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第58話 断罪の凱旋

 王都アルシエルの巨大な城門が、重々しい音を立てて左右に開かれた。

 本来ならば、二十三万の大軍を打ち破った英雄を迎え入れる歓喜の渦が巻き起こるはずだった。 

 しかし、都を包んだのは、人々の肺を押し潰すような、生理的な恐怖を伴う重苦しい沈黙であった。


 整然と、それでいて死神の行軍を思わせる三万の精鋭たち。

 その先頭を行く「聖女マリエール」が、沸き立とうとする民衆の声を、冷徹な手つき一つで制したのである。

 血と泥に汚れ、鈍い光を放つ白銀の鎧。

 

 そう信じて疑わない民衆と、城門の先で待ち構える王の前に現れたのは、親友の仮面を深く被り、復讐の権化と化したエミリであった。


 玉座の間から、もどかしげに城門まで駆け下りてきたクロヴィス王は、自分の卑劣な策が瓦解したとも知らず、その瞳に歪んだ所有欲を爛々と輝かせていた。


(帝国軍め、作戦まで授けてやったというのに、これほどの手間を取らせおって。……まあよい。これほどの大功を立てた聖女を、労いの末に妃に迎えると言えば、教会も民も反対できまい。これでやっと、あの女は私の「所有物」になるのだ……)


 王は豪華な刺繍が施されたマントを大げさに翻し、民衆の前で「慈悲深い王」の仮面を貼り付けたまま、エミリへと歩み寄った。


「ああ、マリエール! よくぞ無事で戻ってくれた。私の愛する光、我が国の至宝よ。さあ、その疲れ果てた体を、この私の腕に預けるがよい……」


 クロヴィスが陶酔しきった瞳で、エミリの籠手に指を触れようとした、その瞬間であった。


「――その汚らわしい手で、私に触れるな!!」


 広場に響き渡ったのは、春の陽だまりのような慈愛の声ではなかった。

 それは、魂までをも凍てつかせる刃のごとき、拒絶と殺意の響きだった。


 王は、己の耳を疑った。

 その傍らで、都を埋め尽くす民衆は声を上げることなく、しかし一瞬の隙も与えぬ峻烈な眼差しで、王を見守っていた。


 常に自分へ、どこか悲しげな微笑みを向けていたはずの彼女。

 だが、今目の前にいる「マリエール」の瞳には、見たこともない底知れぬ暗い怒りが宿っていた。


「マリエール……? どうしたというのだ。戦のショックで、よもや気が触れたのか?」

「気が触れたのは貴方のほうよ、クロヴィス王。いいえ、貴方は最初から腐っていたのね」


 エミリは流れるような動作で馬から飛び降りると、王の目の前へと踏み込んだ。

 呼応するように、傍らに控えていた騎兵が槍の石突きを王の足首へ叩き込む。


「ぐはっ!?」


 無様に石畳の上へ転倒したクロヴィスは、泥に汚れながら喚き散らした。

「何をする下郎ッ! 私は王だぞ! 貴様ら、狂ったか!」


 だが、王はそこで、はっと息を呑んだ。

 広場を埋め尽くす三万の全軍が、抜き身の憤怒を、剥き出しの殺意を、自分一人に向けていることにようやく気づいたからだ。


 エミリの脳裏には、ノワール半島の凍える土の上で、血を吐きながらも命を削り続けた、親友の小さくなった背中があった。


「あの方が……マリエール様が、貴様が仕組んだあの地獄の中で、どれほど苦しまれたか……! 貴様が温かな寝床で裏切りを重ねていた時、あの方は冷え切った体で、血を吐きながら『これは私の罰だ』と泣いておられた。それを……貴様のような屑が!!」

 シルヴァンが静かに、しかし激しい怒りに全身を震わせ、弓を引き絞った。

「貴様は生きる資格などない!!」


 放たれた矢が、クロヴィスの頬の皮を一筋に切り裂いた。

「ひいいいいっ!」


 王の悲鳴が響く中、ガストンが転がるクロヴィスの腹部を容赦なく蹴り飛ばした。

「貴様ァッ!! お前が帝国に情報を流したせいで、我が騎士団の何千という同胞が泥を啜って死んだ! マリエール様に血を吐かせたのは、敵の刃ではない……敵に我が軍の作戦を流した貴様だ!!」


 王の体は受け身も取れず、無様に石畳の上を転がり、豪華な衣装は瞬く間に泥と砂にまみれていく。


「な……何を言う……!? でたらめだ! 謀反だ! 将軍たち、何をしている、私を守れ! この逆賊どもを捕らえろ!」


 這いつくばる王が、縋り付くように見上げた先。

 そこには、エティエンヌが三日月の如き冷酷な微笑を浮かべて立っていた。

 彼は無造作に剣を抜き放つと、瞬時に逆手に持ち替え、地面についていた王の手の甲を、一切の躊躇なく石畳ごと貫き通した。


「うびぁぁぁぁぁああ!! 」


 王の威厳など塵芥ほども残っていない、家畜のような悲鳴が広場を震わせる。

 剣をゆっくりとねじ込みながら、エティエンヌの瞳には静かな狂気にも似た憤怒が滲んでいた。


「とぼけないで貰おうか、王よ。貴様が綴ったあの醜悪な密約の下書きも、マリエール様の故郷を焼こうとした画策も、すべては露見している。貴様の罪は、もはやこの国の法では裁ききれぬほどに積み上がっているのだ」


 第一将軍レオンハルトが、全身を震わせ一歩前に出た。その厳格な瞳からは、無念と悔しさの涙が溢れ落ちていた。

「陛下……いや、貴様ァッ!! マリエール様は、貴様が売ったこの国を守るために、魂を切り刻んで戦われたんだ! あの方がどれほどの血を吐いたか……それでも貴様を、信じていたというのに! この鬼畜が!!」


 マキシムもまた、音もなく剣を抜き放ち、王の喉元へ突きつけた。

「愛を囁くその裏で、彼女の故郷を焼き、腱を切り、後宮へ監禁しようとしていた罪。万死に値する。マリエール様は今、お前のせいで、死の淵にいるのだぞ!」


 四面楚歌、いや、三万対一という絶望的な状況。

 這いつくばるクロヴィスの前に、エミリの背後から静かに、先王アルベールが姿を現した。


「クロヴィス。お前の時代は終わった。……いや、そもそも始まってすらいなかったのだ。お前は王の器では無い。すまなかったな……見抜けなかった儂の落ち度だ……それにしても、見損なったぞ。ここまでの鬼畜の所業は、死を持って償うしか無いのだ」


 先王の冷徹な宣告。

 ガストンが再び王を蹴り飛ばすと、頭上から黄金の王冠が無様に泥の中へと転がり落ち、カランと虚しい音を立てた。


 エミリは、泥に汚れたその王冠を静かに拾い上げた。

 その瞳は、はるか後方の馬車を見つめている。


(マリエール様……聞こえますか? 貴女を利用し、その心を土足で踏みにじった男が、今、貴女の愛した民衆の前で泥に塗れています。……貴女が手を下さなくとも、みんながやってくれたのですよ)


 軍の中央、騎士達に厳重に守られた馬車。

 その中で、本物のマリエールは依然として、死人のように青白い顔で深い眠りの中にあった。


 彼女を愛し、その命を惜しんだエミリと将軍たちが、ついに王へと、地獄の引導を渡したのである。

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