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第5話 広場

 ピエールに抱きしめられ、泥だらけのまま泥のように眠った翌朝。

 マリエールは、窓の隙間から差し込む柔らかな光の中で目を覚ました。

 台所からは、パチパチと薪がはぜる心地よい音と、少し焦げたパンの香ばしい匂いが漂ってくる。

 それは、前世の冷たく湿った監獄で夢にまで見た、ありふれた、けれど奇跡のような「生」の気配でした。


「お嬢様、ようやくお目覚めですか。さあ、温かいうちに召し上がってください」

 年老いた使用人のピエールが差し出したのは、ひび割れた木椀に入った具のないスープであった。

 マリエールはそれを一口啜り、熱さが喉を通る感覚に、再び涙が溢れそうになるのを堪えた。

 今度は、この温もりを絶対に手放さない。

 私の野心や王子の理想の「犠牲」には、誰一人としてさせはしない。


 それからの数日、マリエールは取り憑かれたように村の仕事に打ち込んだ。

 薪を割り、畑を耕し、家畜の世話をする。

 農婦としての泥にまみれた暮らしこそが、自分を「悪女」から遠ざけてくれる唯一の結界であるかのように。

 しかし、運命は彼女を放っておかなかった。

 森でマリエールの「奇跡」を目の当たりにした王子クロヴィスは、寝食を忘れてヴァル・ド・ロゼ一帯を捜索させていたのである。

 村の入り口には日に日に騎士たちの姿が増え、静かだった村に、じわじわと不穏な空気が流れ始めました。


「最近、王宮の連中がうろついてやがる。何か宝物でも探しているのかねぇ」

 村人たちの不安げな声を聞きながら、マリエールの右手に刻まれた見えない紋章が、呼応するように熱を帯び始める。

(来ないで……。私はもう、貴方の知っている「都合のいい聖女」じゃないわ)


 マリエールはピエールに「少し森へ薬草を摘みに行ってくる」と嘘をつき、村外れの広場で独り、精神を研ぎ澄ませた。

 右手に宿る純白の『ウリエルの剣』。

 左手に展開する蒼い『ウリエルの盾』。

 そして体に漲る、神威の力。

 それは、勘違いで聖女だと思い込んでいた紛い物の前世とは異なり、今の彼女の「怒り」と「執念」に呼応して、より鋭く、より禍々しいまでの美しさを放っていた。

 その力は、あまりにも強大すぎて、振るうたびに彼女の寿命を削り取っていく。


 そして、ついにその日が訪れた。


「道を空けろ! 王家より派遣された騎士団であるぞ!」


 蹄の音が静かな村を震わせ、広場にクロヴィス率いる精鋭騎士団がなだれ込んできた。

 彼らは「聖女」を捜索するという大義名分を掲げながら、貧しい農家の蓄えを土足で踏みにじり、反抗する村人を力でねじ伏せていく。

 外から聞こえるのは、幼馴染の少年が騎士に蹴り飛ばされる悲鳴と、略奪を愉しむ男たちの下卑た笑い声であった。


「ピエール、スープを温めて待っていて。……すぐに、掃除を終わらせてくるわ」

 マリエールの瞳には、すでに迷いは消えていた。

 ボロ布のような服を纏い、マリエールはゆっくりと広場へ歩み出た。


 彼女の前に立ち塞がったのは、騎士団の中でも「不落の重盾」の異名を持つ屈強な騎士。

 彼は王家から下賜された漆黒の盾を地面に突き立て、マリエールをナメ回すように見つめて唾を吐き捨てた。

「おいおい小娘。その煤けた顔で神の使いだと? 笑わせるな。神への奉仕を語るなら、まずは俺たちの寝床で鳴き声を上げてみせろ。そうすれば、少しは『授かりもの』があるかもな!」


 騎士たちの下品な爆笑が響き渡る。

 その瞬間、マリエールの瞳が人とは思えぬ鮮烈なサファイアブルーの光を放った。

 それは、内側から肉体を焼き尽くさんばかりの、聖なるエネルギーの脈動でした。

「……私は神の啓示を受けた。そして、あなた方のような『汚物』を掃除せよ、と」


 マリエールは迷いのない足取りで進んだ。

 騎士は本能的な恐怖を感じ、反射的に自慢の盾を構える。

「人が、天の理に勝てるとお思いですか。その醜い舌ごと、断ち切りましょう」


 刹那。


 純白の『ウリエルの剣』が顕現した。


 一閃。


 誰の目にも捉えられぬ神速の光が空中に刻まれる。

 「不落」と謳われた鋼鉄は、まずは一太刀で無慈悲に跳ね上げられ、空中でさらに七つの閃光が奔り、瞬時に八つの破片へと解体された。


「……なっ!?」

 驚愕する騎士の頭上から降り注ぐ鋼の残骸を、マリエールは静かに左手を一振りして迎え撃つ。

『ウリエルの盾』

 透明な力場に触れた残骸は、パチパチと音を立てて光の粒子へと変わり、塵一つ残さず虚空へと消滅した。

 

 物理法則を無視した圧倒的な力の前に、騎士はただの鉄屑となった柄を見つめたまま、泥濘に座り込むしかなかったのです。


 死のような静寂の中で、王子クロヴィスだけが、狂喜と畏怖に震える声でその名を呼んだ。

「ああ……やはり。やはり、貴女だったのか……! ヴァル・ド・ロゼに舞い降りた、我が国の救世主よ!」


 跪く王子を冷たく見下ろしながら、マリエールは自らの内を流れる「命を削る力」の感触を噛み締めていた。

 今度こそ、誰の道具にもならない。

 神が私に求めたのは、救済ではなく、断罪だったのかもしれない。

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