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第51話 戦場の聖女、玉座の置物

 王国北西部に突き出したノワール半島。

 そこは背後に峻険な山脈が壁のようにそびえ、陸路からの大規模な補給は物理的に不可能な、天然の巨大な牢獄であった。

 この地に集結した敵二十三万の命運は、ひとえに海からの補給船団に委ねられていた。

 だが、その生命線はマリエールの一言によって断ち切られようとしていた。


「まず、海を沈黙させるわ。そして敵の備蓄を全て断ちます」


 作戦前日、作戦会議室。

 アルベール先王は隣に座り、緊迫した空気の中で何か不器用にゴソゴソと羊皮紙に書き写している新王クロヴィスを、氷のような視線で射抜いた。


「……クロヴィス。貴様はこの報告を聞いて、一体何を感じる?」


「は、はい! 父上。マリエールは頑張っており、私も彼女を王妃に迎える決意をより一層固め……」


「――まだそんなことを言っているのか、この阿呆あほうがッ!」


 ガストンの怒号が会議室の窓をビリビリと震わせ、先王が杖で床を激しく叩いた。

 石畳の床に鈍い音が響き渡る。


「貴様、マリエールがこの策を成すために、どれほどの重圧に耐えているか分かっているのか! 彼女が相手にしているのは、二十三万の飢えた人間という巨大な絶望なのだ。一つ間違えば国が滅ぶ瀬戸際で、色恋にうつつを抜かす暇があるなら、一文字でも多く戦術を覚えろ。民のために知恵を絞れ! 万死に値する愚かさよ!」


 先王の叱責と将軍たちの突き刺さるような軽蔑の視線に、新王は力なくうなだれ、震える手でペンを置くしかなかった。


 会議が終わった後。

 張り詰めていた糸がふっと切れたようにマリエールがふらついた瞬間、背後から逞しく大きな手がその肩を支えた。


「……無理をなさいましたな、マリエール様」


 低く、どこか懐かしい響き。

 振り返ると、そこには北方任務を終えて密かに王都へ駆けつけた、第一将軍レオンハルトの姿があった。


「レオンハルト……。……あ、お手紙、本当に嬉しかったわ」


 思わず頬を染めるマリエール。

 鉄面皮で知られる「氷の騎士」が、その言葉を聞いて、わずかに目元を和らげた。


「お疲れのようです。少し、外の空気を吸いに行かれませんか。聖女としてではなく、あなたとして」


 それは軍師でも聖女でもない、一人の少女として経験する、初めての異性との二人きりの散策であった。

 夕闇の迫る王都の市場。活気あふれる人混みの中で、レオンハルトはマリエールが通行人に押されないよう、さりげなくその大きな体で背後をガードし、盾となる。


「レオンハルト、そんなに用心しなくても大丈夫よ。ここは安全な王都だもの」


「いいえ。戦場であれば敵を斬るだけですが、ここでは……貴女様を傷つける可能性のあるあらゆる不快なものから、私がお守りせねばなりませんから」


 不器用だが、一言一言に重い真実が込められた言葉。

 マリエールは胸の奥が温かくなるのを感じ、幸せそうに微笑んだ。


「ふふ、ここには私を傷つけようとするものなんて、何一つ無いわよ」


「そうですね。つい……貴女様の前では、過剰になってしまうようです」


 レオンハルトがふいに見せた、少年のようなはにかんだ笑顔。

 それにマリエールの鼓動は激しく跳ね上がった。

 二人は屋台で買った温かい焼き菓子を半分こにして分け合い、夕暮れの茜色に染まる王都を、歩幅を合わせるようにして静かに歩いた。


 ……その二人の数メートル後ろ。

 物陰、露店の影、そして建物の屋根の上。そこにはガストン、シルヴァン、そして「灰色の狼」たちが、戦場以上の殺気と真剣な眼差しで二人を監視していた。


「……見たか、シルヴァン。レオンハルトの奴、マリエール様の袖が微かに触れただけで、飛び跳ねおったぞ。あいつ、実戦より動揺してやがる。軟弱者が」


「なんですか?あの会話は! 緊張し過ぎて会話が成立していないじゃないか。見ていられん。マリエール様が困っていらっしゃる!」


「シルヴァン、声がデカい! 見つかるだろうが! ……だが許せん。今の距離感、握り拳一つ分もないぞ。あと少し近づいたら突撃する。いいな」


「カイル、お前らも何とか言え! お前らの主人の危機だぞ!」


 カイルは壁に背を預け、冷めた目で短剣を弄りながら呟いた。


「……俺たちは、あいつがマリエール様を悲しませるような真似をしたら、即座に闇に連れ去る準備をするだけだ……」


 王国最強の将軍たちと、史上最恐の隠密組織に見守られながら。

 マリエールは束の間の、そして生涯忘れられないほど穏やかで甘やかな時間を過ごしていた。


 作戦当日。

 戦略会議室。

 卓上に広げられた地図の上には、ノワール半島の狭い入り口を塞ぐように、赤と青の駒が密集していた。


「現在の我が軍の総兵力は、各都市からの援軍を合わせて七万。対する敵は二十三万……。数的優位はいまだ絶望的なまでに敵にあります」


 第三将軍ロランが、慎重な手つきで駒を動かした。


「ですが、解放した南西諸都市から続々と義勇兵や元駐屯兵が合流を申し出ています。あと一月……いや、三週間も待てば、我が軍も十万の大台に乗るでしょう。そうなれば勝率は跳ね上がります」


 その言葉に、会議室には「慎重な待機」の空気が流れ始めた。

 数で劣る現状、時間をかけて軍を膨らませるのは、兵法における定石である。

 しかし、その淀んだ空気を、マリエールの凛とした声が切り裂いた。


「いいえ。一月も待っては、私たちは負けます」


 マリエールは立ち上がり、地図上のノワール半島の港を指差した。


「灰色の狼が報告した通り、敵の二十三万は今、極限の空腹と不信感、そしていつ襲われるか分からない恐怖の中にあります。ですが、彼らは『兵』なのです。追い詰められ、座して死を待つだけになれば、彼らは生き残るために一塊の狂気となって半島から溢れ出すでしょう。そうなれば、七万の軍勢など紙細工のように食い破られ、王都まで蹂躙されます」


 サファイアブルーの瞳が、歴戦の将軍たちを真っ向から射抜く。


「敵が『軍隊』としての形を保てず、指揮系統が混乱しつつある『今』。この瞬間こそが、最も犠牲を少なく叩ける唯一にして最後の機会です。七万で十分。……いえ、七万という数でなければ、この迅速な包囲殲滅は成し得ません」


「……なるほど。敵が『死兵』と化す前に、その脆くなった心を物理的に叩き折れ、というわけか」


 第一将軍レオンハルトが、力強く頷いた。


「マリエール様の仰る通りだ。数が揃うのを待つのは、戦の本質が見えていない凡将の策。敵が内部から崩れ、疑心暗鬼に陥っているこの瞬間を逃す手はない」


「はっ、七万でも多すぎるくらいだ! 飢えた二十三万など、我らの精強な騎馬で一揉みにしてくれるわ!」


 ガストンが咆哮し、ジャンが不敵に笑う。


「ジャン将軍。今晩、海からの封鎖をお願いできますか?」


「ああ。言われた通り準備は出来てるぜ!一隻の小舟、一つの樽さえ海には流させん。敵はおかで干上がり、背後の険しき山脈を呪いながら絶望することになるだろうよ」


 ジャンの力強い言葉に、マリエールは静かに頷き、言葉を続ける。


「ありがとうございます。――『狼』たちの放火を合図にしてください。火の手が上がった箇所を目印として、ジャン将軍、港湾施設内部へ向けて砲撃を開始。敵の退路と補給能力を、根こそぎ粉砕します」


 その冷徹かつ緻密な一言に、将軍たちの脳裏には、鮮明な破滅の光景が浮かび上がっていた。

 二十三万という膨大な胃袋を支える生命線が断たれ、唯一の補給路である港が火の海に沈む。

 食糧を失い、逃げ場を失い、内部から腐り落ちてゆく大軍の無惨な姿を。

 もはや誰も、目の前の少女を「ただの聖女」とは見ていなかった。

 彼女は、軍事的な常識を何度も覆す稀代の軍略家であった。


 この熱い激論の間、新王クロヴィスはただの一言も発することができなかった。

 彼は突きつけられていた。

 自分がいかに軍事に無知なのか。

 そして、目の前の少女が、いかに戦略や戦術に長けて、勝利をデザインしているかを。


 アルベール先王は、王たる実の息子を見ることなく、マリエールを静かに見つめて告げた。


「……マリエールよ。七万の命、すべてお前に預ける。ノワール半島を、この王国の新たな夜明けの地とせよ」


「――御意に」


 マリエールが深く頭を下げると、将軍たちも一斉に立ち上がり、一糸乱れぬ動作で剣を掲げた。

 その時、独りだけ座ったまま、動けなかったのはクロヴィスただ一人であったが、誰も彼を気にする者はいなかった。


 会議室の外、柱の影の中で待機していたカイルが、マリエールの視線に気づいて小さく頷く。


(……準備はできてるぜ、マリエール様。あんたが動くその瞬間に、今夜、敵の陣中で『本物の地獄』を始めてやるよ)


 暮れなずむ陽光が失われ、蒼海が静かに漆黒の淵へとその色を沈めてゆく。

 マリエールの冷徹な命を受け、第四将軍ジャンの艦隊が闇に紛れて静かに展開する。

 それと同時に、半島内部に潜入していたカイル率いる「灰色のル・ルゥ・サングレ」が動いた。

 闇の中、敵の巨大な食糧備蓄倉庫から次々と火の手が上がる。

 オレンジ色の炎が夜空を焦がすと同時に、狼たちが仕込んだ毒――「流言」が陣中を駆け巡った。


「総司令官は食糧を横流しして私腹を肥やしている。本国は司令官の横領を黙認し、我らを見捨て、この半島で飢え死にさせるつもりだ」


 その噂は、極限状態に置かれていた植民地兵たちの猜疑心に爆発的な火をつけた。

 

 混乱の極致にある港を、待ち構えていたジャンの艦隊が猛然と粉砕する。


 降り注ぐ鉄球は敵艦のマストを容赦なく叩き折り、巨大な帆が断末魔を上げるかのように轟音を立てて崩落した。

 あらかじめ「狼」たちの手によって細工され、引き千切られた帆脚索や揚帆索といった索具が、砲撃の衝撃で跳ね、さながらのたうつ大蛇のように甲板を暴れ回る。

 それは逃げ惑う敵海兵たちの足を無慈悲に(すく)い、手足の肉をそぎ飛ばし、骨を容易に砕いては、彼らを重い海の底に叩き込んでいた。


 海からは絶え間ない砲火、陸からはカイルたちが放った劫火。

 逃げ場を失い、胃袋を満たす糧さえ失った二十三万の巨獣は、こうして逃げ場のない半島へと完全に孤立したのである。


 七万の王国軍が、二十三万の飢えた巨獣を仕留めるべく、ノワール半島へと進軍を開始した。

 それは軍事的な衝突というより、マリエールが仕掛ける、絶望的なまでの兵力差に対する挑戦だった。

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