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第6話 聖女の進軍

 「不落」と称された漆黒の重盾が、音もなく光の粒子となって霧散した。

 その光景を前に、ヴァル・ド・ロゼの広場を支配していたのは、耳が痛くなるほどの静寂であった。


 さきほどまで下卑た笑い声を上げていた騎士たちは、蛇に睨まれた蛙のように硬直している。

 彼らの中心、泥濘の中に膝をついたのは、他ならぬ第一王子クロヴィス・ド・リュシアンであった。

 王族としての矜持、黄金の刺繍が施されたマント、それらすべてを泥に汚しながら、彼は一人の敬虔な信徒として震える声でこうべを垂れた。


 その姿には、かつての傲慢な婚約者の面影などどこにもなかったのです。


「ああ……神よ……。我が主よ、感謝いたします。暗雲に閉ざされたこの地に、ついに光を授けてくださった」


 彼の独白は、広場に集まった村人たちのすすり泣きと混じり合い、奇妙な聖域を作り出していく。

 クロヴィスが捧げるのは、前世の記憶に刻まれたあの冷酷な野心ではない。

 そこにあるのは、敗戦を重ね、ハルガルドの軍勢に蹂躙され続ける祖国の末路を案じる、一人の青年の切実な祈りであった。


「恐れながら、天の御使い様。どうか、無知ゆえに牙を剥いた愚かな我らをお許しください。そして、この滅びゆく国に……どうか、その慈悲の手を差し伸べてはいただけないでしょうか」


 マリエールは、泥に額を擦り付けんばかりの王子を、冷徹なサファイアブルーの瞳で見下ろした。

 彼女の右手に顕現していた『ウリエルの剣』は、その主の意思を反映するように、白銀の燐光を散らしながら静かに消えていく。

 しかし、彼女の瞳孔に宿る青い炎は、依然として消えることはなかった。

 彼女は、彼が差し出す「崇拝」という劇薬を、安易に飲み込むほど愚かではありません。


「面を上げてください、クロヴィス王子」


 マリエールの声は、鈴を転がすような美しさでありながら、冬の夜の海のように冷たく、深く、聴く者の魂に重圧をかけた。


「あなたが私に神の奇跡を見たというのなら、私もあなたに問いましょう。……王子、あなたは、この国を救うために自らの血を流す覚悟がありますか?」


 クロヴィスが息を呑み、天を仰ぐように彼女を見つめた。

 その端正な顔は泥と汗に汚れ、かつての「理想の婚約者」としての美しさは微塵もない。

 だが、その瞳に宿る光だけは、まだかつてのような濁りがなかった。

 マリエールは、彼が答えを口にする前に、逃げ場を塞ぐような現実的な「楔」を畳み掛けたのです。


「私があなたと共に歩む条件は、二つあります。これらが果たされぬ限り、私の剣はあなたを助ける刃にはなり得ません」


 一歩、彼女が足を踏み出す。泥を撥ねる音が、審判の鐘のように響いた。


「一つ。レヴィオン全土の民に課された過酷な税を、直ちに軽減、あるいは免除しなさい。戦争の火に焼かれ、住処を追われ、今日を生きるパンさえ持たぬ民に、まず生きる術を与えるのです。王とは民を守る盾であって、民の血を啜る寄生虫ではないはずです」


 クロヴィスの肩がびくりと震えた。現在のレヴィオン王家は、戦費を捻出するために限界以上の徴税を繰り返し、国内は疲弊しきっていた。

 マリエールの要求は、王家の特権そのものを削る、痛みを伴う宣告であった。


「……承知いたしました。王都へ戻り次第、父王を説得し、私個人の資産をも放出して、民の救済に充てると誓いましょう」


「良いでしょう。では二つ目です」


 マリエールは、腰を抜かして震えている「不落」の騎士へと視線を転じた。

 その冷ややかな眼差しを浴びた瞬間、大男であるはずの騎士は、自身の体が透明になって消えてしまうのではないかと錯覚するほどの極限の恐怖に襲われた。

 戦場ですら感じたことのない圧迫感。

 

 それは、魂を直接覗き込まれるような、抗いがたい拒絶の視線でした。


「軍の規律を、根底から正しなさい。力を持たぬ民を、そして女を、獣のように辱める者を、二度と私の視界に入れないこと。……神の剣は敵を討つためだけにあるのではありません。この国を内側から腐らせる毒を、容赦なく切り捨てるためにもあるのです。聞き届けられますか?」


 広場を包んでいた空気が、さらに一段階重くなった。

 マリエールの瞳の青い光が最高潮に達し、彼女の背後に、一瞬だけ巨大な四枚の翼の残像が見えたような錯覚が、その場にいた者全員に共有された。


「……っ、承知……承知いたしました! 二度と、このような不浄を貴女様の目に触れさせぬと、このクロヴィス・ド・リュシアン、魂に懸けてお約束いたします!」


 クロヴィスの誓いは、もはや王子の命令ではなく、神への供物に近い響きを帯びていた。


 マリエールの瞳に宿っていた苛烈な輝きが、役目を終えたかのように静かに沈んでいく。

 それと同時に、彼女を包んでいた非人間的な気迫が霧散し、煤けた顔をした、華奢で小さな村娘の姿がそこに戻った。

 しかし、誰も彼女を「ただの娘」として見ることはできない。

 かつて大陸を震え上がらせた、「戦女神」と呼ばれた女王の果断さと、聖女の慈悲。

 その二つが混ざり合った正体不明の存在感が、古びた農家の服を通して溢れ出していたのです。


 クロヴィスは悟った。

 自分が捜し求めていたのは、自分の都合に合わせて振るうための「道具」ではなく、自分たちを導き、あるいは裁くための「絶対的な主君」であったのだと。


「……ありがたき幸せ。その仰せ、我が命、そしてリュシアン王家の名に懸けて果たしましょう。ヴァル・ド・ロゼに舞い降りた、我が国の救世主よ。今日この日より、我が剣、我が心は、貴女と共にあります」


 クロヴィスは再び深く頭を垂れた。

 その背後では、生き残った騎士たちが武器を捨て、一人、また一人と跪いていく。

 マリエールは、遠くで祈るように自分を見守るピエールの姿を視界の端に捉えた。

 そのピエールが、今世では獄死することなく、温かいスープを用意して待っている。

 そのささやかな幸せを守るためならば、自分はこの王子すらも、国という名の巨大な機構すらも、自在に操り、あるいは破壊してみせよう。


(前世とは違う……。私は、救いたかった人々を救ってみせる……)


 彼女は冷たく凍てついた決意を胸に、馬上で自分を凝視する王子を見据え直した。

 

 今、レヴィオン王国の歯車が、一人の少女の細い指先によって、全く異なる方向へと回り始めたのです。

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