第52話 運命を変えるための戦い
作戦会議を終えた深夜、王城のテラスは凍てつくような静寂に包まれていた。
マリエールは一人、欄干に手をかけ、遠く西の空を眺めていた。
夜風が彼女の黄金色の髪を激しく揺らすが、冷たさを感じる余裕さえない。
マリエールの指先は、止めることのできない小刻みな震えに支配されていた。
脳裏に焼き付いているのは、地図に描かれたあのノワール半島の歪な輪郭だ。
それは前世において、彼女が敗北の泥を舐め、冷たい鎖に繋がれ……そして、最終的に燃え盛る火刑台へと引きずり出された、地獄の入り口そのものだったのである。
前世、帝国軍師カシウス・フォン・ヴォルフラムとの大会戦。
カイルの報告によれば、今の戦場に彼の姿はないという。
マリエールが何よりも先に欲したその情報は、本来なら安堵をもたらすはずのものだった。
だが、それでも彼女の胸に巣食う闇は晴れない。
(……落ち着きなさい、マリエール。前世で彼と戦ったのは十九歳の時。今の私はまだ十五歳。きっと彼はまだ、軍を率いる立場にはいないはずだわ。前世と同じはずがない……。そう、今回は草原での会戦には応じない。敵の退路を絶ち、あの森で決着をつける。負ける要素はないはずなのに……)
どれほど論理的に自分を説得しようとしても、肌を舐める灼熱の業火の記憶が、思考を白く塗りつぶしていく。
「……同じだわ。地形も、湿り気を帯びた風の匂いも。あの日と同じ、絶望の味がする」
かつて、あそこで彼女はすべてを失った。
信じた民に裏切られ、王であり夫であったはずのクロヴィスに無残に捨てられ、たった一人で炎に焼かれたのだ。
喉の奥からせり上がるのは、嘔吐感にも似た根源的な恐怖。
マリエールは膝の力が抜け、その場に崩れ落ちるようにうずくまった。
魂魄にまで刻み込まれた深い絶望が、彼女が今、ここに立つための力さえ根こそぎ奪い去ってゆく。
視界は涙で無残に歪み、大粒の雫が冷たい石畳にポツリ、ポツリと、逃れられぬ運命の刻印を打つように暗い染みを作っていった。
「……マリエール様。このような夜更けに、ここにおられましたか」
低く、包み込むような声音が静寂を破った。
その直後、震える肩を厚手のマントが優しく覆う。
振り返らずとも、それが誰であるかは分かっていた。
「レオンハルト……。私、怖いの。あそこに行けば、私はまた……焼かれてしまう。逃れられない運命が、大きな口を開けて私を焼き殺そうと待っているのよ」
マリエールは、子供のように顔を覆って震えた。
完璧な軍略を語り、凛として将軍たちを従える「聖女」が、今、この瞬間。自分にだけ見せている、あまりに脆い素顔。
レオンハルトにとって、彼女が怯える「前世の記憶」など知る由もない。
彼から見れば、彼女の言葉は深い疲労ゆえの錯乱か、あるいは予知に近い類のものに聞こえただろう。
だが、彼にとって理由など、塵ほどの意味もなかった。
レオンハルトは無言で彼女の前にひざまずいた。
そして、石畳の上で凍えていた彼女の小さな両手を、戦い抜いてきた自らの大きな掌で、壊れ物を扱うように包み込んだのだ。
「マリエール様。貴女様が何を見ておいでか、私には分かりません。ですが、これだけは断言いたしましょう」
レオンハルトの瞳には、一切の迷いもなかった。
「マリエール様……忘れないでください。貴女様の後ろには、このレオンハルトという盾がいることを。命に代えても、貴女様を護り抜くと誓います」
その掌から伝わる、痛いほどの熱。
マリエールは我慢できず、彼の胸に顔を埋めて声を殺して泣きじゃくった。
氷の騎士は、ただ黙って、彼女の心が静まるまで、夜風からその小さな身体を隠し続けていた。
翌朝。
作戦会議室に現れたマリエールに、昨夜の涙の跡は微塵もなかった。
その瞳はブルーサファイアの冷徹な輝きを宿し、卓上に広げられた地図を鋭く見つめている。
「作戦を伝えます。……敵は二十三万。極限状態にある彼らは、我らが軍を見せれば全軍で打って出るでしょう。そこを……『フォレ・ド・オンブル(影の森)』へと引きずり込み、叩きます」
マリエールの指が、半島から続く広大な森を指した。
「第一段階――『誘引』。これには正面軍三万を充てます。第一軍、レオンハルト将軍。そして第六軍、マキシム将軍」
マリエールの声に熱がこもる。
「敵の猛攻を正面から受け止め、凄まじい圧力を耐えながら後退してください。……これは最も過酷な任務です。敵が『勝てる』と確信し、全軍が半島から完全に引きずり出されるまで、一糸乱れぬ偽装敗走を行わねばなりません。一兵のほころびも許されない、死の行軍です」
「……お任せを。下がることは、進むことより難しい。だが、成して見せましょう」
レオンハルトが静かに、だが鋼のような意志を込めて応じた。
「第二段階は『挟撃』。両翼軍二万による包囲です。左翼は第二軍エティエンヌ、第七軍シルヴァン。森の西側に潜伏し、敵の先頭が森を抜けようとした瞬間、側面から突き上げなさい。敵の陣形を中央へ、逃げ場のない森の深奥へと圧縮するのです」
「はっ! お任せください!」とシルヴァンが拳を鳴らす。
「右翼は第三軍ロラン、第五軍アンリ。森の東側から突き上げ、敵の殿を断ち切る。左翼と呼応して完全な半包囲体制を敷き、半島への退路を物理的に封鎖。これで二十三万の退路は消えます」
マリエールは一度言葉を切り、最後の一手を指し示した。
「第三段階――『殲滅』。第四軍のジャン将軍は海路を完全に封鎖し、逃げ場を失った敵が海へ逃れるのを阻止。そしてカイル、あなたたちは……」
「了解だ。マリエール様」
カイルが不敵な笑みを浮かべ、短剣の柄を叩いた。
「敵陣中での略奪、放火、そして『総司令官が逃亡した』という流言。空腹の植民地兵たちを疑心暗鬼の極致に叩き落とし、指揮系統を内部から瓦解させてやろう。あいつらを森の罠へ、羊みたいに追い立ててやればいいんだろ?」
「ええ。……そして、敵が森の入り口、私の足元に達した瞬間。私が『初撃』に神威を使います。純白の光で敵の戦意を根こそぎ奪い、そこへ全軍で包囲殲滅をかけなさい」
その言葉に、会議室の空気が凍りついた。
「……マリエール様。神の剣の使用は、我らが反対したはずです!」
ガストンが苦渋の表情で叫んだ。
神の力を行使することが、彼女の肉体と精神にどれほどの負荷をかけるか。彼はそれを案じていた。
だが、それを制したのは、誰よりもマリエールの身を案じているはずのレオンハルトであった。
「分かりました……ただし、マリエール様、一度きりです」
「レオンハルト! 貴様、何を!」
ガストンが詰め寄るが、レオンハルトの冷徹な一言がそれを止める。
「ガストン、わかっているはずだ。追い詰めたとはいえ二十三万という数の暴力を、一瞬で瓦解させる衝撃を与えられるのは、マリエール様の神剣以外ない。……マリエール様が力を放つその瞬間、我ら正面軍は文字通り、一兵たりとも彼女の前に敵を通さぬ鉄壁となる。マリエールを完璧に護り抜き、崩れた敵を完璧に蹂躙する。それこそが、我らの忠義ではないのか」
「……っ、おのれ……」
ガストンは拳を卓に叩きつけた。
己の無力さを呪う。マリエールに頼らざるを得ない現状を呪う。
しかし、彼女の決然としたサファイアの瞳を見たとき、言葉を飲み込まざるを得なかった。
「敵が釣られなければ、そのまま海と陸から真綿で首を絞めるように包囲するのみ。……完璧な策ですな、マリエール様。もはや勝利の形は見えております」
ガストンの絞り出すような肯定に、マリエールは小さく頷いた。
「全軍、出陣! 敵はノワール半島二十三万。……今度こそ、私たちの手で、この国の呪われた過去を終わらせるのよ!」
「「「おおおおおっ!!」」」
将軍たちが一斉に抜剣し、銀色の輝きが会議室を埋め尽くした。
七万の王国軍は、マリエールが構築した精緻な「死の方程式」を抱き、因縁の地へと動き出したのである。
進軍の馬列。
レオンハルトの隣で騎行するマリエールは、馬の揺れに身を任せながらも、激しく頭を振っていた。
何度払拭しても、何度目を閉じても。
頭の裏側には、赤々と燃える火刑台の記憶が、熱風と共に去来する。
手足を舐める灼熱の業火の記憶が脳裏を掠める。
(大丈夫……。昨日のあの手の温かさが、まだ残っている。私は一人じゃない。……運命を、今度こそ変えてみせる!)
ノワール半島の向こうから、飢えた巨獣たちの不気味な咆哮が風に乗って聞こえ始めていた。
運命の歯車が、轟音を立てて回りだす。
マリエールの震えは止まらない。




