第57話 ごめんね、少しだけ眠らせて
王都アルシエルを指呼の間に望む、古都「エテュイ」。
かつて王朝の離宮が置かれたその静謐な街は、今や異様な殺気に包まれていた。
遠征軍からの急報を受け、隠棲の地から駆けつけた先王アルベールは、この地で三万の精鋭遠征軍と合流を果たした。
軍の中央、一際頑丈な石造りの館の奥。
団長ガストンが、いまだ深い眠りの中に沈むマリエールを、壊れ物を扱うように天幕の寝台へと運び込んだ。
その後、八人の将軍たちは、泥を拭う暇も、甲冑を脱ぐ間さえも惜しむように、先王アルベールの元へと集結した。
彼らの瞼の裏には、戦場で震えの止まらぬ体をエミリに抱かれ、死の淵を彷徨いながらも仲間を案じていたマリエールの、あまりに痛々しい姿が焼き付いている。
その記憶が呼び覚まされるたび、戦場を幾度も潜り抜けた猛将たちの目には、熱い憤怒の涙が込み上げるのを禁じ得なかった。
将軍たちの顔には、二十三万という空前絶後の大軍を壊滅させた戦勝の喜びなど、微塵もなかった。
そこにあるのは、自らの保身と欲望のために、汚れなき聖女を死地へと追いやった元凶に対する、底冷えするような殺意のみである。
「……先王殿。まずはこれをお読みください。貴殿の血を引く者が、何を仕遂げたのかを」
第一将軍レオンハルトが、血と泥、そして怒りの形に握りしめられた皺の寄った二通の書簡を、先王の前の机に叩きつけた。
石の机が低い音を立て、居並ぶ将軍たちの殺気がさらに一段階、鋭さを増す。
アルベールは震える手でそれを手に取った。
読み進めるうちに、かつて一国を統べた王の顔からみるみる血の気が引き、最後には言葉にならない絶望がその瞳を覆い尽くした。
「……領土を売り、あの子の故郷を人質にするだと……? 挙句に、マリエールが授けた国家機密たる作戦を、あろうことか敵国に流したというのか……」
「その通りです!」
ガストンが堪りかねたように机を叩き、地響きのような怒声を上げた。
「陛下の背信のせいで、戦場は本来受ける必要のない地獄と化した! マリエール様は、敵の策に嵌められ危機に瀕した味方七万の兵を救うため、ご自身の命を削って『ウリエルの剣』を振るうしかなかったのだ! 今、あの方は死線を彷徨っておられる。……これが、貴殿の息子が王座に座りながら仕遂げた、唯一の『功績』だ!」
アルベールは、絞り出すような声で問いかけた。
「……ロラン、古くから王家に仕えたお前はどう思う。これは、何かの間違いではないのか」
第三将軍ロランは、かつて王室に捧げていた忠節の欠片もない、凍てついた瞳で応じた。
「間違いであってほしかった。ですが、事実は残酷です。王の器どころか、あやつはもはや国家に巣食う『毒』そのものです。民を、将兵の忠義を、そして自らを救った聖女の慈悲さえ、己の劣情のために売り払った。……先王殿、我ら八人はすでに誓いました。これより我らが戴く主は、あそこで命を削り眠り続けておられるマリエール様、ただお一人であると」
「左様です」
第四将軍ジャンが、冷たく、嘲るような笑みを浮かべて言葉を重ねる。
「あやつに王冠を預けておくのは、戦場で散った兵たちと、今も苦しまれているマリエール様への冒涜だ。我ら軍部は、現国王を国家反逆者として拘束し、裁きにかける。先王殿、たとえ貴殿が親子の情で止めようとも、我らの進軍を阻むことは不可能ですぞ。三万の兵の殺気は我ら将軍の命でも止まりますまい」
ガストンは冷徹な面持ちのまま、さらなる「物証」を卓上にぶちまけた。
それはカイルが隠密行動の末、クロヴィス王の私室の屑籠や書棚の奥から回収した、裏切り工作を記す膨大な「下書き」の断片であった。
さらに、腱を切られたマリエールを人目に触れさせず隠匿するための、後宮深奥における「秘密の小部屋」の増築工事案までもが、先王の目に留まる。
「笑える話ですよ。よっぽどこの裏切りを成功させたかったらしい。何度も書き直されたこの汚い癖字を見れば、言い逃れなどできはしない。筆跡鑑定を待つまでもなく、これはあやつの魂そのものの汚れだ」
アルベールは深く、長く、地を這うような溜息をついた。
その背中は、この数分間で一気に老け込み、もはや一国の王としての威厳は剥げ落ちていた。
「……よかろう。我が息子ながら、あまりに情けない。王冠の重みに耐えかね、魂を悪魔へ売ったか。マリエールという慈悲深い娘にこれほどの業を背負わせ、その命まで奪おうとした罪……万死に値する」
先王は杖を強く突き、立ち上がった。
その瞳には、父としての情愛はもはや欠片も残っていない。
あるのは、自らが育て損ねた「害獣」を仕留めんとする、老いた父親の覚悟であった。
「……クロヴィスは、私が共に『始末』をつける。お前たちは軍と国を乱さぬよう務めよ。そして、マリエールを静かに休ませてやれ。……あの子が目を覚ました時、そこが、二度とあの子を傷つける者のいない清らかな国であるように」
ロランが補足するように、冷酷な事実を告げる。
「クロヴィスには、戦況報告を意図的に遮断し、偽りの情報を流し続けています。彼は今頃、王国軍が予定通り敗北し、聖女が捕らえられたという報せを、待ちわびていることでしょう」
「『聖女は預かった、身代金を払え』……。帝国から届くはずのその偽書を、あやつは心待ちにしているのだな」
第六将軍マキシムが、嫌悪感を隠さずに続けた。
「帝国から聖女が返還された暁には、マリエール様は足の腱が切られている状態で渡される手はずだった。彼はそれを逆手に取り、聖女は帝国の拷問で気がふれたことにし、己の後宮に一生封印して慰みものにする算段だったようです。……先王よ、親友の息子とはいえ、私はあやつを許せる範囲を、とっくに超えていると思っている」
「……ああ、分かっているとも。我が手の者も動かそう。あやつに明日はない」
翌朝。
三万の軍勢は、勝利の歓喜を一切排した「静寂の行軍」を開始した。
全将兵が、王が自分たちの命を敵に売ったという事実を知っている。
だが、彼らが何より許せなかったのは、自分たちが売られたこと以上に、彼らが神の如く崇める『聖女』を手に入れようとした、王のあまりにおぞましい策略であった。
軍の中央、厚い盾と屈強な騎士たちに守られた馬車の中で、マリエールは依然として目を覚まさぬまま、深い眠りの底に沈んでいる。
その馬車の左右を、レオンハルトとガストンが、鬼神の如き形相で護衛していた。
彼らの馬の歩みは、マリエールの眠りを妨げぬよう、しかし確実に、獲物を追う捕食者のように力強い。
馬車の中、マリエールは深い深い闇の中にいた。
エミリが、冷たくなりかけたその小さな体を抱きしめ、自らの体温を分け与えるように懸命に寄り添っている。
「……っ……ん……ごめん、なさい……」
時折、マリエールの唇が微かに動き、誰にも聞こえないほど小さな、消え入るような声が零れた。
エミリは、その声に胸を突かれるような思いを抱きながら、マリエールを起こさないよう、耳元でとても優しく囁きかけた。
「マリエール様……。謝らないでください。みんな、マリエール様が言わなくても、最初からあの王様を裏切るつもりだったんですよ。貴女が罪を背負う必要なんて、どこにもないんです。だから……今は何も気にしないで、ゆっくりおやすみなさい」
エミリはまるで、傷ついた幼子をあやす母親のように、マリエールの頭を優しく撫で続けた。
その囁きに応えるように、マリエールの表情がわずかに和らぐ。
彼女が零した「ごめんね」――。
それは、自分を心配し、自分のために「逆賊」の汚名を被ろうとする騎士たちへの謝罪か。
あるいは、前世から続く憎しみの連鎖を、またしても救えなかった自分への最後の手向けか。
遥か前方にそびえる王城アルシエルを睨みつける八人の将軍たちの瞳には、もはや一片の迷いもない。
「ああ、眠っていてください、マリエール様。貴女が再びその美しい瞳を開ける頃には、この国の毒はすべて、我らがこの手で掃除しておきますから――」
聖都アルシエルでは、何も知らないクロヴィス王が、帝国と己の勝利、そして「壊された聖女」の到着を確信し、歪んだ所有欲を爛々と燃やしながら、窓の外を眺めていた。
彼が耳にするのは、勝利の報告ではなく、己の玉座を砕く三万の軍靴の響きであることを、彼はまだ知らない。




