第45話 優しい占領
南西部の物流を束ねる巨大な拠点、拠点都市オセル。
その天を突くような重厚な城門が、敗北の証として力なく、ゆっくりと開け放たれた。
城壁の内側に広がる街並みは、一見すれば普段と変わらぬ静謐を保っているように見えた。
しかし、その静寂は平和な日常によるものではなく、死に直面した獲物が身を竦めるような、極限の緊張と恐怖によって生み出されたものだった。
市民たちは家々の戸を固く閉ざし、わずかな隙間や窓の端から、息を殺して外の様子を伺っていた。
大陸の歴史において、占領軍が入れ替わる瞬間というものは、往々にして略奪と暴行、そして絶叫が街を支配することを意味する。
敗れた側の財産は勝者のものとなり、女子供の尊厳は踏みにじられるのが、これまで彼らが知る「戦争の常識」であった。
「……来るぞ。アルシエルの軍勢だ。頼む、神様……せめて子供たちだけは……」
暗い部屋の隅で震える父親が、幼い娘を背後に隠しながら祈るように呟く。
だが、入城してきたアルシエル王国軍の姿は、彼らの絶望に満ちた予想を、その根底から鮮やかに覆したのである。
「略奪、暴行は聖女マリエール様への冒涜である! 我らはあの方の慈愛の体現である!」
将軍たちの厳しい叱咤を待つまでもなく、末端の兵士たち一人ひとりが、まるで神聖な儀式に臨むかのような厳粛な面持ちで歩を進めていた。
彼らにとって、この占領は単なる軍事的勝利ではなかった。
最愛の主君であるマリエールが「一滴の血も流さない」と決意し、そのために自ら単独で先陣を切った、いわば「聖域」の拡大であった。
兵卒の中には、聖女の献身に目に涙を浮かべたままの者も少なくはなかった。
主君が泥を被り、命を削ってまで守ろうとした無辜の民を傷つけることなど、軍規以前に彼らの鋼鉄の忠誠心が許さなかったのである。
「おい、見ろよ。あの兵士たち……店に手を出さないどころか、道端で転んだ老婆に手を貸しているぞ」
一人の市民が、驚愕に目を見開いて呟いた。
その視線の先では、鋼の鎧を纏った猛々しい兵士が、跪いて老婆の荷物を拾い集め、優しく肩を貸して歩かせていた。
「本当だ。それだけじゃない、あっちは炊き出しの準備を始めている……。あんなに清廉で、規律正しい軍隊、今まで見たことがない。やはり、噂は……あの『聖女様』の噂は、真実だったんだ!」
恐怖の薄氷は、陽光に晒された雪のように瞬く間に溶け去り、街を支配していた空気は熱狂的な歓喜へと塗り替えられていった。
一人、また一人と家から這い出した市民たちは、やがて奔流となって道端に溢れ出した。
彼らは兵士たちに向けて惜しみない感謝の言葉を投げかけ、手元にあるわずかな花を投げ、あるいは地に跪いて涙を流した。
「聖女様!」
「マリエール様!」
「我らをお救いくださった!」
地響きのような市民の叫び声が、石造りの街並みに反響し、空へと突き抜けていく。
その熱狂の渦の中心を、マリエールは白馬で静かに進んでいた。
周囲を固める将軍たちは、市民たちの熱狂に誇らしげな表情を浮かべつつも、一方でその警護の手を緩めることはない。
「マリエール様、ご覧ください。あの方々の瞳を。……貴女様が命を懸けて守った光が、今、この街全体に広がっておりますぞ」
ガストンが、未だに少しだけ震える声でマリエールに語りかける。
彼の瞳には、主君への深い敬意と、無事に彼女をこの熱狂の中に届けられたことへの安堵が滲んでいた。
しかし、当のマリエールは、聖女としての完璧な慈愛の微笑みを顔に張り付けながらも、心中では相変わらず、深い溜息を吐いていた。
(……ええ、確かに素晴らしい光景だわ。兵士たちが誇らしく、市民たちが幸せそうで、私の理想通りの『平和な占領』が実現している。……でも、でもね! 本来なら、あの時計塔の上で、純白の光り輝く神剣を掲げた私の格好いいポーズは、一体どこへ行ってしまったのかしら……?)
マリエールは、熱狂する民衆に優雅に手を振り返しながら、こっそりと唇を噛む。
(あんなに練習したのに。練り上げたセリフ……。今の私はただ馬に乗って運ばれているだけで、なんだか美味しいところをすべて兵士たちの突撃に持っていかれたような気分だわ。これでは、ただの『運ばれているお人形さん』じゃない!)
彼女の軍略家としての冷静さは、この「優しい占領」がもたらす政治的メリットを十分に理解していた。
だが、彼女の中にわずかに残る、年相応の……あるいは前世で報われなかった反動としての「承認欲求」が、この完璧すぎる無血開城に、ほんの少しだけ不満を漏らしていたのである。
(次は……次のフェランこそは、絶対に。ガストン将軍が感動のあまり泣き出す前に、私が主役として、完璧に、最高に格好よく『神剣』を披露してやるんだから!)
聖女の心に秘められた、ささやかで、かつ執念深い「見せ場へのこだわり」。
それを知る由もない市民たちは、ただただ彼女を「神の遣い」と信じて疑わず、そのあまりの神々しさに、街の至るところで再び大きな歓声が沸き上がるのであった。




