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第37話 ごめんなさい。お待たせしたかしら

 アルシエルの離宮に、不釣り合いな怒声が響き渡った。

 急報を受け、馬を飛ばして駆けつけたクロヴィス王子は、寝室に横たわる変わり果てたマリエールの姿を見て、激しく狼狽した。

 かつての「光り輝く聖女」であった頃の面影はどこへやら、今の彼女は今にも消えてしまいそうなほど白く、儚い。


「なぜだ……なぜ彼女にここまでさせた! お前たちは何を見ていたのだ、この無能どもが!」


 王子の怒りは、「王子が愛する女」を傷つけたという事実に対する嫌悪であった。

 だが、その怒声を浴びせられたガストンをはじめとする将軍たちは、反論する気力すら残っていなかった。

 彼らはただ、自らの無力さと不甲斐なさに項垂れ、石像のように沈黙を守る。


 戴冠式まで、あと五日。

 この式典は、マリエールが戴冠するわけではない。

 しかし、彼女という「聖女」が不在の戴冠式など意味が半減する。 

 聖女のいない状態で行われる式典の準備は、残酷なカウントダウンに等しかった。


 その日の夕刻。

 窓から差し込む茜色の陽光が、寝室を穏やかに染め上げた時、奇跡は静かに訪れた。

 三日三晩、まともな食事も取らずに彼女の体を温め続けていたエミリの掌の中で、小さな変化が起きた。


「……っ!?」


 微かな、だが確かな指先の震え。

 その温もりの変化に、誰よりも早く気づいたエミリが弾かれたように顔を上げると、伏せられていた長い睫毛が微震し、ゆっくりと、深い湖の底から浮上するように瞼が持ち上がった。


 その場に同席していた将軍たちは、一斉に色めき立った。


「……マリエール、様……?」


 エミリの震える声が静寂を切り裂くと同時に、重苦しかった寝室の空気は、沸き立つような歓喜と衝撃に塗り替えられた。


「……マリエール様……?」


 次に、縋るような声をレオンハルトが漏らす。

 すると、マリエールはゆっくりと視線を向け、弱々しくも慈愛に満ちた微笑を浮かべた。


「あ……レオン、様……。ふふ、そんなに怖い顔をして……どうなさったの?」


 開かれたのは、どこまでも深く、透き通ったサファイアブルーの瞳。

 マリエールは、やつれた将軍たちが自分のベッドを囲み、まるで迷子になった子供のような顔で自分を見つめているのに気づくと、いつものように優しく、けれど少し申し訳なさそうに微笑んだ。


「皆さん、ごめんなさい……。少し、欲張りすぎちゃったみたい。……心配を、おかけしました」


「お嬢様ぁぁぁ!! よかった、ああ、本当によかったぁ!!」


 その言葉が引き金だった。

 巨漢のガストンが子供のように声を上げて泣き崩れ、その場に膝をつく。

 ロランやエティエンヌも堪えきれず、顔を背けて目元を強く拭った。

 大陸最強と謳われた将軍たちが、一人の少女の目覚めに、文字通り泣き虫となって安堵を露わにした瞬間であった。


 数刻後、体調がわずかに安定したマリエールは、自分の不在を命懸けで守り抜いた少女、エミリと対面した。

 マリエールは、意識が混濁していた夜、自分を抱きしめてくれていた温もりの主が誰であったのか、はっきりとは思い出せない。

 だが、目の前の少女を見た瞬間、魂の深いところで理解した。


「あなたが……私の事を温めてくれたのね?」


 マリエールが穏やかに声をかけると、エミリは恐縮のあまり全身を震わせ、床に平伏しようとした。

 彼女にとって、マリエールは自分が触れる事など許されない高貴な人物だったからだ。

 しかし、マリエールはそれを許さず、細い腕を伸ばしてエミリの手を取り、ベッドの傍らへと引き寄せた。


「エミリ。私を温めてくれただけではなく……私の代わりに、戦場にまで立ってくれたのね?……ありがとう。あなたがいてくれたから、たくさんの人たちが救われたわ……怖かったでしょう?」


 本物の聖女の、あまりにも慈愛に満ちた言葉。

 その瞬間、エミリの瞳から大粒の涙が溢れ出した。

 戦場で敵軍を睨みつけた時も、将軍たちに啖呵を切った時も枯れることのなかった緊張の糸が、主君の優しさによって解かれたのだ。


「……マリエール様、私、私は……ただ、あなたが救ってくれたこの街を、壊したくなくて……っ」

 泣きじゃくるエミリの頭を、マリエールは愛おしそうに抱きしめる。


 この日を境に、エミリの処遇は一変した。


 彼女の存在は最高位の国家機密とされ、彼女は「聖女の傍付き」とされた。

 だがその実態は、マリエールと全く同じ教育を施され、同等の待遇を与えられ、生活のすべてを共にするという異例の王命が下ったのである。

 

 この真実を知るのは、アルベール王と将軍たち、そして聖女付きの執事やメイドといった、ごく一部の限られた者のみであった。

 徹底した緘口令が敷かれる中、エミリにはマリエール不在の折には、いつでも「聖女」として振る舞うことが義務付けられたのである。


 それは、前世からずっと、孤独な「聖女」として生きてきたマリエールにとって、生まれて初めての経験だった。


「ねえ、エミリ。このお菓子、見て。とってもかわいいわよ」

「聖女様……あ、いけない。マリエール様。これ、本当に美味しいですね! こんなに甘いもの、生まれて初めて食べました」


 二人は驚くほどの速さで打ち解けた。

 夜になれば、広い天蓋付きのベッドで二人の少女は寄り添うようにして眠りに就く。

 それは毎晩マリエールを襲う酷い寒気から、エミリがその体温で彼女を温めるためであったが、その睦まじい様子は誰の目にも仲の良い双子の姉妹にしか見えなかった。

 

 マリエールにとって、エミリという「自分と同じ目線で話せる存在」は、どんな高価な薬よりも、どんな神の奇跡よりも深く、彼女の心を癒やしていった。


 これ以降、聖女騎士団の行軍には、特別な一台の装甲馬車が帯同することとなった。

 白磁の塗装に金細工が施されたその馬車は、マリエールの休息のため、そしていかなる時も「聖女」を代行できるよう、エミリが待機するための移動室であった。


「……お嬢様、もう無理はしないで下さい。我々が、そしてエミリが、あなたの盾になりますから」

 馬車の御者台で、ピエールが誰に聞かせるでもなく静かに呟いた。

 その隣では、ガストンとレオンハルトが馬を寄せ、誓いを新たにしたような鋭い眼光で周囲を警戒する事になる。


 

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