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第70話 私の出番はありませんの?

 ヴェルグラン山脈の峻険な山々が、まるで巨大な捕食者のあぎとのように、音もなくハルガルド軍を飲み込み始めた。

 本陣の丘に立つマリエールの指先から放たれた幾人もの伝令。

 彼らが戦場を縦横無尽に駆け巡るたび、バラバラに散らばっていた戦況のピースが、一つの残酷で緻密な完成図へと収束していく。


「……計算通りね。いえ、それ以上かしら」


 マリエールは、手元の戦術地図を見つめ、静かに呟いた。


 山岳地帯の最深部。

 「脆弱な聖女軍」という甘い餌を追い、隘路にひしめき合っていたハルガルド軍の耳に、突如として腹を揺さぶるような重厚な角笛の音が鳴り渡った。


「……今だ。転進せよ! 牙を剥け!」


 第一将軍シグルド・フォン・ライゼの、凍てつくような鋭い号令が飛ぶ。

 それまで這々の体で撤退を装っていた彼の精鋭部隊が、一糸乱れぬ動きで急旋回した。

 重厚な盾の列が、追撃してきた敵兵を正面から叩き伏せ、盾の合間から突き出される槍が帝国軍の勢いを完全に打ち崩した。


 同時に、あらかじめ「空白地帯」の斜面に潜伏していた伏兵たちが、雄叫びと共に一斉に出現した。

 彼らは敵軍の中央部――ちょうど補給路がもっとも細くなる隘路の急所に、巨大な楔を打ち込むように分断を開始する。


「なっ、何事だ! 後方が遮断されただと!? 連絡路はどうした!」


 狼狽する敵将の視界で、アルシエル軍が上下二つの巨大な円を描くように展開していく。

 敵を完全に孤立させた「8の字」の包囲陣が、瞬く間に完成した。

 侵攻軍にとって、もっとも恐るべきは「背後を断たれること」だ。

 それは、勝利の喪失ではなく、故郷への帰還という希望そのものの消滅を意味していた。


 退路を失い、身動きの取れなくなった敵軍の頭上から、石弓クロスボウの矢が豪雨となって降り注ぐ。

 逃げ場のない狭道は、たちまち阿鼻叫喚の地獄へと変じ、敵は互いに背中を預けることすらできない絶望的な迷宮に閉じ込められたのである。


 一方、8の字の北端。

 敵にとって唯一の「退路」であり、港へと抜ける最後の希望となる峠道。

 そこでは、聖女騎士団第一隊長リュカ・ベルナールが、返り血を浴びてなお透き通るような白銀の髪と、敵の血で染め上げたマントを戦風にたなびかせ、鬼神の如き強さで敵を圧倒していた。


「ここから先は、陛下の許しなくば一歩も通さぬ。塵一つとな」


 ベルナールの振るう長剣は、銀の残像を引きながら、押し寄せる敵兵を次々となぎ払う。

 死に物狂いで峠を突破しようとする敵の援軍を、彼は岩のように一歩も引かずに撥ね退けた。その剣筋には迷いも、慈悲もない。


「陛下は『無理はしないで』と仰った。だが、ここを押し通ると言うならば……このベルナールが地獄への案内人を務めよう。光栄に思うがいい」


 その白銀の鎧は、浴びた返り血を月光が弾き、かえって禍々しい輝きを放っている。

 敵兵の目には、退路を塞ぐ彼は追い縋る「死の神」そのものに見えた。


 沿岸の北端、波間に揺れる旗艦の甲板。

 第四将軍ジャン・ド・ラ・メールは、水平線を眺めながら、退屈そうに大きな欠伸を一つした。


「おいおい、ベルナールの野郎……獲物を一匹もこっちまで流してこねぇじゃねぇか。あいつ、俺がここに居るってこと忘れちまってるのか?」


 彼の視界にあるのは、逃げ惑う敵の影すらない、皮肉なほど静かな海だけだった。

 本来の任務は、ベルナールが追い立てた「漏れ出た敵」を海上で殲滅すること。

 しかし、張り切りすぎたベルナールが峠で全てを仕留めてしまうため、ジャンの出番は一向に訪れない。


「……まあいいさ。漏れてきたネズミが居れば、一匹残らず海の藻屑にしてやる。このまま無傷で陛下に勝利を献上してやるのも、悪かねぇ」


 海風に乗って聞こえてくるのは、峠道から響く絶え間ない断末魔の声。

 すぐそこまで、命からがら敗走してきたはずの帝国兵たちが、地獄の瀬戸際で絶命していく音だけが鳴り響き、ジャンの視界に入る敵は、ついに一兵も現れなかった。


 作戦の完成を見届けるように、マリエールが丘の上に姿を現した。

 純銀の鎧を纏った彼女の背後では、カイル・サヴァランが放った火が夜空を赤く染め上げている。

 立ち上る黒煙は、ハルガルド軍が今回の遠征に用意した全物資が、跡形もなく灰になったことを告げていた。


「食糧がない……! 退路も、港も……これでは戦う前に飢え死にするぞ!」


 敵陣に、致死量の絶望が伝染していく。

 彼らが縋るような思いで丘の上を見上げると、そこには朝日を浴びて神々しく輝く「銀の天使」が、静かに戦場を見下ろしていた。


「……ふふ、あきれた。私のウリエルの剣の出る幕なんて、どこにも残っていないのね」


 マリエールは隣に控えるガストンに、いたずらっぽく、そして最高に誇らしげな微笑を向けた。 

 前世の彼女が一度も口にできなかった、仲間への全幅の信頼を込めた言葉。


「よくやったわ、皆。……さあ、終わらせましょう」


 ガストンもまた、勝利を確信した不敵な微笑を浮かべて深く頷いた。


「ええ、陛下。あとは彼らが、自分たちの愚かさに気づいて膝を突くのを待つだけです。……仕上げは、このガストンにお任せを!」


 マリエールは、前世で自分を焼き尽くしたあの残酷な炎ではなく、今、敵を包囲し勝利を告げる「祝福の火」を見つめた。


「さあ、ガストン将軍。……仕上げを」


 戦場にはあまりに不釣り合いな、鈴を転がすような柔らかい声。

 しかし、それはどの武将の咆哮よりも重く、死を運び、勝利を確定させる覇者の号令であった。


「全軍――突撃ッ!!!」


 うおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉ!!!


地を割るような雄叫びと共に、ガストンの率いる重装騎兵隊が雪崩れ込んだ。

 すべてを薙ぎ倒す雷霆らいていのごときその突撃は、号令からわずか十分後、敵総司令官の首を宙に舞わせ、帝国の野望を完全に断ち切った。


 これほどの激戦でありながら、レオンハルト公爵がマリエールの傍らを離れることは一瞬たりともなかった。

 「聖女の暴走阻止、およびその身の安全の確保」――それこそが今回の彼の絶対任務であり、全将軍から「何があっても陛下を戦場に解き放つな」と厳命されていたからだ。


 戦闘中、マリエールが「私も突撃しましょうか?」と言いたげにチラチラと彼に視線を送るたび、レオンハルトは心臓が止まる思いで手綱を握り直していた。

(絶対に、絶対に単騎駆けなどさせない。……行かせてたまるか!)

 この、戦いそのものよりも過酷だったかもしれない神経戦が、今、ようやく終わりを告げたのだ。

 

 これでアルシエル王国は、かつての自領を全て奪還しただけではない。

 ハルガルド帝国の未来、数十年に渡る継戦能力を、その根底から完全に粉砕したのである。

 マリエールが辿り着けなかった「その先の歴史」が今、銀色の輝きと共に、鮮烈に刻み込まれようとしていた。

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