第48話 騎士と群狼
南西部最大の「壁」と謳われた要塞都市フェラン。
その重厚な石造りの外壁は、本来ならば数ヶ月の包囲戦にも耐えうる堅牢さを誇っていた。
本陣の天幕で、マリエールは静かに作戦図を見つめ、密かに、しかし熱烈な決意を固めていた。
(……今度こそ、今度こそよ! ガストンたちの過保護なガードを華麗に潜り抜け、あのフェランの尖塔に立つ。そして、朝日をバックに神剣ウリエルを抜き放ち、眩い光で敵軍をひれ伏させる……。完璧なシナリオだわ。セリフも三パターンは用意したし、角度の研究も終わっている。……ふふふ、完璧ね)
だが、運命というものは、残酷なまでに彼女の「見せ場」を奪い去る。
彼女が優雅に立ち上がろうとしたその瞬間、天幕の外から大地を揺るがすような歓声と、血相を変えた伝令の声が響き渡った。
「報告します! フェラン、無血開城! 城門が、内側から完全に開放されました!」
「……え?」
マリエールの手から、思わず作戦図が滑り落ちた。
耳を疑うとは、まさにこのことだ。
城門を開けたのは、あろうことかカイルたちであった。
彼らは前回の報告を終えた直後、マリエールから特段の命令を下されるまでもなく、独断で再潜入を果たしていた。
彼らにとって、マリエールの問いかけはすべてが「至上命令」だ。
「潜入できるかしら?」というマリエールの言葉を、彼らは「潜入して速やかに制圧せよ」という命令として受け取ったのである。
彼らが城内で行った工作は、正規軍の想像を絶するほどに合理的で、かつ生理的な恐怖を骨の髄まで叩き込むものだった。
城主や重臣たちの寝所に、音もなく忍び寄り、その枕元へ「いつでもお前の首を刈れる」という意思表示として、王国の紋章が刻まれたナイフを深く突き立てたのである。
事実、闇に潜む彼らの姿を不幸にも目にしてしまった数名の重臣や、指揮官たちは、叫ぶ暇もなくその首を断たれ、物言わぬ骸と化していた。
翌朝、目覚めた者たちを待っていたのは、冷え切った高級将官の死体と、枕元に深々と突き立てられた血染めのナイフという、逃れようのない「死の宣告」であった。
姿の見えぬ処刑人への恐怖は、音もなく城内を駆け巡り、爆発的な勢いで兵士たちを恐怖で染めていった。
一方で、空腹と疲弊で極限状態にあった一般兵たちの間には、ある「毒」のような噂を爆発的に流布させた。
「……おい、聖女の神剣を知っているか? あれは城壁も鎧も意味をなさない。今までいくつもの難攻不落の砦があの光に焼かれ、塵に帰してきたことか。明日には総攻撃が始まる。だが、聖女は、剣を捨てて降った敵には、等しく慈悲を与えるという。……お前はどうする? 神と戦うか?それとも聖女の慈悲に救われるか」
姿の見えない「死神」への恐怖と、聖女への「畏怖」。
二つの感情に挟み撃ちにされた敗残兵たちは、戦う前に戦意を喪失し、我先にと武器を捨てて城門へと殺到したのである。
戦後、陥落したフェランの領主館にて、マリエールはカイルたちを全将軍の前へと呼び出した。
「カイル。そして皆。あなたたちの働きは、数万の将兵の命を救い、この地に流れるはずだった血をせき止めました。……その功績に対し、これよりあなたたちを、私の直轄部隊として正式に叙任します」
マリエールの凛とした宣言とともに、側近のピエールが用意していた「漆黒の軽鎧」が恭しく運ばれてきた。
鈍く光る黒鋼の意匠は、闇に溶け、夜を駆ける彼らにふさわしい、死神のような冷徹な美しさを湛えている。
「カイル、あなたに騎士爵を。そして幹部たちにもそれぞれ騎士階級を授けます。構成員全員を正規軍階級とし、これよりあなたたちは『ル・ルゥ・サングレ(灰色の狼)』を正式に名乗りなさい。闇の任務に就く時以外は、その黒き制服が私の信頼の証……私の『誇り』です」
「……騎士……。下水で泥水を啜り、誰からも名前を呼ばれなかった俺たちが……騎士だと?」
カイルは、まるで壊れ物を扱うような手つきで、授けられた漆黒の胸当てに触れた。
かつて彼らを縛っていたのは、飢えと憎悪という名の鎖だった。
だが今、その鎖は主君への絶対的な忠誠という名の、誇り高き絆へと変わった。
「……マリエール様。この鎧、そしてこの命。あんたを裏切るなんて選択肢は、俺たちが何度生まれ変わろうと、地獄に落ちようとあり得ねえ。……命どころか、魂ごと、あんたに捧げるぜ」
カイルの絞り出すような言葉に、黒き制服に身を包んだ若者たちが一斉に膝を突いた。
彼らは、自分たちの弱さ――溢れ出る涙を見せたくない一心で、深く、深く首を垂れる。
しかし、静まり返った広間に、耐えきれず漏れ出る嗚咽を隠すことはできなかった。
その光景を、腕を組んで見ていたガストンは「ふん、少しは様になったな」と強がりつつも、鼻を鳴らした。
だがその瞳は、かつてドブネズミと蔑んだ少年たちが放つ、一丁前の「戦士」としての殺気に、新たな時代の到来を肌で感じていた。
勢いに乗る王国軍。
南西平定まで、残るは港湾都市エメロードとブランのみとなった。
軍議の席で、マリエールは地図を指さし、今度こそとばかりに瞳を輝かせた。
「次はエメロードね。あそこは四方を運河と海に囲まれた『水の要塞』。……ふふ、今度こそ、私がウリエルの剣を振るって、その青い海を純白に染めてみせるわ。……今度こそ、私の活躍できる戦場にしたいのよ!」
マリエールが少しワクワクした様子で、半分本音を漏らしながら独り言をつぶやいた瞬間。
物陰で、ある種の「危機察知能力」を全開にして聞き耳を立てていたガストンが、バネ仕掛けのように飛び出してきた。
「させませんぞぉぉ!! 聖女様に剣など抜かせません! 何が神剣! 何が純白! 貴女様はただ後ろで微笑んでいればよろしいのです! ……エメロードは海路が要所。ならば、あいつを呼ぶしかありませんな!」
「ガハハハハハハ! 随分と威勢がいいじゃねえか、ガストン殿!」
豪快な海の男の笑い声。
重厚な扉を蹴破らんばかりの勢いで現れたのは、アルシエル王国第四将軍、ジャン・ド・ラ・メールであった。
海軍提督でもある彼は、潮風の香りを纏った豪奢なマントを翻し、自信に満ちた不敵な笑みを浮かべた。
「お呼びかな、ガストン殿。……そして、美しき我が主、マリエール様」
「ジャン将軍……。ずいぶんと早い到着ですね」
呆気にとられるマリエールに、ジャンは恭しく跪きながらも、その瞳は野心的に燃えていた。
「エメロードの攻略、このジャンの無敵艦隊にお任せを! マリエール様、あんな真珠のような街を、神剣の熱で焼くのは勿体ない。……我が艦隊の大砲で度肝を抜き、この新入りの狼たちの手引きがあれば、あそこは三時間で貴女様の私有庭園に変わりますよ」
「ジャン将軍、少々気合が入りすぎてはいませんか?」
微笑むマリエールの問いに、ジャンは分厚い胸をドンドンと叩いて答えた。
「聖女様に! 我が艦隊の! 勇姿をお見せできる絶好の機会を、このジャンが逃すはずがございません! カイル! 貴殿ら影の狼、港の防波堤と停泊船の情報をすべて洗い出せ! 海から私がまとめて叩き潰してやる!」
カイルはジャンの気圧されるような熱量に、一瞬だけ目を細めたが、すぐに不敵な笑みを返した。
「了解だ、提督。……マリエール様、海の狼と影の狼、どちらが先にエメロードの首を獲り、貴女様に捧げるか……特等席で見ていてください」
マリエールの「格好よく活躍したい」というささやかな願いをよそに、過保護な将軍と忠実すぎる狼たちは、彼女に指一本動かさせまい、一滴の血も流させまいと、かつてない熱量で競い合い始めたのであった。
(……ねえ、誰か私の話を聞いてる? 私、練習したのよ? 聖女ポーズ、もう……)
マリエールの心中での叫びは、またしても男たちの熱狂的な忠誠の咆哮にかき消されていくのであった。




