第35話 完璧な勝利
アルシエル教皇庁の一室。
卓上に広げられた地図を囲む将軍たちの顔には、カサンドラの勝利の余韻など微塵もなかった。
そこに漂うのは、重く、粘りつくような焦燥感だ。
「八千の敵軍が、アスター平原まで二刻の距離に迫っている。……こちらの数は一万一千。だが、主力である聖女騎士団と第一軍団は、連戦の疲労と、何よりマリエール様の容態を知って士気が凍りついているのだ。彼らには隠しようがなかった……」
ガストンが苛立ちをぶつけるように拳を卓に叩きつけた。
「敵の狙いは明白だ。奴らはマリエール様の『安否』を確認しに来ている。もしあの方が不在だと、あるいは戦えぬ体だと知れば、奴らは絶望から狂犬へと化すだろう。一万一千が数で勝るとしても、カサンドラで守り抜いた『死者ゼロ』の誇りは、ここで血の泥沼に沈むぞ」
「かと言って、この状況で陛下を戦場へ連れ出すなど、死ねと言っているようなものだ!」
ロランの怒声が響き、軍議は絶望的な行き詰まりを見せていた。
誰もが「マリエール様さえいれば」と願い、同時に「彼女を傷つけたくない」という矛盾に引き裂かれていたのである。
その時、部屋の隅でマリエールの予備の鎧を抱えて控えていたエミリが、一歩、光の中へ踏み出した。
「……私に行かせてください。私が、マリエール様として戦場に立ちます」
静かな、しかし驚くほど芯の通った声。
その一言が、熱を帯びていた軍議室の空気を一瞬で塗り替えた。
「何を馬鹿なことを!」
ガストンが、射抜くような鋭い視線で睨みつける。
「お前はただの、顔の似た子供だ。八千の軍勢の殺気がどれほどのものか分かっているのか? 立ちふさがるだけで、心臓の鼓動が止まるほどの重圧なのだぞ。一度でも、一瞬でも怯えを見せれば、すべてが……我らの嘘も、マリエール様の聖域も崩壊するのだ!」
ガストンはさらに言葉を重ねた。
それはエミリへの叱咤であると同時に、主君への深い畏敬の裏返しでもあった。
「あの方は……マリエール様は、唯一無二なのだ! 初めて謁見の間で相まみえた時、我ら将軍全員の殺気に包囲されながらも、あの方は眉一つ動かさず、我らをその眼光のみで跪かせた! あの凛冽たる覇気、付け焼き刃の演技で真似られるほど安いものではないわ!」
エミリは、喉を締め上げられるような恐怖に襲われていた。
だが、彼女は逃げなかった。
ガストンの荒々しい視線を、真っ直ぐに跳ね返したのだ。
「分かっています。私は偽物です。剣も振れず、奇跡も起こせません。……本物の足元にも及ばないことも」
「ならば何ができるというのだ!」
「『一歩も引かない』ことだけです」
エミリの声に、静かな熱が宿り始める。
「マリエール様は、私たちが震えていた時、ただ一人で泥の中に降りてきてくださいました。あの方が今、重すぎる荷物を下ろして眠っておられるのなら……今度は私が、その重さを受け止める番です。八千の敵が恐れているのは、王国軍ではありません。マリエール様という『神』の影です。ならば、私はその影を完璧に演じてみせます。たとえ、その場で心臓が止まっても」
「……失敗すれば、お前の命はないのだぞ」
それまで沈黙を守っていたレオンハルトが、絞り出すように言った。
その瞳には、騎士としての矜持と、一人の少女を地獄へ送り出すことへの忌避感が入り混じっている。
「敵の前にたった一人で出る。それは死刑台に上がるよりも恐ろしい孤独だ。我々は騎士だ。少女一人を盾にして生き延びるなど、誇りが許さん」
「……その誇りで、味方の兵たちの命を守れるのですか?」
エミリの鋭い問いに、レオンハルトは息を呑んだ。
「マリエール様が一番大切にしていたのは、騎士の誇りではなく、兵士たちの、そして民の命でした。……私が死んでも、一万一千の兵が助かるのなら、マリエール様はきっと私を褒めてくださるはずです」
重苦しい、まるで水底に沈んだかのような沈黙が部屋を支配した。
将軍たちは、目の前の少女の中に、眠れる主君の「強情なまでの慈悲」が乗り移ったかのような錯覚を覚えていた。
煤け、汚れ、継ぎ接ぎだらけの服を着ているはずの彼女が、今は誰よりも眩しく、そして気高く見える。
エミリの真っ直ぐな視線の先に、マリエールの峻烈な幻影を見たのは、決して一人や二人ではなかった。
「……レオンハルト、陣を敷け。アスター平原に、一万一千の『壁』を作るのだ」
ガストンが愛用のハルバードの柄を、ミシミシと音を立てるほど強く握りしめ、断腸の思いで決断を下した。
その声は、主君を欺く不敬への罪悪感と、それを上回る「一人の少女を死地に送る」という武人としての羞恥に震えていた。
「エミリ。……貴女がマリエール様の『影』として立つというのなら、我ら第一軍団と聖女騎士団は、その影を支える『暗闇』となりましょう。敵に、決して貴女の正体を悟らせない。……命に代えてもだ」
レオンハルトは、一歩前へと進み出た。
その動作一つに、第一軍団を率いる長としての威圧感と、一人の騎士としての凄絶な覚悟が宿っている。
彼はエミリの前に到達すると、跪くのではなく、ただ真っ直ぐに彼女の瞳を見据え、腰の長剣の柄に手をかけた。
「貴女が纏うのは、マリエール様の鎧だけではない。あの方が命を削ってまで守ろうとした、この国の兵たちの『命』そのものだ。……少女ひとりにその重荷を背負わせる己の無力を、私は生涯恥じるだろう」
レオンハルトの声は低く、地を這うような響きを持って室内を震わせた。
レオンハルトが掲げたその誓いは、室内の空気を物理的な質量を持って震わせた。
彼はそのまま、鋭い眼光をアスター平原の彼方へと向けた。
その背中は、主君を失うかもしれない恐怖を押し殺し、マリエールが築いた平和を「嘘」を使ってでも守り抜こうとする、一人の騎士の苛烈な意志に満ち溢れていた。
軍議が終わり、出陣の準備のために廊下へ出たエミリは、壁に寄りかかり、今にも崩れ落ちそうになっていた。
歯の根が合わないほど、全身が震えている。
そこへ、ピエールが物音も立てずに歩み寄り、彼女の冷え切った手に温かいハーブティーのカップを握らせた。
「お見事でした、エミリ様。お嬢様なら、もっと冷たく、もっと頑固に仰ったでしょうが……。今の貴女の言葉は、騎士たちの魂を動かしましたよ」
「……ピエールさん、私、怖い……。馬に乗って、敵の前に出るなんて……本当は、今すぐ逃げ出したい」
「怖くて当然です。お嬢様だって、本当はそうだったはずですから」
ピエールはエミリの鎧の歪みを整え、彼女の背筋を優しく正した。
「奇跡を起こす必要はありません。神の剣を出す必要もありません。……ただ、マリエール様と同じように、目の前のゴミを払うような『不機嫌な顔』をなさってください。それだけで、罪を抱えた敵の心は折れます。……貴女は、独りではありませんよ」
そして今、エミリは一万一千の軍勢が二道に割れたその中央を、ただ一人進んでいる。
朝日に照らされたアスター平原。向かい合うのは、殺気立つ八千の敵軍。
エミリの瞳は光らない。
だが、マリエールから借りた天使の鎧が放つ銀色の輝きと、彼女自身が抱く「死の覚悟」が、その佇まいに人知を超えた凄みを与えていた。
敵の将兵が、恐怖で喉を鳴らす音が聞こえるほどの静寂。
少女は一言も発さず、ただ傲然と敵陣を見下ろした。
その瞳には、ピエールから授けられた孤独な「不機嫌さ」が、完璧な形で宿っていた。
彼女は焦点の合わぬ瞳で、八千の敵軍を、その魂の奥底まで凍りつかせるような冷徹さで見据えたのだ。
敵陣まで届く距離で馬を止めると、エミリは深く息を吸い込んだ。
その声は、震えを殺し、マリエールがかつてカサンドラで見せた峻烈な響きを、寸分違わず模倣していた。
「西方二都市の将兵たちよ、聞きなさい。……速やかに武器を捨て、降伏なさい」
敵兵の魂の芯まで凍結させんとする、冷徹なまでの「聖女」の宣告。
平原に響き渡るその声に、八千の敵軍が目に見えて動揺し、後退りした。
エミリはさらに言葉を重ねる。
「今なら命は保証しましょう。ですが、今日の私はひどく気が立っている。……いつものような慈悲を期待しないで。このまま私の前に立ち塞がると言うのなら――一人残らず、神の火で焼き尽くすのみです」
エミリの瞳は光っていない。聖剣も顕現していない。
しかし、敵兵たちの脳裏には、カサンドラで一万九千名を無慈悲に磨り潰した「死神」の残像が、鮮明に焼き付いていた。
彼らの抱く「罪悪感」と「恐怖」が、目の前の少女をマリエールへと錯覚させたのだ。
「……ま、マリエールだ! 本物の死神だぞ!」
「勝てるわけがない! 相手は神の化身だ、俺たちはここで魂まで焼かれるんだ!」
一人の絶叫が、堤防が決壊するように連鎖した。
武器を投げ出す金属音が、雨音のように平原に響く。
指揮官たちの制止も虚しく、八千の軍勢は戦う前に「精神」を完膚なきまでに破壊されたのである。
蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う者、自暴自棄になって小隊長を刺す者。
剣を交えることさえなく、王国軍を脅かした脅威は自壊し、霧消した。
本陣に戻ったガストンは、意気揚々と胸を張ってみせた。
「見たか! これぞ聖女様の威光! 我らがマリエール様は、そこにいらっしゃるだけで八千の敵を敗走させるのだ! ガハハハ!」
その高笑いは、かつてのような虚勢ではなく、主君への絶対的な信頼と、その「影」を見事に務めた少女への賛辞に満ちていた。
「……当然の結果だな」
第二将軍エティエンヌが、満足げに深く頷いた。
「マリエール様に剣を向けること自体が、神の理に背く大罪なのだ。あの愚か者共も、マリエール様を前にして、ようやく己の身の程を知ったのだろう」
第三将軍ロランも、誇らしげに自らの胸当てを叩く。
「ああ。あの口上を聞いた時、我ら兵たちの士気は最高潮に達した。あの方の背中がある限り、我らは不敗だ。……たとえ、あの方が言葉を発さずとも、その存在そのものが我らを導く光なのだから」
「……しかし、驚くべきはあのエミリという娘だ」
第七将軍シルヴァンが、遠く離宮を見上げて、神秘的なものを見るような目で呟いた。
「あの佇まい。マリエール様が宿ったかのような、神聖なまでの『影』だった。彼女は単に演じたのではない。マリエール様を信じ抜く心が、彼女を一瞬、本物の神の使徒へと昇華させたのかもしれないな」
「全くだ」
ガストンが誇らしげに鼻を鳴らした。
「あの娘も、我らと同じく聖女様に魂を救われた一人だからな。……さあ、急ぎ離宮へ戻るぞ! 真の主君が目覚める時、我ら全軍の勝ち鬨で、その目覚めを祝福して差し上げねばならん!」
勝利の宴に沸く宿営地を離れ、第一軍団長レオンハルトは、一人静かにヴァンスの離宮を仰ぎ見ていた。
掌に残る、眠れるマリエールの手の冷たさを思い出す。
(マリエール様……。貴女が孤独の中で築き上げた聖女という希望が、今、貴女が眠っている間もこの国を守り抜きましたよ。貴女の蒔いた種は、名もなき少女の中にまで、これほど強い根を張っていた)
その夜。
灯火が静かに揺れる寝室で、レオンハルトはいつものように彼女の手を握っていた。
エミリという少女が、命を懸けて守り抜いた静寂。
すると――。
レオンハルトの掌の中で、マリエールの細い指先が、微かに、だが確かな意思を持って、ぴくりと動いた。




