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第53話 聖女は余のもの

 ノワール半島。

 吹き荒れる夜風が、先日の砲撃により打ち捨てられた敵軍本拠地の一角で不気味に鳴り響いている。

 カイル率いる灰色のル・ルゥ・サングレは、静寂を切り裂く影となり、敵将の執務室へと滑り込んだ。

 狙いは情報の奪取。

 しかし、彼らが隠し金庫の奥底から見つけ出したのは、戦況を左右する軍事機密を遥かに超えた、吐き気を催すほどの「裏切り」の証拠であった。

「カイル!これを見てくれ!」

 部下が回収した一通の極秘書簡。

 そこには、見紛うはずもない新王クロヴィスの筆跡で、この国と、そして一人の少女の運命を切り売りする背信の契約が綴られていたのである。


 帝國皇帝陛下へ


 もはや臣下どもは聖女がいるからと増長し、正当なる王たる私の言うことを聞かぬ。

 

 そもそも聖女などというものは、神を冒涜する不浄な存在である。

 

 故に、貴国に我が国の作戦計画を譲渡する。

 

 我が軍を完膚なきまでに蹂躙してほしい。

 

 その際、聖女については足の腱くらいは切っても構わぬが、殺さずに私に譲渡せよ。


 二度と貴国に迷惑をかけぬよう、聖女は我が後宮に一生封印することを約束する。

 

 なに、所詮はただの村娘だ。


 言うことを聞かなければ、生まれ故郷の村でも焼き払えば、二度と貴国に楯突くような真似はできまい。


 聖女と引き換えに我が国の南西地方を譲渡しよう。


 これをもって、貴国との和平が成就し、互いに繁栄のあらんことを。

 

 レヴィオン王国第十代国王 

        クロヴィス・ド・リュシアン


 さらに、その手紙には数枚の紙が添えられていた。

 それは、先日王都で行われた軍議にて、マリエールが全幅の信頼を置いて披露した布陣図の正確な写し。

 そして、彼女が苦心の末に立てた作戦の概要を、軍事に疎いはずの男が事細かに記した解説書だったのである。


「……っ……ああ、ああああああ……ッ!!」


 カイルは喉の奥から、獣のような、あるいは地獄の底から響くような呻き声を上げた。

 手紙を握りしめる指先が、怒りで白く激しく震える。

 あまりの憤怒に視界が血の色に染まり、奥歯が砕けんばかりに鳴った。


「あの会議……陛下が慣れない手つきで、一生懸命メモを取ってるのを見て、マリエール様は……『陛下も頑張ってくださってる』って、あんなに嬉しそうに笑ってたんだぞ……! あれは!売るための情報を書き留めてやがったのか……!!」


 カイルは狂ったように壁を殴りつけた。

 石壁に拳がめり込み、皮が裂け、滴る鮮血が冷たい床に染みを作る。

 だが、その痛みさえ今の彼には心地よいほどだった。


「あの人の『信頼』を……あの真っ直ぐな心を泥で汚して、敵に差し出したのか……。クロヴィス、てめえだけは。てめえの首だけは、この俺が、誰にも譲らねえ……ッ!!」


 カイルは残りの破壊工作を部下に任せ、一人、夜闇を裂いて馬を飛ばした。

 泥を跳ね上げ、心臓が破れんばかりの速度で駆け抜け、ガストンの本陣へと転がり込む。


「ガストン将軍! これを……これを見てくれ! 王都のあの、人間のクズが、あの日書き記した私欲の塊だ!」


 全身血と泥にまみれ、鬼気迫る形相のカイルから手紙を奪い取ったガストンは、最初こそ怪訝な表情を浮かべていた。

 しかし、読み進めるうちにその顔は猛火のように赤黒く染まり、最後には全身から周囲の空気を歪めるほどの凄まじい熱量を放ち始めた。


「軍事に疎いくせに、殊勝に何かを書き留めていると思ったが……これほどまでに克明に書き写していたとはな……ッ!!」


 ガストンの巨大な拳が振り下ろされ、分厚い木机の端が凄まじい音を立てて砕け散った。


「マリエール様の慈悲を……あの方が我らに差し出した教えを、そのまま刃にしてあの方の腱を切れだと!? 故郷を焼いて心を折るだと……? 貴様は王ではない! 人間の皮を被った、ただの蛆虫だぁ!!」


 地響きのような唸り声が幕舎を震わせる。

 ガストンは拳を震わせ、殺意のあまり吐血せんばかりの気迫で立ち尽くしていた。


 事態はもはや、一刻の猶予も許されない。

 ガストンは即座に主要将軍たちを、軍幕から離れた場所にある廃教会へと秘密裏に招集した。


 集まった将軍たちの反応は、静かなる発狂に近かった。

 手紙を読み終えたエティエンヌは、愛用の扇を無造作に、二つにへし折った。

 ロランはただ無言で、腰の剣の柄を、指の形が変わるほどに握り込んでいる。


 沈黙の中、将軍たちは次々に、それぞれ隠していた銀製のネックレスを強く握りしめた。

 マリエールから授けられた、「貴方にウリエルの加護を」と刻印された、彼女の祈りが込められたプレート。

 その刻印が、彼らの手のひらに深く食い込む。

 彼らの感情は、もはや言葉にできる怒りを超えていた。

 それは、王クロヴィスをこの世から根絶やしにするための、冷徹な処刑意志へと昇華されたのである。


「……もはや、王ではない。ただの罪人だ」


 レオンハルトが、恐ろしく冷静な、温度を失った声で手紙を卓へ置いた。  

 その瞳には、かつてないほど深く暗い殺意が澱んでいる。


「あの時の『努力』とやらは、マリエール様を幽閉し、手籠にするための準備であったか……。クロヴィス。貴様には、死よりも長く、救いの一欠片もない絶望を味わわせてやろう。マリエール様のその足を切り裂こうとした罪、万死を持ってしても足りぬ」


「珍しく聖女様に作戦の仔細を問い直していたあの姿。その全てが、この裏切りに繋がるとはな」

 ジャンが、冷たく歪んだ笑みを浮かべた。その眼光は、荒れ狂う冬の海のようであった。


「あやつの望んだ蹂躙。そのまま本人に、最も残酷な形で返して差し上げましょう。作戦が漏れている? 結構。敵も、そして王の汚らわしい野望も、まとめてこのノワールの海に沈めてやりますよ。我ら軍人は、あの方の知略を汚す不浄なものを掃き出すためにこそ、剣を持っているのだから」

 将軍たちはその場で、マリエールの策を「表」のまま実行させつつ、独自に「裏」の修正を加えることを決議した。


 漏れた情報を逆手に取り、敵が「クロヴィス王から得た情報通りだ」と確信して罠に飛び込んだ瞬間に、さらにその外側から包囲を完遂し、物理的にも絶望的にも逃げ場を失わせる「地獄の二重網」を作り上げたのである。


「カイル。お前たちは、さらに王の周辺を洗え。後になって『帝国の謀略』だとか、『偽書だ』などという見苦しい言い訳を一切させないためにな。奴の筆跡、印章、繋がりのあった帝国工作員……そのすべてを洗い出し、退路を物理的にも論理的にも完全に塞ぐのだ」


 レオンハルトの氷のように冷徹な命に、カイルは不敵な笑みを浮かべた。

 彼は懐からナイフを抜き放つと、迷いなく卓の「王の署名」のすぐ隣に突き立てた。


「了解だ。……マリエール様の『心』を踏みにじった報い、一欠片の慈悲も残さず、徹底的に追い詰めてやる。――残虐な処刑の下準備ということでいいんだよな?」


 その問いに、居並ぶ将軍たちは誰一人として視線を逸らさず、同時に、深く重く頷いた。

 その沈黙は、王殺しの罪を共有する血の盟約にも等しかった。


 それを見届けたカイルは、一瞬で気配を消すと、夜の静寂を切り裂く風のように馬を走らせ、闇の彼方へと消え去った。


 翌朝。

 何も知らぬマリエールが、いつものように凛とした表情で軍議の席に着いた。

 彼女は、自らの王が自分を売り飛ばしたことなど、まだ夢にも思っていない。


 将軍たちは立ち上がり、いつも以上に深い敬意を込めて彼女に跪いた。

 だが、その伏せられた瞳の奥に宿るのは、忠義という名の「王への絶対的な処刑意志」。


 聖女の知らないところで、七万の王国軍は「王を討つための軍」へと、静かに、しかし確実変貌を遂げたのである。

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