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第50話 二十三万の絶望

 南西部全域を平定し、帝国が圧政を敷き、不当に占拠していた地域を「平穏」へと塗り替えたマリエール。

 王都カストル・ノワールへと続く凱旋路は、もはや一つの巨大な祭典会場と化していた。

 沿道を埋め尽くす民衆の歓喜は、とどまるところを知らない。

「聖女様! 我らの救世主マリエール様!」

「慈愛の光を! どうかこちらを向いてください!」

 降り注ぐ色とりどりの花びらが空を舞い、馬車の後方には民衆からの感謝の印である寄贈品が、山のように積み上げられていく。

 だが、白馬に跨り、民の熱狂に優雅な微笑みと手振りで応えているのは、マリエールの影武者として旅装を纏った侍女のエミリであった。


 本物のマリエールは、厳重に警護された馬車の奥深くで、老従者ピエールの介添えを受けていた。

「……お嬢様、申し訳ありません。ですが、行軍中のあのご声援をすべてお一人で正面から受け止めては、王都に着く前に御身が倒れてしまわれます」

 ピエールが痛ましげに、青白い彼女の額に濡れたタオルを当てる。

「……分かっているわ、ピエール。みんなの気持ちは嬉しいけれど、今の私にはこの揺れさえ少し堪えるわね……」

 マリエールは力なく微笑み、膝の上に広げられた寄贈品のリストに目を落とした。

「でも、このリストは正確に整理しておいて。高価な宝飾品や絹織物はすべて国庫へ。戦災で家を失い、明日をもしれぬ南西部の民のために使うよう、新王陛下に釘を刺しておかなくてはならないわ。彼らに『食糧』と『屋根』を与えてあげて」

 

 頬にうっすらと蓄積した疲労の色を滲ませながらも、マリエールの思考はすでに己の休息など意識の外へと追いやり、次なる国造りという冷徹な未来図へと向かっていた。


 王都到着後。休息のいとまも与えられぬまま、城内では緊急軍事会議が召集された。

 重厚な円卓には、退位した今も隠然たる威圧感を放つアルベール先王と、憤怒の形相を隠そうともしない将軍たちが顔を揃えていた。

 その視線の先で、居心地悪そうに肩を丸めているのは、新王クロヴィスである。


「……クロヴィスよ。貴様、マリエールが泥にまみれ、戦地で命を削っている間に、一体何という破廉恥な書簡を送ったのだ」

 アルベール先王の冷徹な声が、凍てつくように会議室に響く。

「あ、父上、それは……誤解です。私はただ、彼女への溢れんばかりの愛を、詩的に表現しようと……」

「黙れッ!」

 ガストンが耐えかねたように机を叩き、巨躯を乗り出した。

「陛下! マリエール様は南西の寒風に耐え、我ら不甲斐ない将軍を叱咤激励し、文字通り命懸けで勝利を掴み取られたのですぞ! その清廉な御心に、宝石だの王妃の座だのという下俗な誘惑を投げ込むとは……貴殿はまだ、あのバルタザールと同じ色ボケた夢を見ているのか!」


「全くだ。マリエール様に代わって、この私が今すぐ貴殿を海軍の錨に縛り付けて、海に沈めても良いのですぞ!」

 第四将軍ジャンまでもが、逆立った髭を震わせて怒り狂う。

 王国の最高権力者であるはずの新王は、「王とは、これほどまでに叱られるものなのか……」と、涙目で隣に立つ執事を見つめるしかなかった。


 だが、その場の私怨を吹き飛ばすほどの急報が、会議室の空気を一瞬で氷点下へと叩き落とした。

 王国北西部、敵本国と海を隔てて最も近いノワール半島。

 そこへ、敵の大増援兵力が、水平線を埋め尽くすほどの規模で続々と上陸を開始したという。


「……敵の総勢、推定二十三万。……二十三万だと?」

 ロラン将軍が地図を見つめ、声を震わせた。

「報告によれば、本国の正規軍のみならず、植民地から強引に徴用された異人種……褐色や黒色の肌を持つ兵らも多数混ざっているとのこと。これは、小手先の戦いではない。敵の本国が、この地を最後の決戦場に選んだ証だ」


 二十三万。

 王国全軍をかき集めても、その三分の一に満たない。

 圧倒的な数の暴力に、将軍たちの顔に絶望の色が過る。

 マリエールが、重い口を開こうとしたその時――。

「狼たちに詳細を……」


 言いかけた彼女の手元に、一通の汚れた小さな紙片が届けられた。


『マリエール様。報告を待たずに出発した無礼をお許しください。狼の鼻は、死の臭いに敏感なものでね。――お味方の準備が整うまで、無謀な手出しは無用。我らが勝利の「鍵」を持ち帰ります。 カイル』


 それから数日後。

 

 嵐の予感に震える会議室の窓を、コンコンと叩く音がした。

 ピエールが窓を開けた瞬間、音もなく室内に滑り込んできたのは、全身を返り血と泥に汚し、獣のような鋭い眼光を放つカイルであった。


「戻りました、マリエール様」

「カイル! 無事だったのね?」

 駆け寄るマリエールに、カイルは不敵な笑みを浮かべ、懐から一束の汚れた書簡と、奇妙な蛇の意匠が施された黄金の印章を取り出した。


「最高級の情報です。敵軍二十三万……だがその内実は、湿った砂で作った『楼閣』に過ぎない。無理な徴用によって、植民地兵たちの反感はすでに爆発寸前だ。そしてこれが……敵の総司令官が本国に送った、兵糧を横流しして私腹を肥やしている裏帳簿の原本です。これに黄金の印を添えて兵たちにバラ撒けば、彼らの士気は地の底に落ち、戦う前に瓦解するでしょう」


 会議室に、驚愕と歓喜のどよめきが走った。

「……これがあれば、二十三万を正面から叩く必要はないわ」

 マリエールのサファイアブルーの瞳に、絶望を切り裂く冷徹な軍師の輝きが宿る。


「ガストン将軍、ジャン将軍。……戦わずして二十三万を自滅させる『罠』を仕掛けましょう。カイル、あなたたちの持ってきたこの『鍵』で、ノワール半島を敵の墓場に変えてあげるわ」


「ははっ、仰せのままに、マリエール様!」

 将軍たちの地を這うような咆哮が響き渡る。

 二十三万という途方もない絶望を前に、少女は初めて、残酷で美しい勝利を確信して微笑んだ。

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