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第60話 布告

 深夜、地下牢を支配するのは、湿り気を帯びた石壁の冷気と、不規則に響く水滴の音だけだった。

 松明の炎がパチパチとはぜ、鉄格子の影を蛇のように床へ這わせている。

 その奥には、数時間前までの栄華を剥ぎ取られ、泥にまみれた寝巻き姿で惨めに震えるクロヴィスの姿があった。


 鉄格子の前に立つのは、かつてこの国を統べた先王アルベール。

 そして、その傍らには、抜き身の正義を体現するかのような第一軍将軍レオンハルトが、彫像のごとく直立していた。

 先王は、力なくうずくまる我が子を見つめ、やがて視線をレオンハルトへと移した。

 その声は静かであったが、地下牢の空気を震わせるほどの重みを湛えていた。


「レオンハルトよ。……この男の首を、お前が刎ねよ」


 その宣告に、クロヴィスだけでなく、レオンハルトも驚愕に目を見開いた。

「……先王殿、それは。実の父である貴殿の御手ではなく、私が?」


 アルベールは深く、重い溜息をつき、暗い牢獄の天井を仰いだ。

「これは単なる罰ではない。この国の汚れを清めるためのみそぎだ。レオンハルト……私は、お前を我が国の次なる希望、そして何より、マリエールを支え国を導く器と見定めた。ならば、この王国に巣食った過去の『毒』は、未来を担うお前の手で断ち切らねばならぬ」


 先王はわずかに口角を上げ、どこか遠くを見つめるような目で付け加えた。

「……まあ、あの子の妃となるかはマリエール次第だがな。だが、彼女の傍らに立ち、その盾となり剣となるのは、間違いなくお前だ。納得がいかぬか?」


 レオンハルトは、先王が託した「王としての覚悟」と、自分への絶大な信頼を理解した。

 彼は深く、深く頭を下げ、腰の剣の柄に手をかけた。その拳は、怒りと使命感で白く震えている。


「御意。……マリエール様が味わった孤独、背負わされた絶望。その万分の一にも満たぬ痛みではありますが、せめてこの男の魂と共に、地獄へと持っていかせてやりましょう」


 翌朝。

 空が白磁のような色に染まり始めた頃、獄舎の片隅で、誰にも知られぬまま刑が執行された。

 レオンハルトの振るった刃は、最後まで命乞いを見苦しく叫び続けたクロヴィスの首を、容赦なく断ち切った。

 それは彼がマリエールの作戦を敵国に売り渡した時と同じくらい冷酷に、そして一瞬の慈悲さえ感じさせぬ速さであった。

 マリエールの真心を踏みにじり、歪んだ執着を向け続けた男の命は、朝露と共に、誰に看取られることもなくこの世から消え去ったのである。


 数時間後。王都アルシエルの巨大な鐘が、腹に響くような重低音で鳴り渡った。

 広場を埋め尽くした群衆の前に、アルベール先王が自ら立った。

 その背後には、ガストン、ジャン、エティエンヌ、マキシム、そしてシルヴァンら、八人の将軍たちが、抜き身の剣を冬の陽光に煌めかせ、峻烈な壁となって並んでいた。


「民たちよ、聞け! 現国王クロヴィスは、王としての誇りを泥に捨て、我が国の宝たる聖女を敵国に売り渡そうとした裏切り者であった! 彼はすでに、法の裁きによってこの世を去った!」


 その衝撃的な布告に、広場は一瞬、真空状態になったかのような静寂に包まれた。

 民衆は互いに顔を見合わせ、信じがたい事実に言葉を失う。

 だが、先王の声はさらに激しさを増し、人々の心に突き刺さった。


「聖女マリエールが今もなお目を覚まさぬのは、敵軍の呪いのためではない。……このクロヴィス王の裏切り、その全ての汚れを、彼女がたった独りで受け止めた代償なのだ! 」


 布告が終わると、将軍たちが一斉に剣を空へと掲げた。

 彼らが戦場でいかに王の裏切りという絶獄に叩き落とされ、その中でいかにマリエールを信じ、共に死地を越えてきたか。

 その鋼の意志が、無言のまま民衆を圧倒していく。


 やがて、最前列にいた一人の老人が、震える声で、しかし魂を絞り出すように叫んだ。

「……マリエール様だ。マリエール様こそが、俺たちの王だ!」


 その叫びは、乾いた草原に放たれた野火のごとく瞬く間に広がり、やがて天地を揺るがす地鳴りのような咆哮へと変貌を遂げた。


「マリエール! マリエール! マリエール!!」


 それは前世において、彼女をただの「便利な奇跡の道具」としてのみ崇めていた民たちが、初めて「彼女の痛み」を己の傷として刻み込み、血の通った一人の女性として、その魂を愛することを誓った歴史的な瞬間であった。


(……思った通りだ。もはやこの国の民は、腐敗した現王家の血筋など、一滴たりとも認めはしまい)


 狂乱に近い熱狂の渦を冷ややかに見つめながら、先王アルベールは確信した。

 民が望んでいるのは、王家の権威による支配ではない。

 聖女マリエールという「慈愛の象徴」による救済と統治なのだ。

 その熱望はもはや、誰にも止められぬ濁流となって王都を呑み込もうとしていた。


 離宮の奥深く、重厚なカーテンに仕切られた静謐な部屋。

 外から聞こえてくる地響きのような「マリエール」を呼ぶ地鳴りに、エミリは眠る親友の、驚くほど細くなった手を強く握りしめた。

「聞こえますか、マリエール様……。もう、貴女を縛り、利用しようとする鎖は、この国のどこにもありません。貴女が命を懸けて守った人たちが、今、貴女のために泣いて、貴女の名前を呼んでいるのですよ……」


 エミリの頬を、一筋の涙が伝い落ちた。

 その時、広場の将軍たちが一斉に捧げ持った剣が、昇り始めた朝日に反射し、離宮の窓を白く、清らかに照らし出した。

 

 眠り続けるマリエールの眉間に寄っていた苦しげな皺が、ゆっくりと、解けていく。

 その寝顔には、前世からの永い呪縛から解き放たれたかのような、穏やかな朝日のような平穏が戻り始めていた。

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