に入れた「当たり前の幸せ」を噛みしめる、温かな儀式のような時間。
その光景は、控えていた執事長ピエールとメイドたちの涙の堤防を、跡形もなく決壊させるのに十分なものだった。
やがて、マリエールは小さく鼻をすすり、ハンカチで目元を拭うと、清々しい笑顔で家族を振り返った。
「お父様、レオンハルト、エミリ。……明日からは、剣ではなく、国民の幸せを作ります。今度は力による支配ではなく、豊かさで心と国を結ぶのよ。それが、私を支えてくれた皆への、本当の恩返しだと思うから」
それは一人の少女が、「前世で火刑にかけられた聖女」という忌まわしい呪縛を完全に脱ぎ捨て、愛する家族と共に「女王」として、そして「一人の人間」として歩み出す、輝かしい光の中にあった。




