第59話 裏切りの報酬
王都の広場を支配するのは、耳を劈くようなクロヴィスの醜悪な絶叫であった。
かつては高貴な響きを湛えていたはずのその声は、今や恐怖と保身に塗りつぶされ、ひび割れた獣の悲鳴と化している。
石畳を這いずり、鼻先をかすめるエミリの切っ先から逃れようとするその姿に、かつての威厳は微塵もない。
「――偽物だ! その手紙も、その女も、すべては敵の策略だッ!」
クロヴィスは、自分を包囲する三万の将兵たちの冷徹な眼差しを浴び、必死に声を張り上げた。その瞳は血走り、周囲を敵意に満ちた群れとして捉えている。
「騙されるな! 聖女を偽り、余を陥れようとする反逆者どもの罠だ! レオンハルト、ガストン! 貴様ら、敵の術中に嵌まってこの国を壊すつもりか!? 答えろ! その女は魔女だ、マリエールの姿を借りて余を呪おうとする化け物だッ!」
その必死の強弁を、第四将軍ジャンが馬上で肩を揺らして遮った。
その笑いは、愉快さなど微塵も含まない、凍りついた蔑みであった。
「……敵の策略、ですか。陛下、貴様は我ら将軍の知性を、それほどまでに低く見積もっておいでか。ならば伺おう。敵はわざわざ貴様しか知り得ぬはずの『マリエール様の作戦』を捏造し、あの方の筆跡ではなく、貴様の――その救いようのない汚い筆跡を完璧に模倣したとでも仰るのか?」
「筆跡など、いくらでも似せられる! 専門の細工師を雇えば赤子の手をひねるより容易い! そんなものは証拠にならないと言っているんだ!」
地を這いながら叫ぶクロヴィスの前に、第一将軍レオンハルトが、一歩、また一歩と死神のごとき足取りで踏み出した。
「いいえ、陛下。貴様に逃げ道はありません」
その声は、広場の隅々にまで届くほど低く、重い響きを持っていた。
「貴様は一つ、致命的な計算違いをした。カイルが敵陣の金庫から奪還した『原本』と、貴様が王宮の机で――誰にも見られぬと信じて――書き溜めていた『下書き』の数々。それらはすでに先王殿と共に、一文字たりとも違わぬよう照合し終えている。……貴様は、マリエール様の故郷をどう焼き払うのが最も効率的か、どうすれば彼女を殺さずに、その自由を奪って後宮に据えられるかを、何度も書き直しては屑籠に捨てていたようだな。その忌々しい紙屑こそが、貴様の断頭台への招待状だ」
広場を埋め尽くす民衆の間から、怒涛のようなざわめきが沸き起こった。
王が聖女の故郷を焼き、彼女を監禁しようとしていたという戦慄の事実。
民衆の眼差しは、困惑から明確な「敵意」へと変貌を遂げていく。
その中心で、エミリは激しい吐き気を催すような嫌悪を剥き出しにしていた。
昼間はマリエールの代わりに奔走し、夜は悪夢と「寒け」に怯える親友を抱きしめてきた彼女。
マリエールがどれほどの孤独と自己犠牲の中で、この国を守ろうとしてきたかを一番近くで見てきたエミリにとって、目の前の男はもはや人間ですらなく、排除すべき害毒にしか見えなかった。
「貴様に、王たる資格などない!」
エミリは怒りに震える手で、鋭い切っ先をクロヴィスの喉元に突き立てた。
刃が喉の皮をわずかに押し込み、クロヴィスの悲鳴が喉の奥で引きつる。
「……待て。その手を汚すことはない、マリエール」
重い足取りで歩み寄ったのは、先王アルベールであった。
その顔は、一国の王としての峻厳さと、実の息子を裁かねばならない父親としての絶望が混ざり合い、深い皺を刻んでいる。
「クロヴィス。お前が『証拠』と呼ぶものは、今ここにある。……お前に向いている三万の槍、背を向けた民の沈黙、そして――愛する息子を自らの手で地獄へ送らねばならぬ、この父の絶望だ」
アルベールは、カイルが回収してきた裏切りの下書きを、我が子の顔面へと無造作に投げつけた。
舞い散る紙片は、かつてクロヴィスが後宮の増築案や、腱を断つ手法を書き記した「狂気の記録」そのものであった。
「父上! 待ってください、私は……私はただ、この国を思って! マリエールが強大になりすぎれば、王権が揺らぐと考えたのです! すべては王家のため……!」
「黙れ。マリエールの真意もわからず、民を売り、救世主の故郷を焼こうとした男に、王を名乗る資格も我が子を名乗る資格もない。……連れて行け。その王冠は、お前にはあまりに重すぎた」
先王が力なく、しかし冷徹に合図を送る。
ガストンとレオンハルトが、獲物を捕らえる猛禽のようにクロヴィスの襟首を掴み上げた。
「来い、薄汚い裏切り者。……この国に貴様の居場所は一寸たりとも残っていないことを、その身に刻んでやる。地獄の底で、自分が売った兵たちの顔を思い出すがいい」
乱暴に引き摺られていくクロヴィスの叫びは、次第に遠ざかり、重厚な牢獄の闇へと吸い込まれていった。
一方、軍の中央で厳重に守られた馬車の中。
マリエールは依然として、全ての喧騒から隔絶された深い眠りの中にいた。
彼女が今世、命を懸けて守り抜こうとしたのは、王座ではなく、懸命に生きる民のささやかな日常であった。
その願いは今、彼女を愛し、彼女に救われた者たちの手によって、最も苛烈な形で果たされようとしていたのである。
おまけ
地下牢の、湿り気を帯びた鉄格子の前。
かつて黄金の王座に踏ん反り返っていた男は、今や見る影もなく泥に汚れ、冷たい床にうずくまっていた。
そこへ、ガチャリと重々しい音を立てて二人の影が現れる。
松明の火に照らされたのは、氷のような微笑を浮かべたエティエンヌと、岩山のごとき威圧感を放つガストンだ。
「さて……陛下。いや、クロヴィス君。今日の『マリエール様がいかに尊いか講座』を始めましょうか」
エティエンヌは優雅な所作で椅子に腰を下ろすと、脇に抱えていた凶器のように分厚い教本――表紙に『マリエール様の全て』と記された鋼鉄の大楯のごとき本を、音を立てて開いた。
「まずは第1章、『聖女様の自己犠牲と、それに対する貴様のゴミクズ指数の比較論』から。……ああ、その前に。昨日出した百ページの反省文ですが、誤字脱字が多すぎますね。やり直しです。言いましたよね? ちゃんと宿題をやらないと斬首、内容が間違っていたら火刑ですよ」
「ひ、ひぃっ……! もう勘弁してくれ! 昨夜も一睡もせずに、ガストンの武勇伝を三万文字も書かされたんだぞ!」
「おう、よく喋るじゃねえか」
ガストンが丸太のような腕を組み、仁王立ちで牢の天井を突き破らんばかりに威圧する。
その影だけで、クロヴィスは失禁しそうなほど震え上がった。
「俺からの講義は、次は『マリエール様がいかに可愛らしくお茶菓子を召し上がるか』についてだ。十時間かけて、あの方のかわいらしさを語ってやる。もちろん、宿題は感想文だ。一文字でも間違っていれば、その指を一本ずつ折ってやるからな」
「その次は、昨日教えた『マリエール様がカッコよく活躍した名場面・百選』の抜き打ちテストです。一問でも間違えたら死刑です」
「エティエンヌ、それは教育じゃない、拷問だ! 明らかな精神への虐待だぞッ!」
「おや、心外ですね。これは慈悲深き再教育ですよ。貴様が壊そうとしたものがどれほど美しく、尊いものだったのか。その腐りきった脳の奥底まで、一生消えない傷として刻み込んでいるだけです」
エティエンヌが冷たい笑みを湛えたまま、ページをめくる。
その紙の擦れる音さえ、クロヴィスには死神の鎌が研がれる音に聞こえた。
「さあ、始めましょうか。……楽しいお勉強の時間ですよ」




