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第32話 連戦

 カサンドラ平原の本陣。

 先ほどまでの喧騒が嘘のように、雨音だけが重く響いている。

 捕虜の移送や負傷者の手当てで兵たちが慌ただしく動く中、マリエールは泥に濡れた地図を広げ、一点を強く指差した。


「……休みを削って申し訳ありません。ですが、今すぐ軍を動かします。狙うは西方三都市の一つ、商業都市『ヴァンス』です」


 その毅然とした言葉に、歴戦の猛者であるガストンですら、信じられないものを見るかのように目を見開いた。

「マリエール様! 今から、というのですか!? 兵たちは冷たい雨の中、二万の敵を相手に激戦を終えたばかりです。……せめて一晩、アルシエルで休ませてからでも遅くはないはず……」


「いいえ、ガストン団長。今夜。……いえ、この数時間こそが、唯一にして最大の好機なのです」


 マリエールの声には、一切の迷いがなかった。彼女の瞳は地図の先、まだ見ぬ戦場をすでに見据えている。


「ハルガルド軍の主力二万を完膚なきまでに叩いた今、ヴァンスを守る兵たちは、背後の盾を失い混乱の極みにあります。カサンドラの敗報が届き、彼らが絶望に沈み、あるいは防備を固め直す『前』に、我らが城門へ辿り着く……。これこそが、さらなる犠牲を出さないための、唯一無二の道なのです」


 マリエールは、奥歯を噛み締めながらかつての記憶を反芻していた。

 前世では、カサンドラでの消耗があまりに激しく、軍の再編に手間取ってしまった。その隙に敵はヴァンスを要塞化し、奪還にさらに二年の歳月と数万の命を費やすことになったのだ。

(……あの過ちを、二度と繰り返すわけにはいかない。私の我がままで兵を歩かせても、彼らの命を奪うよりは数倍マシだわ)


 その時、沈黙を守っていた第一軍団長レオンハルトが、一歩前に進み出た。

「……マリエール様の仰る通りだ。鉄は熱いうちに打て、と言います。我ら第一軍団、貴女の勝利に酔いしれている今、疲労など忘却の彼方。今すぐ出陣いたしましょう!」


「レオンハルト、お前……」

 ロランが苦笑しながらも、腰の剣をカチャリと鳴らした。

「マリエール様。貴女が『今だ』と仰るなら、それが天の定めた好機なのでしょう。……全軍、進軍の準備を。この雨を味方につけ、夜明けまでにヴァンスの城壁を拝むとしましょう。……皆、マリエール様の奇跡をもう一度、間近で見たいのですよ」


「ありがとうございます、皆さん。……頼りにしています」


 マリエールが、霧を晴らすような清らかな微笑みを浮かべると、将軍たちは口々に「ハッ!」「御意に!」と叫び、嵐のように本陣から飛び出して行った。

 彼らの心には、雨の不快感も重い鎧の疲れもなく、ただマリエールと共に「歴史の不可能を可能にする」という、かつてない高揚感が満ち溢れていたのである。


 将軍たちが去り、慌ただしい喧騒が遠のいた本陣に残ったのは、マリエールとレオンハルト、そして付き添いのピエールだけだった。


「マリエール様、少しお顔が赤いようです。……無理をなさっていませんか?」


 レオンハルトが、その冷ややかな鉄の香りを纏いながら、心配そうに距離を詰めた。彼の手が、そっとマリエールの額に触れそうなほど近くに寄せられる。


「……大丈夫です、レオンハルト様。ただ、少しだけ……。皆さんの熱気に、当てられただけですから」


 そう言って顔を伏せるマリエールだったが、その実は、自分を信じて疑わない騎士たちの想いに胸がいっぱいになり、心拍数が制御不能になっているだけだった。

 冷たい雨の中にいるはずなのに、彼の視線が触れる場所から、体温がじわりと上がっていく。


「貴女の熱は、我らの希望の灯火です。ですが、どうか壊れないでください。……貴女に何かあれば、私の二本の剣は、その存在理由を失ってしまう」


 レオンハルトの囁きは、雨音に消えそうなほど静かだったが、マリエールの心に確かな震えをもたらした。

(落ち着いて、私。……今は、恋をしている場合じゃないわ。一万二千の命を預かっているのよ……)


 数分後、一万二千の軍勢は再び動き出した。

 勝利の地アルシエルへ戻り、温かなベッドで眠る道ではなく、西の果て、敵の本拠地へと続く泥濘の道へ。


「お嬢様、また無茶をなさって……。私はお嬢様の身体が心配で、白髪が増えそうです。戻ったら、特製のアツアツのスープを十杯は飲んでいただきますからね」


 ピエールが溜息をつき、呆れたように、しかし慈しむような目で愛馬を並べた。

「ええ、楽しみにしているわ、ピエール。お代わりも覚悟しておくわね」


 カサンドラ平原の勝利をすでに「過去」のものとし、マリエール軍は深い夜の闇を突き進む。

 商業都市ヴァンスの住人が、明日の朝、目を覚ました時に見るのは、ハルガルドの無機質な旗ではない。

 朝日に輝く、青く煌めく聖女の旗――それは、かつての絶望を塗り替える、希望の色彩になるはずだった。

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