第54話 背信の王 騎士の忠誠
翌朝。
ノワール半島の付け根、深奥へと続く『フォレ・ド・オンブル(影の森)』は、地を這うような深い霧に閉ざされていた。
視界を遮るその白濁した帳は、これから始まる凄惨な戦いと、その裏で渦巻く醜悪な陰謀を覆い隠すかのようであった。
午前四時。
マリエールが天幕を訪れる二時間前。
まだ夜の帳が降りている時刻だというのに、聖女騎士団の軍幕内には、全隊員が武装を整え集結していた。
中央に立つ騎士団長ガストンの前には、四人の隊長――リュカ、イザベル、ノア、ソフィア。
そして、その背後には選りすぐりの精鋭たちが、一糸乱れぬ沈黙で控えている。
その空気は、単なる戦前の緊張感とは明らかに異質な、どす黒い殺意を孕んでいた。
ガストンがおもむろに懐から数枚の紙を取り出し、卓の上に叩きつけた。
「隊長たちは前へ出ろ。……これを読め」
重苦しい沈黙の中、隊長たちが歩み出る。
ガストンは、内臓を削り出すような掠れた声で続けた。
「……これは、カイルが敵本拠地から回収した極秘書簡の写しだ。マリエール様には、死んでも知られるな。……いいな、回せ」
まず、リュカがその紙を手に取った。
読み進めるうちに、彼の端正な顔は、まるで凍りついたかのように蒼白に染まっていく。
流れるような銀髪が、怒りの震えで細かく揺れた。
そこには、マリエールを「所詮はただの村娘」と呼び、敵に作戦を売り渡し、彼女の足の腱を切って引き渡せという、新王クロヴィスの吐き気を催すような裏切りが克明に綴られていた。
「……これを、あの男が書いたのか」
リュカが、絞り出すような声でガストンに問うた。
その瞳は、もはや人間のそれではない、冷徹な狩人の光を宿している。
「団長。これ、部下たちにも読ませて構いませんか。この真実を、全隊員に……共有したい」
「当然だ。ただし、重ねて言う。マリエール様には死んでも悟らせるな。……我らだけで終わらせるぞ」
書簡の写しが、隊員たちの間を次々と回っていく。
内容が伝播するにつれ、軍幕内の空気は一変した。
「……っ!」
誰かが、歯の根が折れそうなほど強く奥歯を噛み締める。
その軋む音が、静寂の中で不気味に響いた。
拳を床に叩きつける者。
分厚い木机を、出血さえ厭わず殴り抜く者。
暗がりからは、獣のような憤怒の声、あるいは、マリエールのあまりの不憫さに耐えきれぬ慟哭のような呻き声が漏れ出した。
「マリエール様の恩を……あの方を! 敵に差し出して腱を切れだと!? 故郷を焼いて脅迫しろだと……ッ!!」
一人の若き騎士が、血を吐くような憤怒の声を上げた。
その顔は涙と怒りでぐちゃぐちゃだった。
「あの人は、俺たちを救ってくれたんじゃないのか!?子供たちを、家族を、故郷を、誇りを返してくれた英雄じゃないのか! あの人が現れるまで、この国のほとんどは帝国の占領地で、俺たちはみんな奴隷だったんだぞ! あの人を……あのお方を、なんだと思っていやがる!!」
怒号が渦巻く。
あちこちで鎧が擦れ合い、こらえきれない憤怒の熱気が、巨大な生き物のように軍幕を震わせた。
リュカが部下たちを睨み据え、野獣のような低い声で吠えた。
「聞いたな。俺たちが命に代えても守ってきたあの人の心を、王が泥で汚して敵に売った。……明日の戦い、表の敵は二十三万だが、裏の敵は王の密約だ。いいか、敵軍の中に『聖女の腱を切る』ために近寄る者がいれば、骨の一欠片も残さず断ち切れ。マリエール様には、泥一つ飛ばさせるな。一滴の涙も、一瞬の不安も与えるな。分かったか!」
「「「応ッ……!!」」」
地響きのような、しかしマリエールの寝所に届かないよう極限まで低く抑えられた咆哮。
「……鼠は一人も逃がさないわ。マリエール様の目に、ゴミは一つも映させない。いいね?」
イザベルが、温度を失った氷のような声で告げると、騎士たちは無言で拳を突き上げた。それは神に誓う騎士の儀式ではなく、悪鬼を屠るための血の誓約であった。
ガストンが再び口を開く。
「バカ王のせいで、マリエール様の作戦は全て敵に漏れている。だが、心配するな。むしろ好都合だ。奴らが『王からの情報通りだ』と確信し、油断したその瞬間に……地獄を見せてやる。これから、真の作戦を説明する。耳を貸せ」
二時間後。
空が白み始め、深い霧の中に一筋の光が差し込む頃。
いつもの穏やかな、しかしどこか憂いを帯びた微笑みを湛えたマリエールが軍幕に現れた。
その瞬間、騎士たちは一斉に立ち上がり、そしていつも以上に深く、懃に跪いた。
その瞳の奥には、王クロヴィスへの絶対的な処刑意志を完璧に隠し、主君への狂気的なまでの忠誠を宿して。
「おはよう、私の頼もしい騎士達。……あら、今日は特に一段と頼もしいわね? 」
マリエールの言葉に、騎士たちは一瞬だけ視線を交わした。
その胸の内には、彼女が「陛下も頑張っている」と喜んでいたことへの悲痛なまでの憐憫があった。
彼らは静かに、そして深く深く頭を垂れる。
出陣の直前。
馬上のマリエールは、自分の周りを固める聖女騎士団の面々を見渡した。
マリエールは彼らの内側に宿る「異変」に気づきながらも、あえていつも通り、一人の指揮官として接することにした。
「リュカ、今日は遅滞防御戦がメインよ。相手は圧倒的な数。消耗に気をつけて。貴方の隊が崩れれば、全軍の陣形が瓦解するわ。……無理はしないでね」
「――ええ、承知しています。何万来ようと、しっかりと受け流してみせます。マリエール様」
リュカは、手入れの行き届いた剣を鞘の中で鳴らし、鋭い眼差しで森の深奥を見据えた。
「イザベル。今日の貴方は私の護衛。私は最高の囮なの。……貴方が私の命を預かるのよ」
マリエールが柔らかく微笑みかけると、イザベルはその言葉の重みを噛み締めるように、愛用の大剣をギリリと握り直した。
「……もちろんですわ。何が来ようと、貴女の指一本にすら触れさせはいたしません。この命に代えても、貴女の安全はお守りします」
(あんな汚らわしい手紙を書いた男……殺してやる……)と、イザベルは心の中で毒づくように誓う。
「ソフィア、貴方の森からの狙撃は、この地形ではとても頼りになるわ。指揮官の兜の隙間や首、腋の下……防具の脆い場所を的確に狙って。敵の動きを止めるのよ」
「……はい、聖女様。お任せください」
「ごめんなさい。弓の名手に狙う場所まで細かく指示するなんて、少し無粋だったかしら」
「いえ、滅相もございません。……むしろ、とても光栄です」
ソフィアは淡々と、しかしその瞳には消えることのない炎を灯していた。
「ノア、貴方はとても大事。第一軍が敵を受け止めている間に、遊撃隊として背後から少しずつ敵の数を削いで。お願いね」
「……御心のままに」
ノアは鋼のような重みのある声で応じ、マリエールの斜め後ろ――最も死角となる場所へ、影のように滑り込んだ。
騎士たちの瞳に宿る、鋭利な忠誠。
マリエールは彼らの覚悟をそのまま受け取り、静かに胸を撫で下ろした。
(……ありがとう。皆のおかげで、私は戦場に立てる。私は、あなたたちの望む『聖女』として、この絶望的な戦いに勝ってみせるわ)
「信じているわ、皆を。……さあ、行きましょう! 」
マリエールの凛とした号令とともに、七万の軍勢が真っ白な霧の中へと、音もなく飲み込まれていった。
進軍する将軍たちの胸には、マリエールから贈られた銀のネックレスが鈍く光っている。
「貴方にウリエルの祝福を」
その刻印が、彼らにとっては聖女の慈悲であり、同時に裏切り者を断罪するための死刑宣告状となっていたのである。




