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第67話 戴冠

 聖都アルシエルを包む空気は、もはや熱狂という言葉すら生温い。

 旧王国からの建国以来、最大にして最上の歓喜。

 大聖堂の天を突く尖塔から放たれる鐘の音は、石畳を、人々の胸を、そして歴史の分水嶺を激しく震わせていた。


 かつてハルガルド帝国の鉄靴に踏みにじられ、国土を裂かれ、家畜以下の扱いを受け続けてきた民衆。

 彼らにとって、今日という日は単なる新王の即位ではない。

 それは、絶望の淵から自分たちを救い出した「生ける奇跡」を、自分たちの唯一絶対の主として迎える、神話の一ページであった。

 

 大聖堂の入り口、数人がかりで引く巨大な青銅の扉が重々しく開かれた。

 その瞬間、詰めかけた数万の群衆は、一斉に肺の空気を奪われたかのように息を呑んだ。


「おお……なんて、神々しい……」


 逆光の中に現れたのは、太陽の光を全身に吸い込み、白く燃え上がるような純銀の鎧を纏ったマリエールであった。

 それは、先王アルベールが「娘」のために用意させた、世界で唯一の至宝。

 胸元から肩口にかけては、今まさに飛翔せんとする天使の羽が緻密な彫金で施され、彼女が最初の一歩を踏み出すたびに、銀の鱗が星屑のような輝きを周囲に撒き散らす。


 民衆は知る由もない。

 その鎧の下にある柔らかな肌が、かつて前世において無慈悲な火に焼かれたことなど。

 彼らの目に映るのは、ただ一点。

「この国を救うために天から遣わされた、清廉にして気高い守護天使」の姿だけであった。


「マリエール陛下! 我らが女王、マリエール陛下万歳!!」


沿道を埋め尽くした民たちは、まるで目に見えぬ力におされるように、次々と地面に膝をつき、祈るような眼差しで彼女を仰ぎ見た。

 そのあまりの神々しさに、立っていることさえ叶わぬ者が続出する。

 それは静かな、けれど抗いがたい波濤となって、凄まじい速度で群衆の端から端へと伝播していった。


 感極まって嗚咽を漏らす老婆、幼い我が子を抱き締め「あの御姿を一生忘れるな」と語りかける父親。


 ハルガルドの恐怖をその細い腕で薙ぎ払った聖女が、今、自分たちの王として君臨する。

 その峻烈な事実に、国全体が熱病のような多幸感に浮かされていた。

 聖都アルシエルの許容量を遥かに超えて押し寄せた群衆は、城内に入りきれずともなお、城壁の外から地鳴りのような歓声を上げ続ける有様であった。

 

 大聖堂の最前列で居並ぶ七人の将軍たちもまた、その神々しさに魂を根こそぎ揺さぶられていた。

 鉄壁の防御を誇る第六将軍マキシム・テールは、兜を脱いだ逞しい指で、溢れ出る涙を乱暴に拭った。


「……これだ。俺たちが、死線を潜り抜けてまで守りたかった景色は、これだったのだ」


 戦場では鬼神と恐れられる猛将が、一人の少女の門出を前に、子供のように鼻をすすり、肩を震わせている。

 その隣で、第一将軍シグルド・フォン・ライゼは、微塵の乱れもない敬礼を捧げた。

 彼の視線は、新時代の王への揺るぎない忠誠を、その魂の奥底に深く刻み込んでいた。


 そして、女王の隣を歩む公爵レオンハルト。

 彼は、銀の鎧に包まれたマリエールの横顔を、盗み見るように視界に収めた。

 あまりに美しく、同時に、この熱狂の渦の中で消えてしまいそうなほどに儚い。


(マリエール。決して、お前を一人にはしない。この命、この剣、俺のすべてを懸けて、お前の生涯を支え抜こう)


 婚礼の儀。祭壇の前で彼女の白く細い手を取ったとき、レオンハルトの掌に伝わったのは、鎧の冷徹な金属の感触ではなかった。

 それは、確かに脈打ち、熱を帯びた、一人の少女の温かく柔らかな「生」であった。


 婚礼と戴冠の喧騒から、物理的に切り離された王宮の塔。

 民衆の歓声が遠い地鳴りのように響くその場所は、パレードを眺めるには絶好の特等席であった。

 そこには、表舞台には決して立てないもう一人の主役、エミリの姿があった。


「エミリ! 見たか、今のマリエールを! 我が娘ながら、天から降りてきた女神そのものではないか!」


 自らの出番を終えた先王アルベールは、かつての威厳はどこへやら、デレデレとした締まりのない笑顔でエミリの隣に座り込んでいた。

 彼は、エミリの前に好物の菓子や果物を次々と並べ、忙しなく動き回る。


「お父様、少し落ち着いてください。お父様の喜びの声がバルコニーまで聞こえてしまいます」

「はっはっは! 構わん、構わんぞ! 今日は建国の日だ、これくらいめでたくて何が悪い!」


 エミリはクスクスと笑いながら、老王のために静かにお茶を淹れた。

 先王私室担当の側近たちは、「あの厳格で苛烈を極めた先王陛下が、まさかこれほどまでに鼻の下を伸ばされるとは……」と、呆れを通り越してもはや慈しむような眼差しで主君を見守っていた。


「でも、本当に素敵でしたわね、マリエール……。あの白銀の鎧を纏って、七人の将軍たちが彼女の前に跪く姿……。本当に女神様みたいですね」

「そうだろう、そうだろうとも! お前たちが考えた新軍制は完璧だ。ハルガルドなど、あの布陣を聞いただけで震えて逃げ出すに違いない!」


 だが、婚礼の祝杯が尽きぬうちに、マリエールはすでに「少女」の仮面を脱ぎ捨てていた。

 戴冠式の直後、着替えも済ませぬ鎧姿のまま、彼女は執務室の壁に掲げられた巨大な大陸地図の前に立った。

 その隣には、揃いの鎧を着込んでいる鏡合わせのような冷徹な眼差しをしたエミリ。


「お父様。……幸せな時間は、ここまでです」


 マリエールの声から甘さが完全に消えた。

 彼女は銀の小手で、地図上の険しい山岳地帯を無慈悲に指し示す。


「シグルド将軍に即座に伝令を。……聖女騎士団第一隊長、リュカ・ベルナールは敵の前哨線を叩いた後、速やかに後退。あの場所に『脆弱な防衛線』を演じさせて。敵が『小規模部隊による単なる威力偵察』だと誤認し、誘い込まれるように仕向けるのよ。……そうね、中途半端な焚き火の跡でも残しておけば、連中は喜んで食いつくわ。馬も入れぬ狭道で、一体いくつの部隊が行方不明になれば、本隊ごと引き摺り出せるかしらね。……ふふ、クスクス」

「はっ」

 リュカが氷のような笑顔を揺らし、即座に退室する。

 淀みのない軍令。彼女はさらに、闇の色をした駒を地図上に置いた。


「狼のカイル率いる『灰色のル・ルゥ・サングレ』。彼らには今夜、食糧集積地への一斉放火を命じます。……カイルなら、私の意図を言わずとも理解するはず。戴冠式の当日に軍が動くはずがないという『常識』……それを逆手に取るのよ。それにしても……優秀な狼たちだわ。集積地の警備兵に対し、『今日は戴冠式だから動きはない。昼から飲んでしまえ』と煽動まで終えているなんて……。流石の私でも、そこまでの手際の良さは予想できなかったわ」



 マリエールは、窓の外で自分を称え続ける民衆の声を聞きながら、薄く、美しい唇を歪めた。

 その微笑は、慈愛の聖女というよりは、獲物を確実に仕留める捕食者のそれであった。


「さあ、始めましょう。エミリ、レオンハルト。……私たちを脅かすすべての不条理、すべての敵を、この『私の作った優しい檻』の中に閉じ込めて――。跡形もなく、消し去ってあげるのよ」


 白銀の鎧が、月光を反射して冷たく輝く。

 聖女の統治する「理想郷」という名の檻が、今、静かに、そして確実に世界を飲み込み始めた。

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